チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2009年1月12日
3月18日カンゼ大デモ先導者の証言
写真は、去年3月カンゼに集合した軍隊。
話の本人が持っていた。
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今日、日本から来られたH女史と共に、ネレンカン(難民一時収容所)に寄って見ました。
そこで、偶然が重なり、思わぬ貴重な証言を聞くことができました。
昨日、新しく40人ほどの難民がダラムサラに到着したとのこと。
しかし到着したばかりで事務所の人たちも、どんな人が、どこから、どのようにして来たのかについての情報はまだはっきりしないと言ってました。
仕方ないので、子供たちが絵でも描いていないかなと屋上に行きました。
子どもたちもいませんでした。
H女史にそこに張り出されてる、去年の夏のイベントにも使わせてもらった絵を見せたりしていました。
すると、そこにちょうどアマ・アデさんの部屋から旦那さんが出て来られました。
彼は私の顔を見るなり「おお、ちょうど良いところに来た。昨日一人カンゼから逃げて来た者がいる。彼はデモで足を撃たれたりした。必ず話を聞くといい、、、、でも、今はノルブリンカに行ったな、、、電話もないし、、、
と、ちょうどそこに、その話の本人が現れたのです。帰ってきて部屋の鍵を取りにきたところでした。
さっそく、部屋で話を聞くことになりました。
話始めて、彼のカンゼ訛りがうまく聞き取れず、何度も聴き直したりしました。
「H女史は中国語が解るよ」というと、それではと私は通訳失格・交替ということになりました。
以下、H女史の中国語よりの通訳を私がノートしたことから、報告いたします。
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<ツェテン・プンツォック氏の証言>
2008年3月18日、カム、カンゼで初めての大規模デモを先導した15人のチベット人の内の一人が脱出に成功し、昨日ダラムサラに到着した。
ツェテン・プンツォック氏は40歳の僧侶だ。
その時のデモの様子、デモに至った経緯などについて話を聞くことができた。
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デモは3月18日午後1時過ぎ、カンゼ市内の大きな交差点で始められた。
同じ村の出身15人がパンフレットを配りながら、スローガンを叫び始めた。
間もなく武装警官隊に囲まれた。しかし、その周りには我々を救おうとチベット人が大勢集まり始め、たちまち数千人の規模になった。
我々は政府庁舎に向かって歩き始め、群衆も警官隊も一緒に移動した。
しかし、政府庁舎を前にした交差点に来た時、四方から新たに攻め寄せてきた大勢の武装警官隊に全員包囲された。
警官隊は鉄の棍棒ですべての人たちを滅多打ちにし始めた。
我々15人も打たれて、逮捕されていった。
私はその時、拳銃で足を撃たれた。
これが其の跡だ、、、と言って、傷痕を見せてくれた。
(写真はその時)
2~3千人はいたがそのうちその場で4~500人が逮捕されたと思う。
後ろの方で倒れ動けなくなったチベット人を警官がトラックに載せていくのを見た。
15人のうち11人は逮捕された。
後で聞いたがこのうちの一人は8年の刑を受けたという。他の仲間の消息は今も分からないという。
私は何とか逃げることができた4人の内の一人だ。
その日の夜中には、蘭州と成都から大きなヘリコプターが7台、兵隊を乗せて空港に降りたと聞いた。
そして、その数日後、町中に写真付きの指名手配の張り紙が張り出された。
その中に私の顔があった。自分でそれを見たのだ。
それから私は数か月、山に隠れた。傷は少し深かったが病院に行けば捕まるので、家から薬を持ってきてそれで治した。
その後も家や僧院に帰ることもできず、カム、アムドの各地を転々と身を隠しながら逃亡生活を続けた。
ダライ・ラマ法王の御生誕地にも行った。
そこには、家を守るチベット人以外一人のチベット人にも逢わなかった。
その人の話では、3月11日に大勢の軍隊が来て周りは包囲されたという。
その後亡命を決心し、ラサでガイドを雇い国境に向かった。
国境付近で10日間歩いたが脱出に成功した。
「デモを行う前にラサのデモの事は知っていたのか?
3月18日のデモはカンゼで3月初めてのデモだったのか?」の質問に答え:
ラサのデモのことは全く知らなかった。かなり後になって、アメリカのラジオだったかを聞いて知ったのだ。
18日がカンゼでの初めての大きなデモだった。
もちろんカンゼでは1990年ごろから何度も小さなデモはあった。
もう50人位は逮捕されている。自分もカンゼではないが近くのタウの町で1992年に<独立>の張り紙を張ったことがある。
その時、逮捕はされなかった。
「じゃ去年、最後まで続き今年もデモが起こっているカンゼのデモのまさに仕掛け人の一人ということになるね。すごい、良くやった!!!
で、どうしてデモを決行したのか?いつ僧になったのか?」の質問に答え:
私は6人兄弟の末っ子だ。家は農家だ。
小学校に二年ほど通ったが、チベット人が学校で差別されるのが嫌になりやめた。
それから僧院付属の学校に通っていた。
16歳の時カンゼ僧院の僧になった。
1994年頃から中国のチベット人に対するいじめが目立ってきた。
例えば、病院にいってもチベット人は追い返されることが多くなった。
その他、材木を多量に切り出し、近くの美しい山を崩し、穴をあけ金銀やその他の鉱物を掘り出し、中国に運び去る。
益々ひどくなる。
そんなこともあり地元のチベット人たちは中国政府に対し反感を強めていた。
でも、3月にデモしたのは、その前2月から中国は僧院、尼僧院を回りながら、ダライ・ラマ法王を非難する証書にサインするようにと迫ってきた。
銃を押し付けられ脅迫されるのだ。(ここで彼は銃を喉元に突き付けられるマネをした)
でも、誰一人、根本のラマ、ダライ・ラマ法王を裏切る者などいなかった。
みんな死んでもそんなことはできないと答えた。
そんなことが続いたからだ。
だから、デモを決心したのだ。
自分たちから仕掛けたのじゃない。
ダライ・ラマ法王を捨てることを迫られることに耐えられなくなったからだ。
とくに3月10日を意識してたわけでもない。
本当は最初は3月6日に決行する予定だった。
以上
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もしも、そのデモが6日に本当に行われていたら、ラサ蜂起ではなくカンゼ蜂起が去年の発火点となっていたことでしょう。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)