チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2009年3月16日

3月10日法王記者会見 その三

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10.3.09 Dharamsala 法王の記者会見 10以下、法王記者会見の続きです。

*注:質問については明瞭に聞き取れないことが多かったので、要旨のみと思って下さい。

ーーー

質問その二

ワシントンポスト:会談が進まない中、チベットの状況は悪化するばかりのように見える。
これからの見通しは?

法王:私のステートメントにおいても、内閣のステートメントにおいてもはっきりと表明していることだが、我々の要求はすべて最後の会談の時中国側の代表に手渡してある。
すべては文章で明確に示してある。
これは中国側からその前の会談で要求されたものだ。
「すべての要求を明らかにせよ」と言われた。
だからメモランダムという形式で答えた。

これについて如何なる協議も行われることなく、彼らはただ、全面的に否定した。
このメモランダムのすべての意味は「半独立」とか「隠ぺい独立」だと断定している。
このように、完全に内容自体を拒否したのだ。

今、多くの友人、国々が中国を説得することに努力してくれている。
だから、様子をみよう。

中国の多くの知識人、作家たちが中国のチベット政策は間違っていると指摘している。
だから、時が来るかもしれない。

10.3.09 Dharamsala 法王の記者会見  11
質問その三
チベット・ポストだが、
インドがチベットの真の自治を実現するためにもっと積極的に果たせる役割とは何か?

法王:インドはこの50年間の我々のホームだ。
50年前から我々はホームレスだ。
しかし、ホームレスもそれから色んなホームを見つけた。
インド政府からは居住、教育その他の分野でできる限りの援助を受けた。

一方、チベット問題に関しては、勿論インドも中国と長い国境線を境に隣接しているし、そのかなりの部分はまだ最終的に決定されものではない。
だから、まだ困難はある。
故に(チベット問題において)インドが出来ることにも限界があるのは理解できよう。

インドの政府も人々も一般的に非常に我々に同情的だ。
でも過去には私も「インドは少々心配し過ぎだ」とか言ったこともある。
しかし、インドの態度は理解できるものだ。
また、インドのメディアの我々に対する関心は益々強くなってきている。
だから、時がくればインドは必ず、できる限りチベットを助けてくれると信じる。

質問第四
日本の共同通信社のSだが、

(このが先のブログでお知らせしたものです)
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51179267.html
ただ、次の質問の間にサンドゥン・リンポチェがコメントを入れられた。
10.3.09 Dharamsala 法王の記者会見  13
リンポチェ:法王は非常に洗練された言い方で話されたが、少し説明もいると思われる。
この中道路線は中国政府の態度に対する反応として提案されたものではない(訂正箇所)。自発的にこちらが提案したものだ。この方法は双方に利のあるものだ、、、(話の途中で法王がここで話し始める)

法王:これは明らかなことだ。
この中道路線は、一方が勝利し、一方が負けるというような提案ではない。
双方に勝利をもたらすものだ。

この考えを我々は74年ダラムサラにおいて決定した。
そのころ中国の人々は文化大革命に完全に没頭していた。
だから、我々は中国から要求されてこの決定を下したのではない。
何れは、中国政府との話し合いが始まるとの予測の下に自発的に決定したことなのだ。
つまり、真の、意味のある自治を求めることになったのだ。
これが中道路線だ、、、(ここで今度はリンポチェが割って入り)

リンポチェ:我々はこの路線遂行に更なる確信をもっている。
それは、人々からの信任を得たからだ。この際中国は関係ない。

法王:グッド!

次、そこのインド人、、、

10.3.09 Dharamsala 法王の記者会見  12
質問第五
ロイターの者だが、
法王は1959年に亡命を決意されたことに対し後悔を感じられたことはないか?

法王:私はこの50年間、常にあの時の事を思い出し続けてきた。
正しい判断だったといつも思っている。

もしも、中国政府があの17条協定を継続的に守っていれば、1959年の危機は決して起こらなかったことであろう。
しかし56年、57年頃から次第に極左寄りの政策が始まった。
中央のほんのちょっとした政策変更がチベットで実際には大きな変化となって現れた。
これが1956~9年までの衝突の原因だ。
56年の列車の路線変更からして、その後の59年の結果はすでに不可避のものだったのだ。
そのような状況において、最善の方法は脱出することだった。

このインドに亡命してすでに50年経った。
地球のこの場所でチベットの宗教と文化は完全な自由の下にある。

インド人の友人によく語ることだが、「インドは我々の精神的ホームである。仏教はインドから始まった。だから、我々の多くは自分たちが幸運であるとまで思っている。
過去には一生のうち一度でもインドに行くことができればラッキーと思われていた。
それが、今は自分たちのホームとなったのだ。ハハハ、、、簡単にそうなった、、、ハハハ

皆さんも知っているようにインドと我々の関係はグル(師)とチャラ(弟子)の関係だ。
インドは我々のグルであり先生だ。
だから私は時々インドの友人にこう言う
「弟子が苦況にある時には師はそれを助ける道徳的責任があると」ハハハ、
そうではないかな?ハハハ、、、

このようにして、我々は1956年の政策変更により、今こうなっているのだ。
もちろん1980年代初めにおいて、胡耀邦がいたときには希望があった。
彼は素晴らしい共産党指導者だった。
彼には誤りを認めるだけの勇気があった。

私のステートメントにも引用したが、1980年彼がラサを訪問した時、チベット政策の間違いについて民衆の前で謝罪したのだ。
過去に如何なるダメージをチベットに与えたかについて語った。
その時は、本当の希望が持てた。

しかし、彼の政治生命はあまりに短かった。
中国にもこのように時に希望の持てる人も現れるが、基本的には強硬派が政権を担い続けている。
だから、我々の1959年の決定を間違っていたと思ったことはない。
正しい決定だったと思っている。

次、、、、そこの中国人、
10.3.09 Dharamsala 法王の記者会見  14
質問第六
質問者:台湾パブリック、、です。

昨日法王は台湾の人々からの「台湾訪問」の要請を受けられたはずだが、どうされるお積りか?今年台湾を訪問されるのか?もしそうでないなら、その理由は?

