チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2009年1月31日

ナムチェ2

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ナムチェの目玉チュテン
まず始めに写真の説明をしておきます。
一枚目は、ナムチェの象徴ともいえる目玉チュテン
二枚目は、ナムチェのすぐ横に聳える名峰ガンテガ6685m
三枚目は、ナムチェで金曜ごとに開かれるバザールのようす
このために下から何日もかけて、一人80キロ!もの荷を担ぎ上げるのです。
四枚目、地図を描きながら説明してくれるS氏。
五枚目、ソロクンブ地域地図。ナンパラはチョー・オユーの左。CHINA(TIBET)の左側
六枚目、ナンパラ

ナムチェでのんびりしています。
高度順応には高さが足りないのですが、連れのN2氏は今、チベット関係で売れっ子のフォット・ジャーナリストということで、彼はこのナムチェでも日本の雑誌社との仕事をこなしつつあります。
(一人ぐらいはこの遠征?で飛行機代ぐらい稼いでほしいものです、、、)
それで彼の仕事の都合で、月曜まではここにいることになったのです。

時間もあるので、昨日も少し紹介した、このナムチェでナンパラを越えて亡命して来るチベット人を、既に20年間助け続けて来た、S氏にゆっくりと話を聞きくことにしました。

以下、私が聞き手で、N2氏がそれを起こしてくださいました。

亡命ルートのことなどが詳しく出てきます。実際欧米を中心に中国だってその筋の人たちにはずっと以前より知られていることなので、あえて隠さず発表しました。
ガンテガ
S氏の話

最近ナンパラを越える亡命チベット人が少なくなって来たのはなぜか?

向こうも(中国)本気なら完全にとめることはいつでもできる。
(地図を書きながらの説明)
まず道の説明をしよう、ディンリーからギャプルン(チョ・オユー・ベースキャンプ)までは道がある。ディンリーから最初の村がルンジャン。その次にダクマル(ダマ)そこには大きな軍の駐屯所がある。ティンリーからタクマルは歩いて二日かかる。車で行けば3時間。タクマルからギャプルンまでは車で1時間。ギャプルンにも駐屯所があって、そこに軍がいたら抜けるのは難しい。
タクは崖や岩山、マルは赤い、だから赤い岩。軍人が100人はいる。ギャプルンの手前のキャラックから分かれ道があってロンシャーに向かう道もある。
ギャプルンにも時々軍隊が駐留して、ここにいたら抜けるのは難しい。オリンピックの前には駐留していた。その上のザポガにもオリンピック前に軍隊が駐留していた。ここにいたら逃げ場はない。サボガからナンパラまでは雪
オリンピックの時には常にいたけど、いつもは時々しかいない。

夜、歩いて迂回できないかと尋ねたら、迂回路はダクマルは可能だが、その上はないとの答え。

ギャプルンからナンパラまで3、4時間、天候に恵まれ、道が良かったらだが、まあ近いと言える。

06年に、 ザポガ〜ナンパラの間で一人撃たれて死んだ。チョ・オユーのアドバンス・ベースキャンプのすぐ近くだ。

冬には軍はいない。水がないからだ。冬にはすべて凍って水がないし、とても寒いので、夏以外はいることができないのだ。時々、国境警備隊がダクマルからジープで回って巡回することがあるくらいだ。

なぜ今年は越えてくる人がこんなに少ないのか?
カムやアムドなど、内部での移動が難しいからじゃないのかな?

08年3月以降ナンパラを越えた難民は

3月31日に男1人 
9月10日 3人
10月27日 2人
11月4日 2人
12月3日 3人
1月10日 3人

合計14人になる。
もしかしたら自分の知らない者があと数人 いるかもしれない。

チベットの中と事前に連絡を取り合うのか?

全然ない。昔はグループのリーダーがナムチェまで来てラサまで電話したりしていた。自分はない。自分は政府に雇われているわけでもないしね。特別の情報はないよ。 今でこそネレンカン(一時収容所)と連絡し合って仕事をしているが最初は長い間自分だけでやっていた。最近では、お金がない人に収容所の立て替え金としてお金を貸してあげることができるようになったが、その前は自分でできるだけお金を上げていただけだ。凍傷の手当をし、逃げ道を教えた。

自分は59年に両親といっしょにディンリから逃げて来た。16歳だった。それからクンブ地方にそのまま2年間いた。61〜62年にはパブルの近くのチャルサ・キャンプに移った。それからインドの各地を転々とした。ダラムサラにいたこともある。72年まで学校に行った。チベットの軍隊にも入った。そして74年からクンブにまた帰ってきた。
ガンテガ
89年ころから難民を助けることを始めた。
2002年からネレンカンと連携をとっている。それまでは金がなければあげて、シェルパなんかにも助けてもらった。

ナムチェであなた以外に難民を助けている人はいるのか?

特別には、自分しかやってないだろう。
ナムチェには14世帯のチベット人が住んでいる。55人ぐらい。ナムチェ全部で112世帯、7〜800人。クンブ地方に全部で156人の難民チベット人がいる。

難民の多かった年はいつだったのか?

