チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2009年1月5日

最後のシャ-ンティデーヴァ

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0bbd54de.JPG窓の方に寝返ると、谷には豪華な虹が懸っていた。
チベットの方向に。
寝返りもままならぬと言うのにエイヤァと杖を持って立ち上がり、写真を撮った。
今日のブログ写真ゲット!
今日はパスと思っていたがこれでやる気になりました。

このあと霙が降って来た。

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第二日目 第一部  

 道徳と僧院内の戒律を説く経典『別解脱経』のなかで、釈尊は「悪行に親しむことなく、常に善行をなせ」と説かれました。このような生活態度は、よく調教された(整えられた)心の状態を基礎とします。わたしたちはまず心を調教し訓練すべきです。この・心を調教する(整える)こと、内に変わること・が釈尊の教えの心髄なのです。その人の行動が善となるか、悪となるかは、その行動がよく調教された心から起こされたか、よく調教されていない心から起こされたかによるということなのです。  同様に、他の経典には「心が調教され、整えられ、平安であるならば、喜びと幸せへと導かれよう、逆に、心が整えられず、平安に欠けるならば、不幸と苦しみへと導かれよう」とあります。最終的な決定要因は心の状態なのです。

 一般的には、自分の特別の精神生活を外的要素により示すこともできるでしょう。ある種の服を着るとか、家の中に祠、祭壇を設けるとか、読経し念誦する等です。しかし、これらすべての行為は、宗教的、精神的生活において、第二義的なものです。例えば、これらの行為は悪い心を持っていても行い得るのです。一方、すべての心の福徳、心の善良性こそは優れた仏法であり、優れた精神的資質なのです。内なる心の資質は、病的感情とか否定的感情と同時に並存することはできないからです。  ですから、宗教的生活の心髄は、自分の心を内的に調教し、整えること、その訓練と実践にあるのです。宗教的生活を送れるかどうかは、調教され整えられた心の状態を実現できるかどうかにかかっているのです。  この内的転換を実現するための仏教修行の基本的方法は、方便と智慧を合わせ行じることです。私たちが今使っている、このシャーンティデーヴァの「入菩提行論」を例に取るならば、テキストの第九章では(空性に対する)洞察力を生むと言う、智慧の側面について説かれ、残りの他のすべての章においては、修行上の巧みな方法、方便の側面について説かれています。大乗における巧みな方法、方便の道の柱となる行は、愛と慈悲を育てることです。この愛と慈悲の質を上手く高め、強めるためには、これらの資質を育てる障害となる要素に対抗できなければならないのです。この点で、寛容と忍耐の行が菩薩の修行上の要となるのです。

 ちょうど、大乗仏教一般の修行において、方便と智慧が互いに互いを補い合い、強め合うように、ここでは寛容と忍耐の行が、愛と慈悲の力を育て、強めるために必要なのです。行が進むに従い愛、慈悲と寛容、忍耐は互いに補い合い、強め合うようになるのです。

 次の二句は 

賢人(巧みな人)に苦しみが起こっても
その心は明晰で濁ることがない
煩悩たちと(戦場に)戦えば
多くの傷を受けるは当り前(一九)

すべての苦しみを返り見ず
憎しみなどの敵を討つ
これが真の勇者
残り(の戦士)は死体を殺すのみ(二〇)

 忍耐と寛容を実践することは、怒りと憎しみに対し戦っている状態でもあるのです。戦いですから、もちろん勝利を求めます。しかし一方で、敗けたときの用意も必要です。戦いの間は、先にいつも多くの問題と困難が待ち構えていることを、忘れてはなりません。困難に挫けず、問題に対応できる力を持つべきです。怒りと憎しみに対し、勇気をもって打ち勝つものが、真の勇者なのです。一方、他の人間に対する怒り、憎しみ、強い衝動より戦う人々は、たとえ戦場の戦いに勝利しようとも、実際には真の勇者ではないのです。何をしているかと言えば、死体を殺しているのです。なぜかと言えば、人間は無常な存在として、いずれは死ぬからです。その敵が戦場で死ぬかどうかは他の問題として、いつか死ぬのです。そこで、実際には「死体を殺しているようなものだ」というのです。真の勇者とは怒りと憎しみに勝利する者なのです。

 怒りや憎しみ、他の煩悩に対し戦うべきとしても「一体戦いに勝という保証、確信はどこにあるのか?」と考えるかも知れません。この点はたいへん大事なことです。もし、熱心に努力するなら、煩悩との戦いに勝利できるとの確証を、持つべきです。  十分気を付けているならば、これらの悩ましい感情と思いを認識することは以外に簡単なものです。これはチベット語では・nyon mongs・と呼ばれ、語意は・内側から心を悩ますもの・英語ではしばしば・delusions(惑わし、迷い、錯覚、 狂気 、幻)・と訳されます。自然な作用として心を悩まし、平成さを破壊し、心理作用を撹乱します。十分に注意していれば、この心を乱す惑わしの性格に気付くことは難しくないでしょう。むしろ難しいのは、適切な対抗手段をもって、これに打ち勝ち、排除できるかどうかを知ることです。このことは直接に、サンサーラ(輪廻)からニルバーナ(涅槃、完全な開放)に至り得るかどうか、の問題に関わってくるのです。これは非常に真摯で難しい問題です。

