チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2009年2月16日
第一日目 ナムチェーー>ターメ
2月4日、第一日目、ナムチェ・バザール(3450m)ーーー>ターメ(3820m)
出発の前にネドゥン・シェラップ夫妻にUS$1000をルンタ・プロジェクトから寄付する。
長年、個人的に峠を越えて来る難民を助け続けて来た彼らに
これからも難民を助け続けてもらうための資金として渡す。
このお金は昨年の「チベットを知る夏」イベントで得たものです。
実行委員の皆さんご了承お願いします。
前の日と違い、朝から快晴。
2頭のゾッキョ(ヤクと牛の交配種ゾーの雄)と共にターメまで森の中をのんびり歩く。
途中タモで難民もよく立ち寄るという、ギャリ・アニ・ゴンパ(尼僧院)に行ってみる。
尼僧33人のうち、シェルパ出身の一人を除き、他は全員チベットからの亡命者だと言う。
あいにくほとんどの尼僧は出払っていた。留守を預かっていた一人の尼僧ガワン・シェラップさんに話を聞く。
今30歳の彼女は22歳の時チベットのディンリの近くの村から尼僧になるためにナンパラを越え、このネパール側の尼僧院で尼になったという。
「チベットでも尼僧に成れないことはないが、、、そのためにはダライ•ラマ法王を非難しなければならないし、いいラマも居ない。
峠さえ越えれば法王に会う機会も得られる。ラマもいると思い決心した。
すでに、二度ブッダガヤとサルナートに行き法王からカーラチャクラの灌頂を受け、法王にお会いすることができた。
逃げて来る人たちはよくこの尼寺に立ち寄る。みんな疲れきっている。お茶とツァンパを十分与える事にしている」と彼女。
質問「06年の尼さんが峠で殺された時のグループはここに寄ったのか?」
尼僧「覚えてる。ガイドと一緒にたくさんここに来た。いつものように、お茶(チベット茶)を与えツァンパを与えた。みんな緊張していたが、ここに着いてほっとしているようだった。子供たちは特に大変なことだったようだ」
この尼僧院ではスペインの尼僧が一人、長年修行していると言う。
その時はいなかったがジャミヤン・ワンモと呼ばれるその人は「Dancing in the clouds」という本も書かれている。
タモには仏塔の傍に検問所があるが、外人には見向きもしなかった。
時にここで難民が拘束されることもあると聞いた。
タモから谷に下り橋を渡り急坂を登りきると、突然美しい小川沿いに木々と草原が広がり、やがてターメの村が見えて来た。
ターメとはタン(草原)、メ(下方)ということで「下の草原」と言う意味の村だ。谷の上の方から来たとき名付けられた名前と思われる。
世帯数45。一家族に子供は5〜10人はいるという。
ターメは本当に美しい村だ。
目の前にはカンテガ、タンセルク、キャシャールの三山が見事な三尊形となり聳えている。
後ろはコンデ連山、テン・カンポチェ等の6000〜7000m級の山々に囲まれている。
日当りの良さそうな畑が広がり、ヤクやゾー、馬が沢山いる。
まるで桃源郷だ。
ここは峠を越えて来て、最初に難民が人里を感じる場所でもある。
そこで、考えた。
この村に逃げて来た人たちを匿い、まずは熱いお風呂に入ってもらい、その後美味しくてたっぷりの食事と、暖かい寝床を提供することのできる家を建てる。ついでにシーズンには日本からのグループを呼んで、ナンパ・ラとかエベレスト方面へのツアーを行なう。高度順応ヨガとかチベット瞑想のクラスをやっても好し、、、と考えながら、一挙に予算や図面まで考えた。
が、まあ、お金のいる話ではありますし、時勢がら今はただの構想ということにしておきましょう。
夕方、谷の奥に向かって散歩。
赤石が賽の河原のように広がる小川。
奥へ奥へと吸い込まれそうな美しい谷。
暗くなり引き返すことにしました。
夜、ガイドを引き受けてくれたガワン・ドゥンドゥップ氏48歳のお宅にお邪魔した。もっとも彼は難民なので自分の家も土地も持つ事はできないという。
家も借家だという。
この村では彼の家族だけが唯一の亡命チベット人だ。
質素な農家。
子供は男2人、女5人いるというが今は誰も家には居ない。
男2人の内一人が僧侶。女5人の内2人が尼僧になっている。
自分の本当の子供は一人だけだという。
一緒にチベットから送られて来た長兄の妻を、長兄が喧嘩で殺された後、妻として引き取り、そのまま残された6人の子供を育て、ともに暮らして来たと言う。
彼は16歳の時からヤクと一緒にナンパ・ラ峠を越え、チベットのディンリとの間を何度も往復して来た。
彼のように交易のためにヤクと一緒に行き来する者はヤッパと呼ばれる。
今も年に3〜4回往復するという。
90年代以降道中沢山の難民に会い、お茶を振る舞い、ツァンパを与え、凍える子供たちの手を暖め、自分のテントを使わせたりして世話をした。
このターメでも沢山の人を匿ってきた。
10年ほど前、このターメの検問所に33人の亡命チベット人が捕まった事があったという。
その時、警官は言葉が解らないというので、同じチベット人の彼が呼び出された。彼はお茶とツァンパをたっぷり用意して警察署に向かった。
着くなり、「ちゃんと食事を与えているのか?」と聞くと、「やってない」と言う。
まずみんなに茶とツァンパを与えた後、
「さあどうする積もりか?ナンパ・ラを越えてディンリまで連れていく積もりか?少し金をやるから逃がしてもらえないものか?」
と交渉した。
ガイドには一万ルピーもやれば逃がしてくれよう、と話した。
結局金を掴ませ、私が預かり一旦ナンパ・ラの方に歩かせ、夜中に抜け道を通りしたまで逃がしたという。
「谷の上の方で会った時には、ターメ、タモ、ナムチェを夜中に一緒に抜けて安全な下まで送ったりする。
昔は凍傷になる子供も多かったが最近はそんな子供は少なくなった。中国製の手袋が良くなったせいかの知れない」と話していました。
ナンパ・ラと現在呼ばれる峠の由来はナムチェのシェラップ氏の話によると、
「昔、昔キラ・ゴンポ・ドルジェという狩人に追われるナー(ナワ=ヒマラヤ・ブルー・シープ)が逃げ場を失い山に向かって飛び込んだ。すると山が自然にチェー(開けた)。そのことによって出来たラ(峠)ということでナー・チェ・ラと呼ばれるようになった。それがなまって今はナンパ・ラと呼ばれているのだ」という。
この話はミラレパの「狩人と鹿」の物語を思出ださせます。
きっと関係あると思います。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)