チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2009年3月30日
ヒマラヤ逃避行の末凍傷で両足切断・僧ミクマル
3月26日、ダラムサラ、ノルブリンカの本堂の寺守をしている、僧ミクマル・ツェリン43歳の部屋を訪ねた。
彼は凍傷により両足を膝下から切断しなければならなかった。
以下僧ミクマルの話:
(ヒマラヤの写真は雪の少ない、快晴下のものです。吹雪は想像して下さい)
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私はラサの南、ロカのヤルン・ダケリンの僧侶だった。
しかし、1993年秋、それまで比較的静かだった僧院に、中国人が沢山押しかけて来た。
「愛国教育キャンペーン」のグループだ。
ダライ・ラマ法王を非難し、共産党を讃えることを強要された。
拒否すれば僧院を追いだされる。
これが始まって間もなく、嫌になって勝手に実家に帰っているところを見つかり僧院に連れ帰されたことがあった。
それから、何かと目を付けられるようになった。
私は親友の僧侶とインドに行くことを話し合った。
決心して、少しのお金とツァンパを持って出発したが、本当にどう行けばよいのか全く知らなかった。
まずは、バスでシガツェまで行った。
シガツェで一泊し「サキャから南に下がればインドに行ける」と聞いたので、次にサキャまで行った。
サキャでバスを降り、南に向かって歩き始めた。
途中会ったおばあさんから「<チュテン・ニマ(太陽の仏塔)>というグル・リンポチェ(パドマサンババ)所縁の聖地に向かって歩いていけばいい。その先にインドに行ける峠がある」と教えられた。
途中に検問もあったが、「チュテン・ニマに巡礼に行くだけだ」と言うと通された。
(サキャからまっすぐ南に下りシッキムの北西、カンチェンチュンガ峰の北東に抜ける峠を目指したと思われる)
サキャから一週間ほど歩いてチュテン・ニマに着いた。
昔は大きな仏塔が建っていたと聞いたが、文革の時破壊され、今は小さな仏塔が建っているだけだった。
グル・リンポチェは嘗てこの道を通ってチベットに入られたそうだ。
峠を前に最後の村に数日留まった。
その間に、自分たちと同じように峠を越えてインドに行くという二人の若者と合流した。
雪が降り始めていた。
峠は遠くないはずだが、雲の中に入って全く見えない。
それでも、4人は出発した。
登り始めると吹雪となった。
雪は益々深くなり、腰の高さまであった。
峠の前では何度も滑り落ちた。
それでも昼ごろには何とか峠を越えることができた。
反対側は雪がさらに深かった。
道が全く判らなかった。
道に迷ったようだった。
暗くなるころ、大きな岩の下に洞窟を見つけた。
大きくはなかったが4人が横になることができた。
二人ずつ寄り添って横になったが、このとき我々は洞窟の入口側に寝た。
朝まで吹雪は続いた。
私は毛布を飛ばされまいと、右手を出して毛布を押さえていた。
この時、手を外に出していたが故に、後になってその右手の指先を失うことになるとは、その時思ってもいなかった。
嵐は止まず、一睡もできなかった。
それから四日間、吹雪の中を彷徨い歩いた。
休むと次にもう立ち上がれなくなるので、とにかく休まず谷の下方に向かって歩いた。
力尽きて倒れる仲間を何とか立ち上がらせながら進んだ。
死んだ方がましだと思った。
四日目に土地の遊牧民に出会い、彼の小屋に入ることができた。
ツァンパとお茶をもらった。
火が焚かれていて暖かった。
そこに、座りこむともう立つことができなかった。
しばらくすると足と腰が痛み始めた。
靴を脱ごうとしたが全く凍っていて脱げない。
遊牧民がナイフをだして、靴を切った。
靴は取れたが、その下の靴下は足の皮と張り付いており、脱がせば皮も剥がれるという状態だった。
遊牧民は「こんなにひどい凍傷は見たことがない!軍隊を呼んで助けてもらったほうがいい」と言った。
それでもそのままそこに3日いた。
その後軍を呼んでもらった。
ヘリコプターが来て私たちを軍の施設に連れて行った。
そこからさらにガントックの近くの病院に移された。
そこで、医者から「両足を切断しなければ、死ぬことになる」と言われた。
それだけは嫌だった。足が無くなるなんて考えられなかった。
二週間ほど拒絶し続けた。
病院に亡命政府の人が訪ねて来た。
彼は「足を今切らないと、本当に死ぬことになる。切ることを決心してほしい」
と私を説得した。
やっと決心をして、切断した。
悲しいことだった。
病院に二か月ほどいた後、インドの刑務所に9か月入れられた。
亡命政府の人に引き取られて刑務所を出て、
それから、インド政府からの身分証明書をもらうために、さらに7か月ガントックにいた。
そして、ダラムサラに来てやっと法王に会うことができた。
今はこうして義足を付けて歩くことができる。
長く歩くと痛むが普段は大丈夫だ。
足が無くなって良いこともある。
こうして、毎日外を出歩くこともなく、静かにお経を読み瞑想することができる。
法王の法話をテープで聴くのが一番の楽しみだ。
チベットに居た時は、身体は五体揃って丈夫だったが、心は常に抑圧され、少しも楽しくなかった。
今は身体はこんなだが、心は余程幸せだよ。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)