チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2009年3月31日
ウーセル女史の反論
<嘗てのチベット(1950年以前)を悪魔化するプロパガンダ>
以下はPhayul に発表された、Voice of Americaの Zhang Nan氏の記事の一部です。
http://woeser.middle-way.net/
ウーセル女史は「嘗てのチベットは北京が描写するような<この世の地獄>では決してなかった」
「その頃はすべてのチベット人が、貴族も役人も仏教を信じていた。北京が誇張するほどひどい社会ではなかったはずだ」と話す。
<清朝時代に移入された拷問道具>
中国のオフィシャルな歴史ではチベットは昔、野蛮な封建農奴制下にあった、ということになっている。
北京で嘗て行われた「チベット展」でも、その必需品の一つは拷問道具であった。
檻、手枷、足枷、首枷、石それに目玉を刳り出すためのナイフ等だ。
ウーセル女史によれば、ラサには二つの小さな刑務所があったという。「20人ほどしか収容できない小さな刑務所だった。監視は至ってルーズで、受刑者は外に出かけて食を乞うこともできた。チベットの新年(ロサ)には受刑者もそれぞれの家庭に一時的に帰ることができた」という。
ウーセル女史によれば、もっとも残忍な拷問道具は清朝時代(1644~1912年)に内地から皇帝特使によりチベットに持ち込まれたものだという。
<地獄に住む農奴たち>の時代に一度の抗議活動もなかった。
「チベットの歴史においては、この点中国と異なり、飢餓により人々が死んでいくというような大規模な飢饉も、農民が反乱するということも一度も無かった。
一方中国の歴史には有名な農民一揆が何度も起こっている。チベットでは圧政からくる暴動は一度もなかった。」
ウーセル女史は疑問を呈する。もしも嘗てのチベットが「この世の地獄」であり、改革されたチベットが「この世の天国」であるならば、なぜ、北京の支配下にあったこの50年間に、かくも多くの抗議と暴動が終わりなく続いたのか?
昨年、抗議活動は記録的数に登り、チベット全土で、知識人も学生も立ちあがる事態となった」
「最初は蘭州の北西民族学院の学生数百人だった。そして、次に北京の民族学院、青海、成都の民族学院が続いた。大学だけでは無かった、中学校や小学校でも抗議が行われた。
初め、彼らは座り込んだ。去年の確か3月16日だったと思うが、彼らはバナーを掲げ、「我々は人権を要求する」「我々は自由を欲する」「チベット人殺戮を止めよ」とスローガンを叫び始めた。
興味深いことは、彼らの多くは所謂「農奴」たちの子弟だということだ」
ウーセル女史はチベット人の抵抗の理由について語る時、先にラギャ僧院の一人の僧侶が尋問中に逃げだし、黄河に身を投げ自殺したことを引き合いに出した。
ウーセル女史は2007年にこのラギャ僧院の高僧にインタビューをしたことがあるという。
その高僧によれば、(1950年以前)僧院には2500人の僧侶がいた。1958年の蜂起の後多くは僧院を追いだされた。逮捕された者のうち800人はツァイダム盆地(アムド)の塩鉱山の強制労働所に送られた。そのうち生還できたのは僅かに100人だけだった。
高僧の弟も文革時代の<闘争(タムジン)>に耐えきれず黄河に身を投げて自殺したという。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)