チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2009年2月3日
ナムチェ5、 S氏の妻ドルマさんの証言
ナムチェの最後にS氏の妻ドルマさんの話を載せることができました。
彼女は両親のことと、法王のことに話が及ぶと何度も涙を抑えられないのでした。
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以下はN2氏の発案、ドルマさんのヤクの鈴を買おう運動のN2氏のコピーです。
「遠くヒマラヤからの鈴の音が聞こえてきます。
こり〜ん、から〜ん こら〜ん、かり〜ん
写真の鈴はナムチェで暮らすニェドゥン・シェラップさんの奥さんのドルマさんが作っています。鈴の部分は、チベットのディンリからナンパラを越えてヤク商人によって運ばれたものです。民族模様を編み込んだ吊るしは、ドルマさんの手作りです。
鈴の音はそれぞれに異なります。
でもひとつのひとつの鐘の音に、
チベットの物語が込められています。
ナムチェで難民の支援を独自にやってきたニェドゥン夫妻を支援するために、このドルマさん手作りの鈴を日本で販売したいと思っています」
N2がここで仕上げた原稿が今月22日ごろに発売される「アエラ」に掲載されます。
ナンパラの話じゃ無いですがね。
今回も写真はプロのN2氏が撮影したものです。
それにしても天気が下り気味。寒くなりそう、、、、
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ラクパ ・ドルマ 47歳 1962年生まれ
85年にナンパラを越えて逃げて来た。23歳の時。ダライ・ラマ法王がブッダガヤでカーラチャクラ法要を行こなわれていたときに合わせて亡命して来た。ネレンカンはまだそのころなかった。越えて来て、そのままブッダガヤに行った。遠くから法王をお顔を遠くから拝見することができた。ネレンカンの紹介がなかったから、顔を拝見しただけだ。その後、カトマンドゥのカーペット工場で4年間働いていた。
その後、クンブに商売に来た。結婚したのは、長男が19歳だから20年ぐらい前じゃないかなあ。お父さんとはここで出会った。お父さんはいい人だったからね。
今、47歳。小さな子供だったから覚えてないけど。文革の前に生まれた。中国ではすごい虐待を受けたから、私は怒ってる。封建領主と言う名前をつけられて、おじいさんがどこかに連れて行かれたということを聞いた。その他、村から何人も中国人に連行された。どこに連れて行かれたかも分からない。
私たちの父もすごく虐待を受けた。中国にいろんな罪状の名前をつけられ、集会に引っ張られてタムジンにかけられた。罪状はすべて嘘だと思う。私たちは学校に行く事も許されなかった。黒帽という階級にされて、学校に行く事ができなかった。前から大きな家だったから封建領主と言う名前をつけられた。
私が生まれたのは、ディンリから北に3日ぐらいの場所にあるチューパ村。村には88〜90世帯いた。一緒に一般の人と接触したり、話したりすることが禁止されていた。中国には大変な目にあわされたから逃げて来たんだ。ある日、村の集会で父親が呼ばれて、60歳以上と8歳以下以外の人たちはみんな集められた。家から連れ出された後、鍵が閉められていた。私たちは帰るところがなくなって、それから家畜小屋で暮らすしかなかった。その後、父親が逮捕された。父親は何もしてないのに連れて行かれた。そのとき父は殴られ、暴行を受けた。妊娠していた母親は気がおかしくなった。子供がうまれたけど、母親は1年ぐらいで死んでしまった。それで赤ちゃんも死んでしまった。父親は監獄にいたので、子供6人だけで家畜小屋で生活した。私は8歳だったけど、今もはっきり覚えてる。小さな兄弟だけで、食べる物がなかった。森にいって根っこをさがしたり、芋類を探して口に出来るものを探しまわった。
2000年に法王に謁見すためにダラムサラに行った。法王に私の父親や母親に起きた事を知らせ、冥福を祈ってもらいたかった。
8歳の頃、父親が監獄でにいたとき母親が亡くなった。私の上にお姉さんが2人いて、下に2人の弟と妹の3人の6人兄弟だけが残された 。食べることが大変だった。森に行って食べるものを探して、根をほったりした。貧しかったけど、私はときどき、監獄のお父さんだけにはツァンパをもっていっていた。
6人銃殺されたのはなぜですか?
