チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2009年3月25日
2006年ナンパ・ラ事件証言談
二日前ブログでも少しカンゼの「耕作放棄運動」に関連してお伝えした、ロプサンの話をもっと詳しくお伝えします。
31歳ロプサン・チュデンはカム、カンゼの出身、2006年9月終わりに総勢75人のグループと共にナンパ・ラ(峠)を目指し、峠の直前で中国軍に見つかり、発砲を受けた。
グループの中の16歳の尼僧は射殺された。
この事件は偶々現場に居合わせた外国登山隊が撮影した映像が世界中に流されたことで有名になった。
この有名なビデオの中には登山隊に匿われ、トイレに隠れる一人のチベット人の姿が映っています。
そのチベット人がこのロプサンなのです。
彼の映像が有名になったことで、彼の亡命の事実が中国側に知れてしまいました。
彼は実はダラムサラまで来て、法王に謁見した後はすぐに故郷に帰るつもりだったといいます。
しかし、中国側に自分の事が知れたとなってはすぐに帰ることも危険に思われました。
故郷に残した妻の元には警官が度々来て「旦那はどこに行ったのか?早く帰るように言え」と脅すようになった(これは今、ダラムサラにいる奥さんから聞いたことです)。
近所のチベット人たちは、警官に目を付けられると危ないことになるかも知れない、逃げたほうがいい、と言うようになりました。
それで次の年、妻と二人の子供も亡命を決心したのです。
ですから今はダラムサラで夫婦と2人の子供、4人で暮らしています。
それでも故郷のカンゼに残した老いた両親を助けるために早く帰りたいと言っています。
さて、大きな絵の中の一人一人を指示しならが語ってくれた話が以下です。
ここ(下の方)に湖があるがこのそばで前の日の夕方みんなは仮眠した。
しばらくして起き上がってまた、歩き始めた。
サキャから歩き始めすでに二週間以上も歩き続けていた。自分を含め多くの者たちは食糧が尽き、二日前から何も食べていなかった。
立ち上がるものきつかった。
しばらく歩いて、多くの者がついて来ていないのに気づいた。
湖のそばの道は険しく足を滑らせば湖に落下するような道ばかりだった。
下のほうで子供二人が助けを呼んでいた。
助けてくれ。一緒に連れて行ってくれと叫んでいた。
仕方なく、二人を助けに行った。
それで気付くと自分は列の一番後ろになっていた。
少し上に行くと軍隊の駐屯地があった(絵左下)。
迂回しようとしたが見つかりそうになったので諦め、そのまま下の方の道を行った。
まだ道は暗かった。
川を渡った頃、左上の丘に銃を持った中国兵の姿を見かけた。
自分達を追っているようだった。
そのまま、雪の中を登った。
みんなはかなり先に進んでいた。
登山隊のテントが沢山見えた。
その方に向かって急いで登ったが、小さな子供二人が一緒だったので、上の方から近づいてきた兵隊に追いつかれそうになってきた。
中国兵が「止まれ!止まらないと撃つぞ!」と叫んだ。
そのまま、先に進むと本当に撃ってきた(絵・テントの前でビデオを構えている人の下に二人の子供を前後に連れたロプサンが描かれている。その左下に撃って来た兵士がいる)。
何発も撃ってきた。
子供を置いて自分は坂を弾を避けながら、ジグザグに登って行った。
弾は当たらなかった。
外人のテントが沢山あるところに辿り着き、匿ってもらった。
兵隊たちは先に登って行ったグループを追いかけて上の方に登って行った。
さっき自分に向かって撃ってきた同じ兵士が撃った弾が一人のチベット人の足に当たって、彼が倒れるのが見えた。
それは同じカンゼ出身の友人だった(絵・右手峠の下に足から血を流す人がいる。撃ったのは絵中央、右上に銃を向けるグリーン色の兵士)。
兵隊は最初5人、すぐ後に7人が加わり、午後にはさらに20人位が集まって来た。
その先の氷河が平らになった辺りで今度は尼さんが撃たれて倒れるのが見えた(峠左手)。
其のあと二人の兵士が倒れた尼さんを引きずり降ろしていた。
撃ったのは同じ兵士だ。
彼は終始先頭にいて一番沢山撃っていた。
兵隊たちが又下に向かってきたので、私はトイレに隠れた。
外に、兵隊が集まり、中の一人が「誰かチベット人を匿っているだろう。すぐに引き渡さないと容赦しないぞ!」と登山隊を脅しているのが聞こえた。
結局そのトイレに昼12時頃入り夜中までそこに隠れていた。
夜中になり、私は峠まで一人で登ろうと、外に出て歩き始めた、しかし、しばらくして、上方には右にも左にも兵士がそのまま陣取っていることが判った。
仕方なく、氷河の割れ目に身を隠した。
寒かった。
リュックは最初に発砲を受けた時投げ捨てた。
何も持っていない。
食べるものもない。
氷をかじるばかりだ。
一日そこにいて、死にそうになったので一旦外人のテントに帰った。
少しそこで休ませてもらった。
次の夜にもまだ兵士はいた。
でも決死の覚悟で氷河の真ん中を隠れながら少しずつ登った。
峠のラツェに着いた時には、下に向かって「イエーやった!ここまで来れるものなら来てみろ!」と叫んでやったよ。
それでも峠を越えてからも彼らが追い掛けて来やしないかと不安で急いでいた。
国境を越えてからの道は酷かった、大変だった、道に迷った。
雪が深かった。
一度ならず体ごと頭だけ残して雪に埋まったこともある。
何度も這い上がった。
死に物狂いだった。
峠を越えてしばらくして靴が二つに破れてしまった。
仕方なく、服を切り裂き、それを足に巻きつけ先に進んだ。
もう何日も食べていなかったのでふらふらだった。
道は長かった。
夜も昼も歩いた。
タガという村に辿り着き、そこで先に峠を越えた仲間達と出会うことができた。
助かったと思った。
みんなは自分がもう兵士に撃たれたか?捕まったことだろうと思っていたと言った。
自分と一緒にいた子供は見当たらなかった。
その二人を入れて8人の子供が消えていた。
おそらく捕まったのであろう。
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写真左はナンパラから中国側を見たところです。
正面の山の麓がチョー・オユーABCです。ここに外国隊のテントがあった。
峠との間には凸凹の激しい氷河がある。
ベースから峠まで3~4時間かかるという。
彼らが越えた時にはこの写真よりよほど多くの雪が広範囲に積もっていた。
このナンパラ事件については去年NHKにもダラムサラまで来て証言を取材して頂き、一部は放映されました。
参考に過去のブログをお知らせします。
同じグループにいた子供の証言
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2008-06.html?p=2#20080616
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2008-06.html?p=2#20080615
NHKの放映に関する記事
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2008-06.html#20080626
今年二月にこのナンパラまで行って来た時の写真と話は以下。
2月2/3日飛んで15日からです。(もう読んだって!?)
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2009-02.html
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)