チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2009年1月3日

続・続シャーンティデーヴァ

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2,1,09
写真はphayulより、昨日、元インド首相Dr. APJ Abdul Kalam を地元の空港まで迎えに行かれた法王。

今日、朝バトミントン中に突然、腰が抜け立てなくなりました。
ギックリ腰と思われます。
持病のヘルニアでないことを願います。
ヨガは予防にならなかったか?
最近ある計画の為に体を鍛えてるつもりで無理しすぎたかな、、、年だから。

で、今はおかしいぐらい全く動けません。
這うことは何とかできますが、痛いです!
特に笑うと痛いです。
笑わせてくれる人がいるのでないが、あまりの自分の身体の無常さに自分で笑えてくるのです。

これはかろうじてお腹の上で書いてます。

以下昨日の続きです。
これで終わろうと思ってましたが、字数オーバーとのこと、あと一回続きがあります。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

第二セッション  一般に友情には、二つのタイプが認められます。ある種の友情はいいとは言えないタイプのもので、例えば、富、力、地位に拠る友情です。この場合友情はその拠り所である、富、力、地位の続く限りは続くでしょう。しかし、いったんその拠り所である土台が消えるやいなや腐食し始めるものです。

 もう一方は、結び付きと分かち合いの心による、真の人間的感情、親近感に根ざした優れた友情です。個人の富、力、地位、の増減に拠ることなが無いが故に、わたしはこれを・優れた・と呼ぶのです。この友情を続けさせる要素は、互いの愛情と好意です。もしも、愛情と好意が無くなれば、この優れた友情を続けることはできなくなります。

その富や名声に
恩ある家来たちでさえ
怒る首長には
殺そうと襲いかかる(四)

友や親内の者は悲しくなる
布施により(人を)集めても、頼られず
要するに、憎しみのあるところ 
喜びはないのです(五)

憎しみという敵が、このような
様々な苦しみをつくりだす
精進にて憎しみを打ち破る人は
今世と来世の幸せをえる(六)

 第六句において、寛容と忍耐の価値と利得が説かれます。怒りと憎しみの破壊的効果、寛容と忍耐の建設的効果について考える材料が多ければ多い程、この感情を明らかに認識できるようになり、怒りと憎しみの思いを遠避けることに注意深くなるのです。このようにして、人は寛容と忍耐の感覚への親しみを育てるのです。これが心に大きな影響力を持つようになり、寛容と忍耐の能力を増やそうと努める力は強められます。このようにして、実際の忍耐の行も進むのです。

 実際に寛容と忍耐の行に入る前に、努力の心を育てることが大事です。その方法としてはまず、怒りや憎しみを引き起こす原因と条件を観察により認識することから始めます。これは一般に仏教徒が問題や困難な状況に遭遇したときの対処の仕方でもあります。

 仏教徒は、自然法則として縁起(因果律)を受け入れます。現実に対処する時にはこの法則を考慮に入れるべきです。日常経験においても、ある望まざるタイプの出来事を実際に起こらないようにするための最上の方法は、一般にそれを起こさせる原因と条件をなくすことです。同様に、人がもしある出来事や経験を欲するならば、それを起こすための原因と条件を求め、整えることが論理的行動と言えます。

 このことは心の状態や経験においても言えることなのです。もしも、ある特別の心的経験を欲するならば、それを起こさせる原因を求めるべきです。またもしも、痛みや苦しみをもう望まないならば、その原因と条件が二度と起こらないことを確かとすべきなのです。

 この因果律の意義を認めることは大切なことです。自分の怒りと憎しみを減じ、無くそうとの意志を持ちながら、怒りや憎しみが二度と起こらないようにと願うだけとか、祈るだけとか、ただ消えて無くなることを祈るだけでは、これは決して実現されないでしょう。その上、もしすでに怒りや憎しみが起こってしまってからそれをどうにかしようとしても、効果はあまり期待できないのです。そのときにはすでに心は怒りと憎しみの感情に捕われているからです。そのときになって怒りや憎しみの起るのを防ごうとするのは少し馬鹿げたことです。ほとんど自分のコントロールを失っているのですから。

 最善の方法は、なによりもまず怒りや憎しみは一般的にどんな要因により起こるのかを熟知することです。

望まぬ行為と
望みを邪魔されることによる
心の不幸に煽られて
憎しみは増し、わたしを破壊する(七)

この句において怒りと憎しみを煽る燃料として、・心喜ばぬこと、不幸の感覚・が挙げられると説かれていますが、どちらかといえば・不満・に近いと思います。思ったようにいかない、イライラするような、不平、不満の感覚が怒りや憎しみが起こるための燃料となるのです。燃料となるこの不平、不満が起こらないようにするにはどうすべきかをまず知るべきです。この不満の感覚は自分自身、または自分の愛する者か自分に親しい友人が不当に扱われたり、脅かされたときに起こります。自分や友人に対し周りの人々が公平でないときにです。または誰かが自分たちの計画していることを邪魔する等においてです。踏みにじられ、押さえ付けられたと感じ、人は怒りを感じるのです。ここでなすべきことは、鎖状の因果関係を探り、最後には怒りと憎しみのような感情的爆発に至るその根をつかむことです。戦略は怒りや憎しみが全面的に沸き上がってしまう前に、できるだけ早い段階でこれを阻止することです。これは例えば、人が河の流れを止めたいと思うとき、最上の方法はそこに土嚢を積んだりせず、その源泉に行きそこを止めることであるのと同様です。