法王:昨日、台湾からのジャーナリストにあった。
ジャンパ・プンツォをはじめとする、プレスクラブからの台湾訪問要請を受け取った。
それに対し、私は「原則的に承諾する」と答えた。

私は常に台湾に行きたいと願っている。
そこで、百万の中国人の目の前に顔を出してみたい。

我々は「反中国」ではない。
我々は中国の文明と文化を称賛するものだ。
地理的に我々はすでに数千年の間隣り合わせに暮らしてきた。

中国本土に行って直接、私の(中国に対する)信と誠実さを多くの人々に示すことが許されない今、私は台湾を選んだ。
台湾こそ、私の信と誠実さを中国の兄弟・姉妹に対して示す場所だと。

ここで、「中国人」と私の言うとき、誤解しないでほしい。
(記者を示して)あなたも中国語を話すであろう。
中国語を読み書きし、話し、中国文化の下にあるすべての人々のことだ。
台湾人でも、中国人でも、その他でもだ。

台湾こそ、私の中国人に対する信と真を示す場所と考えた。
これが、第一のポイントだ。
より親密な理解を求めてのことだ。

次に第二のポイントとして、台湾には仏教徒が大勢いることだ。

こんなことから、私は過去二回台湾を訪問する機会を得た。
完全に宗教活動のみだった。
実際最初の訪問の時、中国からの独立を要求していた野党(DBP)の人たちと会談した。
私はその時「チベットに関する限り我々は独立を求めていない」と言った。
「我々は離反を求めていない」と。
今、あなた方台湾の人々は経済的理由から、一方違いもあるということから、本土とユニークで特別に緊密な関係を築くべきだ、と語った。

そして、二度目の訪問の時にも、私は空港で「中国の係官を私の台湾訪問の間中24時間監視するために付けてほしい」と言った。
どこに行くのか?誰と会うのか?すべて見てもらいたいと。
はたして、チベットの反動主義者!と台湾の反動主義者!が結託しているのかどうか、調べるべきだと。ヘへへへへへへ、、、
それはただの訪問だ、オープンなものだ。

基本的に政治的なものではない。
もちろん、ある種の政治的意味合いは発生する。
しかし、基本的に私の動機に関する限り、そこに全く政治的なものはない。
将来の台湾は彼らによる。
政治に関する限り、完全に彼らの意志によると、明言している。

だが、民主主義に関する限り台湾のなしたことは大きい。
他の自由世界はこの達成された民主主義を守る道徳的義務がある。
これが、私の立場だ。

ポイントは、私の台湾訪問は完全に宗教的、教育的なものではあるが、
2001年の2度目の訪問の後、2002年北京政府との接触が再開されたことだ。
中国政府は私の台湾訪問について異常な関心を示した。
そして、訪問の延期とかが起こった。

ここ数年の間、多くの中国人、主に台湾、シンガポール、マレーシアその他の中国人に対し仏教講義を行って来た。
多くの台湾人から「あなたは我々の事をお忘れになったのか?」と目に涙を浮かべて訴えられた。
私は非常に悲しいと感じた。
私はいつも言う。
「私はあなた達のことを決して忘れていない」と。
「私は常にあなた達のことを思っている」と。
仏教徒として。

しかし、政治的には常にはっきりしている。
私もチベット人の面倒を見ないといけない。今、漸く中国政府と直接接触できるようになった。中国は私の台湾訪問に対し厳しい顔をする。
だから、私の台湾訪問は慎重に判断されねばならない。

昨日も彼らに「基本的には承諾するが、最終決定にはもっと時間が要る」と答えた。
それは昨日(3月9日)のことで今日(3月10日)に私はステートメントを発表した。
普通ならいつものように、我々は何らかの北京からの「お叱り」を期待するところだ。
ハハハハハ、、、、これが期待されている。
何れまた「反動主義者の、、、、ではなくて、、(リンポチェの方を向いて)何だったか?」

リンポチェ:「分離主義者です」

法王:そうだ、そう、それだ。
ついでにインド政府に対しても非難してくるかもしれない。
何れにせよ、それは計算済み(expected)だ。
一方で、チベット人からも厳しい言葉を返されるかもしれない。
それも有り得る。
ということは、我々のアプローチが本当に中道だということを示している。へへへ、、
こっち側の人も満足せず、あちらの人も満足しない。
どうしたらいいのか!?(What to do?)ヒヒヒ、、、。

でも、明日とか、数日とか数週間の間に来る非難は何でもない。
怖れや怒りの心からそんな反応も帰ってくることであろう。
それは何でもない。
しかし、数か月後に解るであろう。
もしも、チベットの内部で、何かしらの状況改善が起こるなら、我々の対話は意味あるものとなろう。
そうではなく、今のように中国の態度が硬化したままならば、その時は私の台湾訪問は難しいものとなろう。
一般的には本土の中国人が沢山台湾を訪問し、交流は深まっているので、訪問も簡単なはずだ。

以上は昨日も彼らに説明したことだが、今ここでもっと大勢の前で説明したまでだ。

では次の質問。

今度はヨーロッパ人にするかな?



続く

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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