中国は、ただ勝手な罪をきせ、ほんとの罪なんかじゃない。濡衣だよ。
私は6人がどうして殺されたのかはっきりとは分からない。文革の終わり頃だった。私は8歳だった。頭に大きな黒帽をかぶせられて、胸には罪状を書かれた板を吊り下げられた。そして村を引き回され、今から銃殺すると言われた 。村のそばに穴を掘って、その前に並ばされた。そして一人づつ前から心臓を撃たれて、穴に落ち、その上に土をかけられた。それを見たとき、私は小さかったし、お父さんは監獄にいたので、すごく怖かった。お父さんも殺されるんじゃないかと思って怖かった。一人一人、前から撃たれて、後ろに倒れた。殺された6人のうち、一人が最後まで泣いたり叫んだりしてて、その間に撃ち殺された。ほんとに酷い。これは聞いた話ではなくて、私が見たんです。
(ふたたび思い返して)
お父さんが集会ですごく暴行を受け、黒帽と呼ばれて、他の人と接触できなかった。強制労働もやらされた。森の仕事とかやらされた。ちょっと豊かな家のものは黒帽とレッテルを貼られた。黒帽と呼ばれた私たちは、家を追い出され洞穴とか家畜小屋とかに住まなければならなかった。
毛沢東が死ぬまでは特に酷い時代だった。毛沢東の間は、相当いろいろやられた。中国が言っているのはほんとに嘘ばかり。私たちは仏である法王のおかげで生きてられるけど、内地にいるチベット人は大変だよ。
「このままチベットに帰れなかったらどうなるんでしょうか?」と涙を流す。
法王はいつも愛と慈悲を説いている。だから中国を憎むなとも言っている。オリンピックの時でも、法王は反対するなと言ってたけど、私はすごく怒ってた。エベレストに聖火が運ばれるとき、村のチベット人はベースキャンプまで行こうと相談していた。でも法王がオリンピックを邪魔するなと言われたから、私たちは行くのをあきらめた。オリンピックでも中国は嘘ばっかり。
昔から「法王を非難しろ」と強制されて、それが出来ない場合は罰せられた。中にはどうしても心に嘘をつけない人がいる。仏である法王を批判できないのです。そうするとタムジンにかけられて黒帽と呼ばれた。法王の一味だとか言って、村を引き回された。だれだって自分の国を非難されたらいい気分はしない。私たちはおとなしているのに、あっちは横暴なことをあれだけやったんだ。誰だって怒るでしょう、日本人だって怒るはず。
2000年ごろ、法王にはダラムサラの謁見であった。でもなかなか近くに寄れなかった。新しい難民が優先されたので、その時も合わせてもらえないはずだったけど、でも正月には会えると聞いたし、どうしても会いたいと思ったから、お願いし続けると、最後には入れてくれた。それで会えた。法王に両親の冥福を祈ってもらおうとしたけど、何もいうことができなかった。それどころかすぐに気絶してしまった。気がつくと法王が頬をさすってくれていた。それがすごく嬉しかった。
でも法王もいつか亡くなってしまうことになってしまったらどうなるんだろう。この前、法王が病気(胆石)になった時は、心配で寝ることもできなかった。
大きな家だったと聞いたけど、実家は何をやっていたのか?
私はほんとによく知らない。私が生まれた時には、もうすでに貧しかった。中国が勝手な罪をつけた。私たちが少し豊かだったからといって、使用人を奴隷に使っていた訳じゃない。使用人はいたけど、彼らに仕事を作ってやっていた。きちんと彼らにお金を払ってたのよ。なのに中国はすべて話を作るのよ。中国は嘘話を作るのが上手い。泥棒もしてないし、人を殺したわけでもないのに、罪を作るのがうまい。毛沢東が死んで、黒帽を脱ぐことができた人もいた。でも私たちは法王の一味だと言われて、ずっと学校に行くこともできなかった。信仰を非難される。罪をきせされる。信仰が罪となる。人だったら何かを信じて頼ることもあるでしょ。
村には中国人は1人か2人しか来なかった。下っ端にチベット人を雇って、やってきた。そして毛沢東のキャンペーンや演説ばかりが続いた。なかには中国の口車にのせられて、中国側に本気についたチベット人もいた。嘘ばかり言われて、分からなくなったのでしょう。
オリンピックの時にはすごく奇麗な服しか見せずに、いいとこばかりしか見せない。悪い事は見せないで、きれいごとばかりを見せる。テレビのなかにはチベット人か中国人か分からない人もいた。
中国はいつも物質的発展ばかりを強調する。でも私は行ったことはないけど、田舎はどうなんでしょうか?観光客が見る所ばかりきれいにして、田舎は貧しいと思いますよ。逃げて来た人に聞いたところ、田舎は良くなってないと聞きます。鉱物もたくさん、木もたくさん、どんどん持っていかれた。今からチベットはどうなるかとても心配で仕方ない。法王がいなくなったら、チベットに戻る事ができなかったら、もうだめになるんじゃないか。
法王が生きておられる間は安心だけど、その後はどうなることか。法王が生きている間に、チベットに帰る事もできなかったら、独立することは難しいかも知れない。希望はもってる。明日、帰るんだ。明日、帰るんだ。明日、自由になって帰れる。そう思い続けていたから、いつでも帰れるように、チベットに一番近いナムチェに住んでる。その日を待ちわびて、ここに住んでいるけど、その日は来ないねえ。
お父さんはほんとによく、越えてきた人たちを助けている。
中国は嘘ばかりついてる。中国に本当のことはひとつもない。外国人の人に助けて欲しい。3月にデモしたときに、すごくみんながやられて、自分のことのように悲しんだ。宗教の自由があるというが、法王の写真だってまだ隠さなければならない。みんな可哀想に、酷いじゃないか。写真さえ見れないなんて。インドの方がずっといい、中国はほんとに酷い。チベットにいる人たちが可哀想。中国では、道がきれいになったとか、観光客がこんなに来てるとか、こんなにいい絵があるとか、そんなことばっかし自慢してる。でも見えないところでは酷いことをしている。チベット人に自治権があるみたいなことを言ってるけど、そんなの作り話。
お父さんは自由になってすぐに帰れると思っているから、「今日、明日、明後日には独立する」と毎日数えて、今日になった。法王がいつも「どこに行ってもまわりの人に良くして、つつましく生きるように」とおっしゃっている、その通りに生きてきたから、ここでも周りの人とうまくやってこれた。つつましく生きる、そうしていれば大丈夫。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)