チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2009年2月3日

ナムチェ4 S氏の亡命50年

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クスンとタルチョ
明日はいよいよナンパラ目指してナムチェを後にします。
ネット世界はここまでです。

急げば1週間で往復できるのですが、途中高度順応の必要もあるので往復10日程かける予定です。
昨日から雲が多くなり、気温が下がっていたのが気がかりですが、、、
足も腰もちゃんと治って、体調は万全です。

再びS氏に話を伺いました。
少し長いです。
昨日は奥さんの方に話を伺いました。
85年に亡命してきた彼女の方がチベットでの苦労は多かったようです。
途中何度も涙を流しながら、たくさん話を聞かせてくださいました。
このほうは出る前には書けないかも知れませんが、帰ったら報告します。

今日の写真はすべてN2氏撮影です。

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ロッジのレストランで

ガワン・ドゥンドップと彼の代わりとして今度のガイドを引き受けてくれる事になったターメ村のチベット人ガワン・ドゥンドゥップ氏48歳、二人と話をする。
まずはガワン・ドゥンドゥップ氏に聞く。

ヤッパ(ヤクの背に荷を乗せ国境を越えて交易を行なう者)にも中国の許可書が必要のか?

年に4、5回はディンリまで行商に行く。現地には4、5日ぐらいしか滞在しない。村の長老が責任を持つということで警察署からパスを貰わないといけない。昔からのなじみなので、村の長老も私のことを信頼している。何日いるかを登録して、パスを貰う。昔からやってるから、悪いことしていないことも分かってるから大丈夫だ。

時々、ヤッパと一緒に来る難民もいるのか?

それは難しい。私はディンリには4、5日しか滞在しない。その帰還にちょうど会えばいいけど。途中で難民に会って、お茶やザンパを与えたことは何度もある。でも一緒に来たことはない。

この時期ギャプルン(国境地帯にあるチョ・オユー山のベースキャンプ)に中国軍がいると思うか?

冬季は水が出ないからいない。ギャブルンまではダクマルからバイクで20分しかかからない。兵士たちもチェックしようと思えばいつでも行ける。ディンリから歩く人はほとんどいない。サキャやラプチェから、またはシェカルから歩いて来る人がほとんどだ。

S氏
彼とはまだ先でいつでも話を聞けるので、注目のネドゥン・シェラップ氏にさらに話を聞く事にしました。

59年の中国が来る前はどんなだったか覚えている事は?

自分たちは幸福だった。自分たちの家もあるし、商売も自由にやれた。6歳からチベット語を学ぶために、先生をさがして、寺にいった。寺のなかでチベット語を習ったし、お経も習った。かなり小さい頃から読み書きができた。チベット語はチベットにいるときからよくできた。

いつ頃から中国軍が入って来たのか?

自分たちのところ(ディンリ)には58年ぐらいから59年にかけて来た。59年に状況は酷くなった。逃げるしかなくなったのだ。着の身着のまま、ヤク6頭と共に、わずかな食糧しか持たずにだ。2、3年ぐらいしかいないつもりだったので、金目のものや、財産は寺の中に隠して来た。こっちには自分たちが着るための服ぐらいしか持ってこなかった。すぐに帰るつもりだったから。

亡命する以前の生活はどんなだったのか?村にゴンパ(寺、僧院)はあったのか?

シッキム・カギュ派に属するゴンパがあって、自分の家が施主の筆頭だった。ディンリには大きなゴンパがあったし、村それぞれにゴンパがあった。自分の村は4、50世帯ぐらいの大きさだった。一世帯に4、5人から多いところは15人ぐらいいたりする。子供は普通は4、5人。ネパール人は家族ばらばらに住んだりするみたいだが、チベット人はみな一緒に住んでいた。といっても、夫々男は商売にいったり、農業をしたり、放牧したり年に1、2ヶ月しかいっしょにいなかった。長男が家のことをみている。一妻多夫が一般的だった。兄弟が仲良かったら4人に1人の奥さんということもあった。ハハハハ、、、、でも、大丈夫、ほとんど皆がそろうことはない。それぞれに出かけていった。いい牧草地なんかに2、3ヶ月ごとに移り住んで行く。家にはお手伝いさんがいた。テントを持って遊牧にいくこともあった。

チャンタン高原に近いし、高地で寒い所じゃないのか?

