チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2009年2月28日
キルティ僧院僧侶が焼身自殺。ナムチェーー>ルクラ
毎日、勝手なナンパ・ラ旅行の話ばかり書いていたら、ブログのアクセス数は減るばかり、やはり「チベット状況の最新情報」が無いと、このブログの意味も無いことを教えてくれてるようです。
気がつけば、今年も3月10日に向け、チベット人の自己犠牲の動きが活発になってきているようです。
phayul.comによれば、
http://phayul.com/news/article.aspx?id=23948&article=Monk+immolates+self+in+Tibet’s+Ngaba+region%3areport
昨日2月27日アバ地区キルティ僧院の一人の僧侶が焼身自殺を遂げた。
ダラムサラのキルティ僧院僧侶ツェリンがVOT(Voice of Tibet)に語ったところによれば、タベと呼ばれる25~30歳のアバ、キルティ僧院僧侶が午後1時40分頃焼身自殺を行ったという。
「私が聞いたところによれば、その僧侶は身体にガソリンをふりかけた後、町の大通りに着くなり自分で火を付けた。そばで見ていた人の話によれば、彼は法王のお写真を高く掲げ、何か叫んでいるようだったという。しかし声は聞こえてこなかったらしい」
ツェリンは「おそらく彼は<法王のチベットへのご帰還と、チベット独立>の祈願を叫んでいたのであろう」と付け加えた。
ツェリンによれば、目撃者は三発の銃声の後、彼はその場に倒れたという。
近くの病院に収容されたと報告されているが、現時点では彼の生死は不明。
これに先立ちキルティ僧院では中国側の新年祈祷祭(モンラム・チェンモ)規制に対し前日までに約千人の僧侶が本堂に集まり中国側に対決の姿勢を強めていたという。
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ここでは、他の地域とは反対に<中国がやるな、チベットがやる>の構図のようです。
それにしても、焼身自殺は衝撃的です。
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次もphayul.comからですが、
http://phayul.com/news/article.aspx?id=23945&article=Tibetan+Monks+in+Protest+March
http://www.chugoku-np.co.jp/NewsPack/CN2009022701000997_World.htmlと一部が日本語になったものが見つかりました。
中国でチベット僧侶らデモ 地元暦の正月に合わせ
【香港27日共同】米政府系放送局、ラジオ自由アジアによると、中国青海省海南チベット族自治州貴南県で、チベット暦の正月に当たる25日、僧侶ら100人以上が県政府庁舎前で中国政府のチベット政策に抗議するデモを行った。
チベット民族の間には昨年3月の暴動の犠牲者を追悼するため、新年を祝わないという動きが広がっており、デモも追悼の意味合いがあるとみられる。
政府庁舎前のデモは約30分続いたが、地元指導者らの指示により解散。地元警察は27日、デモを呼び掛けた者に対し、自首しなければ厳罰に処すると警告したという。
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私たちはナンパラまでいって難民に会えなかったけど、難民が全然越境していない
わけではない。
ダム・タトパニ付近で川を越えカトマンドゥまで逃げてくる人はこのところひと月3,40人はいるのです。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=23923&article=Nepal+Police+arrest+7+more+Tibetans+fleeing+Tibet
そんなチベット難民をネパール警察は先週二度にわたって逮捕し、カトマンドゥの本局に移送しました。
先週の日曜日に5人、火曜日に7人が逮捕されました。
この次の日、中国の外務事務次官リュー・ジェイがカトマンドゥを訪問しました。
直前に越境するチベット難民を逮捕したのは、いつもの中国への機嫌取りの一環だったと思われます。
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次にN2氏の掲載記事の宣伝です。
3月2日「AERA」最新号にNODA氏の写真と記事が載っています。
ナムチェで彼が校正してた記事です。
立ち読みではよくないが、、、それでも見てやってください。
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ナンパ・ラ行き最後の一日。
ナムチェ3450Mーーー>ルクラ2840M
もう書かなくてもいいようなものなのですが、ナムチェのネドゥン・シェラップさんから、さらに面白そうな話も聞いたので、飛行場のあるルクラまでの写真とお話を最後にご報告します。(おそらく最後でなくて、このあとカトマンドゥ編を一回は書くけどね)
三日間ナムチェで、このブログに載せたナンパ・ラ行き、最初の報告を書いたあと、
下界に降りたくなかったが、日本に帰るため、まずはルクラまで下ることにしました。
上りは二日掛けた行程でしたが、下りだし一日で降りることにしました。
ナムチェのネドゥンさんの奥さんと涙の別れ、このご夫婦は最高にいい人でした。
ネドゥンさんは荷物を預けたいこともあるからと、わざわざルクラまで私たちを送って行くといいます。
67歳で、片道7時間かかる山道を送って行くと!?
