チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2009年2月19日
第三日目 アーリヤ
第3日目。酸素量も60%を切ってきたということで、アーリヤ4300mに高度順応のためもう一泊することにした。
朝、ヤクベルの音が沢山聞こえてきた。外に出ると20頭ほどのヤクが上から下りて来た。
今日はゆっくりしていようと思っていたら、N2は、写真家の性分なのでしょう、丘に登ろう、先のチュレに行ってみようとじってしてられない。川の反対側、少し先のチュレに行くことにした。
連れの三人がそこに行ってるはずだった。
昨日、3人は我々をアーリヤの宿に届けた後、ゾッキョをつれて川を渡るのを見た。ゾッキョは川に入り渡る。人は細い丸太の一本橋を怖々と渡っていた。
それを見ていた、N2は、私がまずあの橋を渡ろうというと、いやいやあそこは危なすぎる、もしもたくさん身につけている写真機材が濡れたら大変だし、という。
それではと川の右側をそのまま登る。どこかで対岸に渡れるだろうと先に進むがなかなか渡れそうなところがなかなか見つからない。やっと一か所、橋が掛っているところが見つかった。
しかし、その橋は前のよりもっと危なそうだった。まず川の中にある、大きな岩の間2mぐらいをまず飛び超え、次にまた細い細い一本橋を渡るというもの。それにしてもだれがこんなことを渡れるというのだろう!?原人用としか思えなかった。
私はもうここしかないと思い渡ろうとしていたが、またN2は、いやいやこれはやばすぎますよ、とまだ決心がつかない様子で先に進む。相当上流に行って、やっと川が凍っている、渡れそうな場所を一か所見つけた。私がそろそろと渡り始めた。もう少しというところで、氷が割れ、片足が川に浸かった。大したことはなかった。
しかし、この辺は川が広がり何本にも分かれていた。それからまた川。もう私は靴脱いで、川に入るしかないよ、と言い始めていたが、N2はなかなかその決心もつかない様子。
私がはじめに靴を脱ぎ川に入った。もちろん冷たかった。流れも程よく強くて、下の石も苔むし滑りやすい。一つ渡ると冷たさに、頭の芯まで痛くなった。連続でもう一つ渡る。全身冷たい鉛になったようい感じた。
ここで、亡命者から嘗て何度も聞いたことのある渡川の話を思い出した。亡命者の苦労を味わうための旅だから、これもありなのだ、と納得した。
N2は中々入らず、上流に向かっていた。でも最後には川に入り渡ったみたいだった。
渡った先のチュレはこのあたりの遊牧民の夏の村だ。古い仏塔があり、そのあたりからチョー・オユー(8201m世界第6位)の頂上がよく見えた。
連れの3人のいる家を探して河の下流に戻る。ずいぶん戻ってアーリヤに近い当たりに見つけた。アン・サンポの夏の家にもう一人の若いシェルパと一緒に3人はヤクのフンを焚きながらくつろいでいた。村には彼ら以外だれも居なかった。
彼らはまだ、このあたりに自分たちのヤクを放っていたのでここに泊まりたがったのだった。
この家にナンパ・ラからの帰り道、二日間泊まることになったのだった。
さて、帰りはどの道、どの橋を通るか?N2は同じ道を引き返すという。
私は彼らが渡った橋を行くという。結局橋を渡った。橋に近づいて見ると、橋の上には川からの飛沫で氷がびっしり。これは、これは、、、。私がスティックで氷を割り、できるだけ掃除してからゆっくり渡った。幅は20cmも無かった。
N2も後から、何とか渡った。
夕方、無事宿に生還。チベットでは河が移動の障害の第一と、少しは理解できた一日でした。
夜、ふと宿の仏壇にこんなところで思わぬ写真にお目にかかった。
法王のお写真の横に自分がインドのデラドゥンで建てた(設計した)仏塔の写真があったのだった。こんな、地の果てに自分の墓のつもりで建てた仏塔を見つけ、奇縁だなと、嬉しかった。ナンパ・ラが自分の墓になるってことじゃないよな、、、?