いつも火を炊いてるし、たくさん服をきているから大丈夫。むかし、ディンリに一度帰ったとき、すごく変わってた。家では灯明をあげることさえ禁止されていた。寺は破壊されまったく無惨な姿だった。 仏像は壊され、盗まれ、中は空っぽだった。金目の物は中国の軍隊がすべて持って行ったという。

自分たちの村では自分が出る前には殺された人はいなかった。
59年から灯明を上げる事は禁止された。全ての宗教的儀礼は禁止された。それをやったら罰せられた。
ナムチェ
各村のリーダー格はみんな逃げた。ちょっと豊かだった農家は封建領主とかの名前を付けられ、財産は没収され、タムジンに掛けられた。特に妻の家は大きな家だったから、酷い目に沢山あった。

奥さん:
「今日は集会だ」とか言われて、村人が集められる。60歳以上と8歳以下は行かなくてよかった。それ以外の者はみんな参加させられた。(タムジン)集会の後は、家に帰ったら家には鍵が掛けられ入る事もできなくなっていた。自分の家は大きかったらしい。今までこいつらはお前たち使用人たちを搾取したから仕返し、お前らは父を殴らなければいけないと他の者たちに命令した。
父は死ぬほど殴られた。
住むところがなくなって、自分たちは家畜小屋に住み乞食のような生活をするしかなかった。

中国はチベットはかつて封建的農奴制の社会だったと言うが?

確かに家に使用人はいた。しかし、彼らには食事を与え、年俸をちゃんと渡していた。貧しい人たちは仕事がないから仕事を作って助けていたようなものだ。服もちゃんと与えていた。中国は使用人を奴隷のように使っていたというけれど、自分たちはきちんとせわしていた。
家内の家には20人ぐらいの使用人がいた。 その村はチャンということでディンリから北に3日ほど行ったところにある.その村では沢山の人が殺されたという。穴掘ってそのよこで銃殺されて、穴に落ちて、埋められた。
例えばお父さんが殺されたら、残された子供たちは50元から100元の銃弾代を払わされるのだ。

59年の何月に峠を越えたのか?

59年の10月ごろに逃げて来た。この辺(ナムチェ)に一ヶ月ぐらいいて、インドのブッダガヤにダライ・ラマ法王に会うために降りて行った。11月かな?法王に会うことができた。その時、法王は子供たちは学校に送るようにと言われた。
しかし、父は田舎者で教育に対して関心がなかったこともあって、学校に送られず、そのままナムチェに帰って来た。その頃、法王はインドのムスリーに自分たちのような子供のために学校を作られたのだ。そのとき33人しかいなかったという、もし行ってたらすごくよかったのに。偉くなれていたかも知れないと思うことがあるよ。父は亡命生活が長くいるとは思ってなかったので、インドという遠い土地で子供を育てようとは思ってなかったのだ。いろいろなとこに行って、再びクンブに帰って来た。

法王が亡命されたことはいつ知ったのか?

今のニュースのようなものはなかったが、噂で3月にラサで市民蜂起があり、その後、法王が亡命されたことは村にも伝わって来た。法王が亡命されて、そのことで状況が良くなるのか、悪くなるのか自分たちにはそのとき分からなかった。しかし、4、5月と月を負って状況は悪くなって行った。もう悪くなるばかりで、良くなることはなさそうだと思っていた頃、一人一人と捕まり、どこかに連れ去られて行った。

ディンリで中国との闘いはなかったのか?

戦闘のようなものはなかったけど、チベット軍のひとりの大将が殺された。シャルにいたギャプジョンというチベット軍の大将だ。彼はそのとき自分の家にいた。中国軍がきて「出てこい」と言った。彼はそれに対し武器も何も持たずに悠然と外に出たと言う。出た時にすぐに撃たれた。中国が彼を狙っていたことは確かだ。
あと2、3人は撃たれた。有名な軍人とか商人とかが殺された。軍隊の名前はギャブジョンという。その他にカダン、タプチと呼ばれる軍隊があった。夫々500人から1500人ぐらいの隊だった 。チベット政府の軍隊だ。

チュシ・ガントゥックとは関係ない軍隊なのか?