ま、このへんの年寄りの散歩!なのかな?と思うことにしました。
朝、いざ出発、最初は長い急な下りです。
この坂を、ネドゥン氏は転げ落ちるように駆けおりました。
おい、おい、この年寄り、本気かよ、、、と我々は付いて行くのがやっとでした。
ものすごい元気です。
途中、チョモランマが見える平な場所で、ネドゥン氏曰く「この平な所に昔、チベット軍の要塞があったそうだ。昔はこの下の川を境に上がチベット、下がネパールだったという。
一度、対岸の丘の上に陣取ったネパール軍と激しい砲弾戦があって、この後の丘にできた崖はその時の砲弾の跡だそうだ。
写真の左の崖がその砲弾によって崩れた場所?。遠くにチョモランマが小さく写ってる。
ネドゥン・シェラップさんは中々の物知りだ。
私はよく山や町の地名の由来を彼に聞いたりした。
「チョモランマってのはどうしてチョモランマなの?」と私。
ネドゥン氏「これには、元になるお経があるんだよ。
それによると、チョモランマはこの辺に山々にいらっしゃる5人の女神の一人、ミホランサンマの住む山ということだよ。
5人の守護神は
1、チェリン・マ
2、ミオ・ラン・サン・マ
3、チュペン・ティン・サン・マ
4、テカル・ドル・サン・マ
5、ティンギ・シャル・サン・マ
この内1、のチェリン・マが主神であり、ゴリシャンカール山に住むと言われている。この女神のことは聖ミラレパもその「十万歌」の中で何度も言及している。
2、のミオ・ラン・サン・マがお住まいの山がチョモ・ラン・マなのだ・
「チョモ」は女性に付ける敬語。「ラン・マ」は「ラン・サン・マ」を短くしただけだ」
とのことでした。
「ミオ」「ラン・サン」をチベット語で書いて確認していないのでこの言葉の基の意味ははっきりしません。
N2が嬉しそうな顔して渡っている吊り橋は嘗てのチベット・ネパール国境に懸っています。
橋にはタルチョやカタが沢山結び付けられています。
この吊り橋を渡って少し行ったところにまず立派な外人用のチェックポスト、次に粗末で小さな現地人、チベット難民用のチェックポストがある。
N2は遠慮なく子供を抱えたその警官の写真をバシバシと撮っていました。
こうなると、ネパールの田舎の警官は苦笑いするしかないわけです。
この辺の畑には上りの時には「チンゲン菜」が沢山植えられているのが目についた。
この「チンゲン菜」はダラムサラでも数年前から急に路上に並ぶようになった野菜だ。10年前にはダラムサラでは内にしかなかったものだったがな、、、
こんな山の中にまで中国野菜がね、、、でした。
下りる時には、ジャガイモが娘さんたちにより新しく埋められるところでした。
上るときには道端に花は無かったが、帰る時にはナムチェからルクラまでいたるところに可愛い「ヒマラヤ・サクラソウ」が咲いていた。
一本だけ赤い花がすでに満開の大きなシャクナゲの木を見た。
ダラムサラでもそうだが、今から3月にかけてヒマラヤの2000M前後の南斜面は真赤なシャクナゲの花で埋め尽くされる。
「マオ・パティ(マオイスト共産党)」の作った「Welcome To New Nepal」のゲートがある。
こんなボロボロ・ゲートに歓迎されてもね、、、?
途中、荷揚げのポーター達に沢山出会う。
食糧、燃料、建設資材とあらゆるものが、この下10日ほど歩いたところまで来ている車から降ろされ、人か動物の背に負われて運ばれて来るのだ。
ポーターやヤクは一キロ一日行程運び上げて20ルピーもらうのが相場という。
ヤクとかは一頭あたり7,80キロまでしか荷を載せることができないという。
人は何と100キロ以上!を運ぶ。強い男は120キロ、弱い男でも80キロ運ぶという。
実際、オイルを運ぶ男の荷の重さをポリタンクの容量で測ったことがあるが、確かに100キロ以上あった。我々が持とうとしてももちろんびくともしない。
運ぶ男たちはみんなやせ気味の小さな男ばかりなのだ。自分の体重の二倍の荷を担いで急な坂道を登るのだ。
途中ケルサンの家に寄ったりしてゆっくりしたので、ルクラまでは結局7時間かかった。すっかり春めき、新緑も目につく美しい里を沢山過ぎた。
我々はルクラからフライトでカトマンドゥまで1時間も掛からず簡単に飛べるが、難民の場合は特別のスポンサーがいない場合、みんなこの道をさらに南に下がっていく。
一週間ほど歩いたところでやっとカトマンドゥ行きのバスに乗ることができるのだ。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)