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ここから、時間が前後するが、カトマンドゥに飛ぶ前の日、ルクラまでナムチェまでわざわざ片道7時間かけて送ってくれたネドゥン・シェラップ氏から、最後の夜に聞いた。ナンパ・ラの昔の交易の様子などの話を報告しよう。
まずネパール側からはシェルパがチベット側のディンリまでゾー、大麦(小麦)、杏、線香、顔料などを運ぶ。帰りにはディンリからチベットの馬、羊毛、塩を運んで帰る。
ここで面白いのは、まずゾーの話。ゾーとは一般にヤク(雄)ディー(雌)と牛の雌・雄を掛け合わせた動物。この場合の組み合わせとしてヤクとパー(雌牛)を掛け合わせたものはウランと呼ばれ、ディーとラン(雄牛)を掛け合わせたものはディンゾと呼ばれる。
ディンゾはウランにくらべ高地に強く力もヤクよりも強いという。鍬を引き畑を耕すことができるのはこのディンゾであり、ヤクは力が足りないという。
だからチベット人はディンゾをシェルパから買うという。
この辺のシェルパの飼っているのはウランであり、低地にしか住めないという。ナンパ・ラを越えるのも難しいという。
「なぜ、チベット人は自分でディンゾを作らないのか?」と訊くと。
チベットでは違う種類であるヤクとかディーと牛を掛け合わせることを良くないことと思ってる、だから自分たちでやらないでシェルパから買うのだとのこと。
次は馬の話。ディンリで買われたチベットの馬はネパールからインドまで昔はたくさん需要があったという。この馬は帰り道ナンパ・ラを通ることができない。これは別にどうしても不可能というのではないというがチベット人やシェルパはみんな次のことを知っているという。
この辺の峠には夫々に守り神がいる。ナンパ・ラの場合は峠の前にゴアタエーと呼ばれる丸い特徴的な山があるがこの山の形は馬の頭に似ている。
この山にちなんでナンパ・ラの守り神はナンパ・ゴアタエーと呼ばれる男神だという。
この神はナンパ・ラをその蹄が二つに割れてない動物が通るのを許さないのだそうだ。
そこでヤクとかゾーとか羊、山羊は通すが馬、ロバなどは蹄が割れてなく、一つなので通さない。もしも通ろうとすると、馬もそれを引く人も死ぬという。
かつて、これを無視して通過しようとしたものが沢山死んだという。
ということで、帰りは西よりのプセ・ラを通って南に下るそうだ。ここにも神はいるがここの守り神は馬を通すそうだ。
この話はまあ、ナンパ・ラは馬には危険すぎるというとこを知らせているのだとも解釈できそうです。
塩については、昔はネパールやインドにも海の食塩が行きわたってなかったのでチベットから多量の塩が運ばれて来ていたそうです。
これにちなんで、今度は羊の話ですが、チベットの北西部のチャンタン高原の遊牧民たちは塩を羊の背に乗せてナムチェまで運んで来ていた。1000~2000頭の羊の背にそれぞれ15キロほどの塩を乗せ運ぶ(総重量15トンから30トン!)。遠いので一か月から一か月半掛る。その間、羊の背中に括りつけられた塩は下ろされることがない。すると最後に羊の背中から塩を下ろす時には塩と羊の革が癒着し、皮ごと剥がれることになるという。だからチベット人は羊の背に塩を乗せて運ぶことを非常に良くないこと(ディクパ・チェンボ)と思っているとのこと。
塩を運ばせて、ナムチェまで来て、羊の半分は売るという。つまりそのあとその羊たちは哀れにも肉にされる。
残った半分の羊に麦を乗せて帰る。遊牧民は畑がなくツァンパを作ることができないからだそうだ。
一般に、塩は峠のチベット側に、今は無くなったがキャプラックという村があり、そこが集積場となっていたという。
そこからは羊でなく、ヤクや人がナムチェまで運んで来たという。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)