チュシ・ガントゥックはカムパ・ゲリラで、中国が来た後にできた軍隊だ。今言うチベット軍はずっと昔からある隊だ。
もっとも、教育もないし、訓練も足りないし、ちょっと鉄砲が撃てる程度だったみたいだけどな。。
クンビラ
59年に、祖母と兄と、妹それにヤク6頭と共にナンパラを越えてきた。クンブは近いし、ニャラムは遠いし、クンブに抜けるにはこのルートしかなかった。このルートは昔からある。ネパール側のシェルパがディンリに行くことが多かった。

60〜70年代からツーリストが来始めたが、その前はシェルパはとても貧しかった。数百年前、チベットのカムが貧しくて、食う物がなくてこっちに逃げて来た。そして徐々にこの地方に住み着いた。だから、シェルパはもともとチベット人だ。

59年から60年代のはじめ頃には、本当に大勢のチベット人がナンパラを越えてクンブに逃げて来た。ヤクや羊と一緒に逃げてきた.だからこの辺の谷はヤクと羊で一杯になった。でも、そんな沢山の家畜を食わす草はない。だから売るしかない。でも買い手は少ない。羊一頭1元で売られてた。
4000〜5000人がこの辺にいた。59〜64年頃までがピークで、文革の間は少なくなった。それでもナンパラを越えるものが絶えることはなかった。そのうち、近くのチェルシに難民キャンプができて。そこにたくさんの難民が行ったが、たくさん死んだ。空港をつくる仕事があった。その他だいたい建設現場をした。学校が出来て、自分は学校にも行った。泊まるところが狭く、小さな部屋に3、4家族が住まなくては行けないし、暑いし、食うものは少なく、衛生的状態もよくなかった。結核が流行して、確か500〜600人がそのキャンプで死んだ。
スイスが援助してくれていた。スイス人の医者がいた。自分はその医者の手伝もしていた。毎朝、薬を配って回った。
キャンプの者たちは、75年ごろからカトマンドゥなどに移り始めた。いまは100人ほどしかいない。チベットの学校はまたあるが、いまはチベット人はそこにはほとんどいなくて、地元のシェルパやネパール人の子供たちが通ってる。先生はまだチベット人だけど。
80年代は少なかった。87年から90年代始め頃はデモもあったし、逃げて来るものもいたけど、 家族ごと亡命するのは70年代までだった。それ以降は個々で逃げてくる場合がほとんどだ。

59年に逃げて来て、62年までクンブにいた。63年から74年までインドの軍隊にはいった。2・2部隊と呼ばれるチベット人部隊に入った。
73年にインドがバングラと戦争した時には出兵した。74年にクンブに戻って来て、妻と出会い結婚した。

89年頃から亡命チベット人を助けることを始めた。
最初のころは全く余裕もなかったし、そのころ亡命して来る人たちの状況もよく知らなかった。ナムチェにいなかった所為もある。ナムチェに来て、今もチベット人がナンパラを越えて来ていることを知った。子供が多かった。
まずは匿い、金のない者には、友人の金持ちからカンパを募って金をあげたり、逃げ道を夜中一緒に歩き、下まで届けたりするようになった。02年だったかネレンカンから「とてもいいことをしてくれてる。続けてくれ」と要請があった。領収書があれば難民へ渡した金を返してくれるようになった。昔は大変なことが多かった。自分が夜中に一緒に出て行った。マオイストと国軍がやり合っていたころは銃撃戦も時にはあり、危険だったので、夜中に別の森の中の道を通って彼らを逃がした。

国連(難民高等弁務官事務所)は何か今までに亡命してくるチベット人を助けてくれたか?

国連は一回来たよ。カトマンドゥでは何かやってるのかもしれないけど、ここでは何もしてくれてないね。一度だけ捕まったチベット人を解放するために外人1人とネパール人1人、チベット人2人がきたことある。でも結局、15日待った何も出来なかった。結局自分がチベットに返すからといって引き取り、峠の前で逃がした。

ネレンカンがなかった頃はどうしていたのか?