02、03、04年が一番多かったかな?
06、07年も多かった。
それ以前も多かったが、去年3月以降はほとんどいない。

平均では年間250人から300人が越えて来ていた。
11〜3月 が多い。一番多い月は2月で74人が来たことがある。大きなグループで来た。
S氏
06年 尼さん殺害事件
43人がこっちに来て、36人が向こう側で捕まったらしい。捕まった者はシガツェの刑務所に連れて行かれた。16歳のアマさんが殺された。ザポアからナンパラの間でやられた。以前にはそんなことはなかった。

なぜあの時だけ撃ったのか?

それは解らない。
大きなグループだったので目立ったからかな?

オリンピクの時はとても厳しかったことは確かだ。ラサからこっちまでもチェックが多くて厳しいんだろう。ラサの町にあれだけ軍隊が多いなら、ガイドと連絡をとるのも難しいんじゃないか。

以前はガイドをつけて大勢で来ていたけれど、今はグループを作ることができないんじゃないか。去年からはナンパラを越えて来るものは、ガイドなしでくる人ばかりだ。家族で来たとか少人数でしか来ていない。以前はガイド同士がラサやカム、アムドと連絡を取り合っていたが今はできないので難しいんじゃないか。今年もまだ
50周年もあるし難しいだろう。逃げたい者は沢山いるだろう。デモがあれだけあったのだから逃げないといけない者もいることだろう。
いつも子供が多い。

あちらでは、子どもの教育の場が少ないからね。

もう私がチベットに戻るのは難しい。過去に1度だけ親戚に会いに行ったことがある。
こっちに来て、戻るやつもいる。両親や家族にあうために、ちょっと1ヶ月だけ行く者もいる。

5741m ナンパラ(ナンパ峠)
亡命ルートとしてなぜナンパラが昔から特に選ばれているのか?

他に適当な道がないからだよ。

タクマルから別の車でいく道はある。プツェラ峠を越える。国境近くのタツァンまで車でいける。そこからタトパニに向かう道がある。この道の方が軍隊も少ないし、峠も低くて簡単だけど、ネパール側に着いてからが難しいと聞いている。警察も多い。
このルートを採る者はあまりいない。
クンブ地方
ナムチェからは
ルクラ→オゴドンカ→トクシャル川→ギメリ→カタリここからバスでカトマンズ。
ルクラから4日半でカタリに着く。

途中チャルサには チベッタン・キャンプがある。

ナムチェを降りたジョルサリに軍隊のキャンプがある。ここは大したチェックはしない。問題ない。

ナンパラからは ダサンパ、ルナック(岩屋がある)、 峠の向こうのギャプルンを朝早く立てばルナックまで1日で行ける。次の日にアーリアまで来る。ここにシェルパがいる。飯も食える。そこから1日でナムチェに行ける。登る方も1日で行ける。

ネパールの警察に捕まったりするのか?
ときどきあるけど、あったら自分が呼ばれる。あっちもどうしたらいいのか分からない、カトマンに行くか中国に戻すかどっちかしかない。その間の飯代はどうするのか?とポリスにいったら困った顔をする。あんたが払うのかと聞いたら、そっちで面倒みてくれと言う。だからナムチェの先のターメまで一旦、戻してそこから帰れと追い返すふりをするけど、夜になったらまた逃げればいい。だから心配するなと言っている。また夜中に逃げればいいんだ。

ネパールのポリスが難民を売り払ったりするような奴がいるらしいけど。

1回だけ知っている。16人のグループがダムまで運ばれて中国の公安に引き渡された。

こっちで捕まってもあまり大きな問題にはならない。
前はターメにポリスチェックがあったけど、手前のパモに移った。

毎年2、3のグループが捕まる。大きなグループだと目立ちすぎることがある。
ダムでは金で売られるという話もあるけど、この辺りではない。わざわざこの大変な道を追い返すだけでも大変だからだ。だれもナンパラまで行きたいやつはいない。

尼さん射殺事件のときは、事件をここから知らせた。
自分のその時のノートを見ながら、

2006年9月30日 
16歳のアマが殺された。足を撃たれた一人も向こうに捕まった。33人が捕まって1人が負傷、1人が死亡。遺体は向こう側に持って行かれて、それからガワン・ユンテンという医者がきて確認した。そのときのダクマル駐屯地のボスの名はツエリン。
最年少の子は10歳の女の子。最年長で30歳。16歳ぐらいが多い。
ナンパラ
去年のオリンピックの時の事。

オリンピックの時にネパール在住の中国大使がここまでヘリで来て、エベレストのベースキャンプまで行った。そのとき、私は引っ込んでろといわれ自宅待機だった。別に何も特別に抗議とかする気はなかったのにね。
ただ、訪れる登山家の外国人などに、チベットの国旗をたくさん渡した。ダライラマを祝福する旗も掲げた。他のチベット人みんなチベット国旗を渡していた。みんな隠して登って行った。
そのとき、1人のアメリカ人が捕まったがそれだけだ。
町でも登山家たちがチベットの国旗を至る所で広げて写真を撮ってたよ。
それでもベースキャンプでのチェックはかなり厳しかったと聞いた。

UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の話。

UNHCRはそんなに助けにならない。6、7人の人が逃げて来たとき、情報があっちにいっていたようで、ヘリで職員が4人こっちにきた。しかしネパール警察と上手く交渉することができず、何かカトマンで書類を整えるのに時間が懸かるから私にその間で責任をもって預かってくれと言ってきた。結局15日待っても書類は届かなかった。それで警察と交渉し、私がチベットに返すということにして、ターメまで連れて行って、その夜中に逃げろといって逃がした。

続く

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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