チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2009年3月29日
ナンパ・ラを越え吹雪に遭い凍傷で足先を失ったニマ・デキの話
昨日26日、N2と二人でナンパ・ラ(峠)を越え、足の指を凍傷で失った一人の女性を訪ね、話を聞きました。
彼女の他、もう一人同じく足の指を失った女性、両足を膝下から失った僧侶にも話しを聞きました。
近いうちに報告するつもりです。
今回はまず、ニマ・デキという30過ぎの女性の話です。
彼女は現在、ダラムサラはノルブリンカの近くに最近できた外人用仏教・語学センター、トゥサムリンで外人にチベット語を教えています。
春の花が一杯の小道を辿ってトゥサムリンに着きます。
彼女は1997年4月、ナンパ・ラを越えました。
峠を越えると途端に天候が急変し、吹雪が始まったと言います。
結局22名のグループの内、女の子ばかり4人の子供が亡くなり、3人が凍傷に罹ったのです。
まさに死の逃避行でした。
彼女は「地獄を見た」と言いました。
彼女はラサ近郊ペンボの出身。
ペンボのポト(ワ)尼僧院に14歳ごろ入りました。
以下彼女の話:
(ナンパラの写真は今年2月雪がなく天気のよい日のものです。場所は同じですが状況には天地の差があります)
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1997年、「愛国教育キャンペーン」が始まりました。
毎日尼僧院に警官やら役人やらが現れ、朝から晩まで「共産党を讃え、法王を非難する」という教育が続くのです。
ダライ・ラマ法王を非難する文章を暗記させられ、それを唱えることを強要されます。
3か月間も朝から晩まで、それは続いたのです。
逆らえば、尼僧院を追い出され、二度とチベットの中では尼僧院に入ることができません。
それだけではなく、村に帰って家の農業などの手伝いをする以外に法要を取り行うなどの宗教的活動は一切禁止されます。
村を離れる時には必ず警察に行き許可証を取らななければならないのです。
もしも、すべて中国の言う通りに従えば、その尼僧には「尼僧証明書」が与えられます。
結局その時110人いた尼僧の内、30人以上が尼僧院から追い出されることになったのです。
私のその内の一人でした。
追い出された尼僧たちの多くはインドに亡命することを考えていました。
しかし、それにはお金が要るのです。
親に言えば反対されることは目に見えていたので、私はこっそり、知り合いからお金を集めました。
そして1200元をガイドに払い、4月にラサからトラックで出発しました。
その時同じトラックに40人以上のチベット人が乗っていました。
トラックの荷台のドアを閉められると中は真っ暗です。
急に不安になりました。
何日走ったのか解りませんが、とにかく捕まりはしないかと不安でいっぱいでした。
トラックから下りて峠まで7~8日歩きました。
夜中歩くことが多かった。道は平たんではなく、幾つもの山を越えなければなりませんでした。
途中に3か所軍の施設があり、そこを見つからずに迂回するのが大変でした。
どこでも犬を飼っているので、犬に気づかれないようにしないといけないのです。
最後の峠の前の駐屯地の前には橋がありました。
ここを通るときには夜中、一人ずつ静かに渡り、しばらくしてまた一人という具合にして渡りました。
犬が吠えだすのではないかと非常に緊張しました。
そこをうまく抜け峠の下に着いた頃、一人の20歳ぐらいの女性が倒れて動けなくなりました。
ガイドはみんなに、行きたいものは先に行け、この子が回復するまで一緒に残るというものは残れ、と言いました。
結局グループは二つに分かれ、約半数の人は先に出発しました。
結局ここが運命の分かれ道ともなったのです。
先に行ったグループは何事もなく無事にカトマンドゥに到着したのでした。
それに比べ、一日遅れた自分たちのグループ22人、内子供6人は地獄を味わうことになったのです。
国境である、峠のラプツェにようやく到着した時はもう夕方でした。
突然、空が黒い雲に覆われ辺りはすっかり暗くなり、風が吹き、しばらくすると雪が降り始めました。
峠を少し下ったところにヤッパ(ヤクを連れた交易人)がテントを張っているのを見つけました。
そこに行きお茶とツァンパを少しだけ貰いました。
雪はひどくなっていました。
全員テントの周りの氷の上に数人ずつ固まって、上に毛布を掛けて横になりました。
非常に寒かったのですが、あまりに疲れていて、少し眠ったように思います。
朝、目が覚めて、起き上がることができません。
雪の下に埋もれていたのです。
何とかみんなで雪をかき分け這い出しました。
全員全身真っ白でした。
歩き始めましたが、雪は膝まであります。
吹雪です、風が強く、何度も飛ばされそうになりました。
道は複雑で何度も登り降りしなければなりません。
雪は止まず、前がほとんど見えませんでした。
その日一日歩き続け夕方、大きな岩の下に子供たちは横になり、他の者たちは再び雪の上で眠りました。
次の日には雪は腰までの高さに積もっていました。
吹きだまりに嵌ると頭まで埋まってしまうのです。
強風も止みません。
全員が一列になり、前の方で強いものが道を作り、間に子供たち、最後に女性が続いて少しずつ前進します。
しかし、風が強く前の人の付けた足跡もすぐに雪で埋まって消えてしまうのです。
もう下半身の服は下着まで濡れ、カチンカチンに凍っていました。
下半身の感覚が無くなっていました。
数時間歩いた後、ガイドは全員を集め点呼をとりました。
すると、子供が二人足りません。
誰も気づかない内に消えてしまったのです。
若い僧侶が何人かで探しに行きましたが、無駄でした。