昔はパスもなかった。88年頃だったか、ちゃんとした今のネレンカンができたが、その前は人の家をかりて収容所にしていた。まわりのチベット人から家をかりていた。88年頃から、きちんと対応できるようになった。

昔はただ、ツアンパをやったり、お茶をやったり、お金も1000ルピーはないとカトマンドゥまで辿り着けないし、その時はシェルパのところとかを回ってカンパを募っていた。地元の人は、泥棒されるんじゃないかと怖がっているひともいた。

今年はチェックも厳しくないが、マオイストがこの谷にいた03〜07年は大変だった。お互いに国軍と、マオの間でどっちについてるんだと捕まることがあった。だから夜中に一緒に歩いて自分で下まで連れて行く事が多かった。マオが政府になってから、厳しくなくなった。でもこの先マオも政権を取り続ける続けることはできないんじゃない。(奥さん)ひょっとしたら良くなるかもよ。どうなるか分からんな。
雲
ナンパラで最近死んだ人は何人ぐらいいるのか?

ナンパラで死んだら遺体を運ぶことはまずできない。そのままおかれてくる。
だから、本当のことは分からない。
ただ、一人20歳の若者が近くのタモで倒れクンデの病院にタンカで運ばれる途中死んでしまったというのは知ってる。
その他、そうだ、悲しい話だが若い女の子がクレバスに落ちて死んだということがあった。(ノートをめくりながら)
03年9月19日 他に5人が一緒だった。17歳の女の子がクレパスに落ちて引き上げることができなくて死んだ。16日にナンパラで起こり、他の5人は19日ナムチェに着いた。私はすぐにロープを持って助けに行こうとしたが、すでに4日が立っているから行っても無駄だとみんなが言う。結局行かなかった。
女の子が落ちたのを見て、他の者たちはロープ代わりにカタとか服を裂き割き結び合わせて彼女の元に下ろした。
一度目途中で紐が切れ、二度、三度と失敗した。三回落ち、そのまま動かなくなり声も聞こえなくなったという。他の者たちはあきらめて彼女を見捨て、下っていった。

ナンパラにはたくさんクレパスがある。ヤクが落ちで見えなくなるほどのクレパスもある。80年代に実際自分が連れていたヤクがクレパスに落ちた、下を覗いてもヤクの姿も見えなかった。

昔は9、10月の秋、春の4、5月には沢山のヤッパが国境のナンパラを行き来していたものだ。でも今は中国が厳しくするので少なくなった。それでもシェルパのヤッパが今でも少しは行き来している。

今年3月にチベットでデモをするものはいると思うか?

今年は50年目なので、とても警備が厳しくなるのではないか。内地はほんとに命を賭けてデモをやってるんだ。本当に勇気がないとできないことだ。今年も起こるだろう。こっちはなんてことない。せいぜい叩かれて刑務所に入れられるぐらいだ。向こうじゃ拷問や死んだりする奴もいるんだ。自由がない。中国に弾圧されているからだ。けれどもデモやっても外国の記者も入れないし、知らされることが難しい。それでもやる人はいるだろう。
あなたの50年間の亡命生活を総括すれば、、、?

50年は長かったけど、全てダライ・ラマ法王のおかげだ。ちゃんと元気に幸せでいられる。
こころのなかではいつも帰りたいと願い続けている。子供たちに昔のことをよく話している。自分の代がだめでも子供の時代に帰れればいい。他人の国にいるからいつまでたっても自分の家は持てないし、土地も持てない。
チベットで死ねたらいいなと思ってる。
子供たちに自分の生まれ育った土地を一度見せたい。
法王のおかげと、外国からの援助も得てチベット人はまあまあじゃないか。
仏教は今の方が世界に広まっている。昔はチベットだけでだったが、今は世界中の人が法王を知っている。法王のおかげで仏教が世界中に広まった事が唯一のいいことだ。
法王は利益のあることしか考えない。人であろうと動物であろうとみんな幸せになりたい。中国人も外国人も一緒だ。法王はいつもチベット人だけじゃなく、中国人にも利益があるようにと考えられている。外国からの助けがなければ、独立も決して得ることはできないだろう。
だからこれからもチベットのことを忘れないで欲しい。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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