 仏教概念としてのニルバーナ(涅槃)、開放、自由は、四つの聖なる真理(四聖諦)の教えを中心とする、釈尊の第一回目の公開説法についての経典中にその最初の論議を見い出せます。しかし、ニルバーナ、開放についての完全な論理的理解は第二回目と第三回目の教えを基礎にして初めて展開し得るのです。

 では、これらの心的惑乱(煩悩)は最終的に心より根こそぎ取り除くことができる、ということは一体どんな前提、基盤の上に成り立つのでしょうか。仏教では可能である理由を三つ上げます。その第一として、すべての錯乱した心の状態、惑わしの感情、思考は、その対象把握のしかたが根本的に歪んだ、非論理的なものであり、反対に愛、慈悲、智慧などの対抗要素は歪んでおらず、論理的であるだけでなく、様々な正しい経験と現実に根ざすものだ、ということです。二番目には、これらのすべての対抗力はまた訓練、行により増強でき、常に親しむことにより能力の可能性は無限に拡大でき、これにより次第に心の混乱状態の影響力を減少させることができる、ということです。第三の保証は、心の本質は光明(クリアーライト)であり仏性を持つということです。この三つの前提根拠に従い仏教徒は煩悩、すべての混乱した感情、思考は修行と瞑想により最終的に一掃できることを確信するのです。これらの点のうち、あるものは解りやすく、十分注意して観察することにより、かなり明らかとなることでしょう。でもある点はいつまでも不明で隠されたままに留まるかも知れません。もっとも、分析と調査により推理と間接的理解を増やすことはできます。ですから、経典よりの証言を絶対的権威として受け入れる必要はないのです。

 非常に観察困難な現象に対する、釈尊のことばをも正当なものとして受け入れることができるという、一つの理由として、より明瞭な現象に対する教説が正当で信頼に価すると証明できることが上げられます。分析者の主な関心は「苦しみからの開放、自由は可能なのかどうか?」ということです。この点において仏教の教えは正当であり、信頼に価します。

更に、苦しみの徳は
悲しみにより傲慢さが払われ
輪廻する者に対し慈悲が起こり
悪業を控え善行を喜ぶこと(二一)

この句において、シャーンティデーヴァは苦しみについて考えることの利益について語っています。まず、人が苦しみについて考察し、存在自体の不完全性を理解するならば、自然にその人の傲慢さ、驕りは減少します。その上、自分の痛み、苦しみと、その苦しみの本質について忘れないときには、そのことが同情の力、他の人の感情、苦しみとの交感を許す能力を育てる助けとなります。さらに、苦しみの本質を理解することにより、苦しみに導く悪い行いを止めようとの決心の力が増し、喜びと幸せに人を導く良き行いに熱心に関わる力が増します。これらが苦しみについて考えることの利益、徳なのです。一つ大切なことは「行の様々な方法を用いるときには非常に巧みに、極端を避けるような仕方で適用されるべきだ」ということです。例えば、もしも自分の資質とか、現実に得たなり、得ると思われる成就をもとに慢心で膨れ上がり、傲慢となった時には、その対抗策として苦しみ、存在の不完全性について考えます。このことが自分に対する高い評価、極端を引き下げ、以前居た地平まで引き戻す働きをしてくれます。

 反対にもし、存在の不完全性、苦しみ、痛み等について考え過ぎて、ひどく落ち込んでしまったならば、反対の極端、完全な意気消沈、打ちのめされた状態に陥ってしまいます。こうなってしまうと、「ああ、自分には何もできない。自分は何にも価しない」と考えるようになります。この極端がもう一方の危険です。このような時には、自分のこれまでの成就や良き資質等について考えることにより、この打ちのめされた状態から心を引き上げることが大切なのです。つまり、バランスのとれた巧みなアプローチが要求されるのです。

 このことは種を蒔き、若木を育てることに喩えられます。初めの段階においては特にやさしく、巧みでなければなりません。水が多過ぎても腐りますし、日に当て過ぎても枯れてしまいます。若木が健康に育つためにはバランスのとれた環境が必要です。アプローチにおいて、優しく、巧みでないと死んでしまう危険もあるのです。  また「これこそが仏教的アプローチなのだ」と経典のただ一節を取り上げ、方法を白黒で見て、あたかも一つの特殊な方法がすべての場合に一律に当て嵌まるかのごとくに主張する人がいるかもしれませんが、これは間違っていると思います。  本当の仏教の行は喩えれば電圧安定機のようでなければなりません。強い電圧の変動が起こったときには、安定機は安定した波のない電流を送り続ける働きをします。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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