吹雪でほとんど前が見えない状況では不可能でした。
諦めて先に進むことになりました。
窪地には雪が吹き溜って、そのまま歩けば全身完全に埋まってしまう場所もありました。
そのような場所では毛布を雪の上に広げ、その上を這って進むのです。
そんな場所の一つの前で10歳ぐらいの女の子がうずくまっていました。
声を掛けても「ううんん、、、」と言うばかりですでに朦朧としていました。
彼女を無理やり立たせ、一緒に窪地を渡りました。
毛布を広げてその上にうつ伏せになり、毛布の先を両手で持って少しずつ先に繰り出すのです。
こうして、何とかそこを抜けることができました。
そこからはその子を背中に背負って歩きました。
しかし、その子の足はまっすぐに硬直したままで、腕で私の肩を掴むこともできませんでした。
そのころ自分たちはグループから相当遅れていました。
同じように子供を背負った若いお坊さんと一緒になりました。
他の者たちはもう視界から消えていました。
励まし合いながら、必死で前に少しずつ進みました。
暗くなり掛けたころ、再び大きな窪地を前にして立ち止まっていた他の者たちと合流しました。
一人ずつ毛布を敷いて歩腹前進するので時間がかかるのです。
待つ間、私は背中に背負っていた女の子をそばに下ろし、座らせました。
そして、しばらくして、ふと横を向いて気付くと、もう彼女は横たわり、冷たくなって死んでいました。
食べるものもなく、こんな吹雪の中(5000m以上の高地)を二日歩き続けたのです。
死んでも当たり前でした。
みんな、そのまま死んだ子供をそこに置いたまま、先に進みました。
その日の夜は峠を越えて初めて、石で壁が積まれ屋根の載った小屋の中で横になることができました。(おそらくルナックのことでしょう)
一人の女の子が「アラー!アラー!」「ウウ、、、ウウウ、、、」と呻き声を上げ続けていました。
ガイドが自分のところに来て、「あの子に毛布を掛けてやりたいから貸してくれ」と言ってきました。
仕方なく渡しました。
夜中近くになって、その子の呻きが一段と激しくなった。
そして、しばらくして全く静かになった。
ガイドが「死んでしまった」と言いました。
女の子は自分の毛布に包まれて死んでしまいました。
この日9歳から12歳までの女の子ばかり4人亡くなったのでした。
次の日の朝には雲が切れ、空は明るくなりました。。
しかし、雪の深さは胸の高さです。
前に進むことは容易ではありません。
その上、陽が照ったことで全員すぐに雪目に罹り、目が痛く霞んできました。
昼ごろ下の方からヤクを連れた遊牧民(シェルパ)が自分たちに声を掛けてきました。
彼らと合流し、お茶をもらい、ツァンパを分けて貰いました。
彼らはそこまでの道をちゃんと作っていました。
もしもここで彼らに遭わなければ全員死んでいたと思います。
それほど、みんなすべてを使い果たし、憔悴し切っていたのです。
夕方、彼らの小屋に着きました。(チュレと思われる)
中には大きな火が焚かれ、小屋の中は非常に温かでした。
部屋の隅に座り込んでいました。
すると突然足から腰にかけて火が点いたような痛みが走りました。
痛みは次第に強くなってきて、私は我慢できず悲鳴を上げました。
他にも数人が同じように痛みを訴え始めました。
このとき、初めて足が凍傷になったことを知ったのです。
急に温めたことも悪かったようです。
それからが本当の地獄でした。
さらにナムチェ・バザールまで2,3日はかかりました。
痛む足を引きずりながら歩いたのです。
中国兵に捕まるか、死んだ方がましだ、と何度も思いました。
ナムチェには夜中に着いて、マニ堂の中で寝ました。
コンクリートの床が冷たかったことを覚えています。
ナムチェを過ぎて坂を下って橋を渡ったところで二人の外人に出会いました。
イギリス人のカップルでした。
彼らは私の様子を見て声を掛けてきました。
男性の方が「自分は山に詳しく、凍傷の手当も知っている」と言って
私の足を見たいといいました。
近くの食堂に入り、靴を脱ぎ足を見せました。
足の先が赤く腫れていました。
彼はたらいに湯を一杯作ることを店の者に頼みました。
湯ができた後、そのたらいに足を浸けさせられました。
すぐに私は悲鳴をあげました。
全身に再び火が点いたような痛みが走ったのです。
それでも足を出すことは許されませんでした。
まるで拷問です。
足の先はしばらくすると赤黒く変色してきました。
そのイギリス人はそれでもやさしい人たちでした「必ずあなた達を無事にカトマンドゥまで届けよう。心配しないで」と言いました。
彼はすぐにルクラまで歩いて行って、自分たちのために飛行機のチケットを手に入れようとしました。
しかし、身分証明書のない者にはチケットは売れないと言われたそうです。
仕方なく、彼は私ともう一人の同じように足が凍傷になった女の子をナムチェの上、コンデにある病院に連れて行くことに決めました。
竹で担架を作り身体をそこに縛りつけ、一人四人掛りで急な坂を再び引き返したのです。
病院では、点滴も受け、治療も受け、食事もちゃんと与えられました。
イギリス人は二日後にはビザが切れるからと言って帰ってしましました。
良くしてくれた二人が帰った後、急に今まで味わったことのないほど寂しさと不安を感じました。
結局そこに一か月半ほどいました、その間にも他に9人の同じように亡命してきたチベット人で凍傷や病気になったものが運び込まれてきました。
近くの飛行場にネパールのネレンカンの手配したヘリコプターが来て全員カトマンドゥまで送られました。
カトマンドゥで凍傷に罹った足の指を切断する手術を受けました。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)