では、この敵の
食料を完全に取り上げよう
  この敵はわたしを
害するばかりの故に(八)

 ここで『敵』とは、内なる真の敵、最終的な敵である憎しみのことです。この憎しみの感情は単にそのときの心の静けさ、平安を破壊するだけでなく、わたしたちを混乱状態に落し入れます。常に混乱と問題、困難に出会うような非常に複雑な状況に落し入れます。

 「内なる敵である憎しみは実際、害を及ぼす以外に何の機能も無い」と説かれるのです。憎しみはただ、わたしたちを現在と未来において破壊するという機能を持つのみなのです。

 これは普通の敵と大いに違う点です。敵と見なされる人は確かに害になる行動に関わるかも知れませんが、少なくともその人は他の機能も持っています。その人は食べるし、その人は眠るのです。このようにたくさんの他の機能を持つのです。従って、二十四時間中わたしたちを破壊する計画に就くことはできません。一方憎しみには、破壊する以外に他の機能、他の目的は無いのです。この事実を理解し、修行する者として、まず「憎しみという敵に生まれる機会を決して与えはしないぞ」と決心すべきです。

 憎しみと戦う間、ときに人は「憎しみはわたしの心の本来的部分の一つに違いない。心の一部なのだ。自分の心の一部とどうして戦うことができようか?」と考えるかもしれません。こんな時には、人間の心とは複雑なだけではなく、非常に巧みでもあると知ることが役に立ちます。心は困難な状況に対応する様々な方法を見付けることができ、違った展開にも適応できるのです。

 例えば、仏典『現観荘厳論』の中で、四諦の第一番目の真理である苦の真理に関わる特別の瞑想についての記述があります、自分の身体を自分の敵の身体と見なし、対話するのです。同様に、自分の利他的意志を強化するという、菩提心の行においても、自分の自己中心的態度、利己心の権化を一人の人格と見なし、行者であるもう一人の自分がこれと対話するというのがあります。同様に憎しみは心の一部ではありますが、怒りと憎しみを対象化し、これと戦うことができるのです。

 日常経験として、わたしたちは自分を自分が責めるという状況を知っています。「ああ、あの日わたしはひどいことをしてしまった」というのです。こうして、自分に対して怒ります。実際には、二人の独立した自分というものは存在せず、心の連続としてある一人の自分が存在するだけです。そうではあっても、自己を非難することは意味を持ち、二人の自分の間に内的会話も有りえるのです。このことは、日常経験的にみんなが知っていることです。実際には連続体としての一人の個人しかいないところに、二つの違った視点を設定するのです。「わたしは悪いことをしてしまった」とか「あれは善くないことだった」と言って、自己を批判します。批判する側の自己とは、自己存在のすべて、自分を一つの統一体として見ることからくる視点から言動し、一方批判される側は、ある特別の経験や事象に関わる自分のことです。このようにして、自分が自分と関係を持つことができるのです。

自己と呼ばれる一人のアイデンティティーの様々な側面について考えて見てください。例えば、一人のチベット人仏教僧がいるとします。彼は、まず「僧侶である私」という一面より人格化されたアイデンティティーの感覚を持つことができます。また、僧侶ということをあまり考慮せず、むしろ人種的違い、つまりチベット人ということに重きを置き「チベット人である私」ということもできます。さらに違ったレヴェルにおいて、僧侶にも人種的違いにもおもむきを置かずに「人間である私」というアイデンティティーを持つこともできます。このように人は、個人のアイデンティティーの中に様々な違った視点をもち込むことができるのです。この教えるところは、わたしたちは何かの事象と概念的な関わりを持つとき、一つの現象に対し様々な違った視点をもつことができるということなのです。でも、実際には非常に選択的に対応するものです。現象に対しある特別の視点を設定し、そこに現れるある特別の一面を照らし出してしまうのです。

どんなことが起きようと
喜びの心乱すまい
不機嫌になって、思いが叶うわけでなし
ただ、善行が衰えるばかりがゆえに(九)

 この第九句は、忍耐の行者として「たとえどんなことが私に起ころうとも、そのことが心の喜びを乱すことを決して許すまい」と決心すべきだ、と説くのです。  心の喜びとは、心が静まり安定した状態をさします。これは不満とか不機嫌の正反対です。どうして「決して心の喜びを乱されまい」と決心すべきかと言えば、不機嫌、不幸にしていても自分の願望は叶えられることはないからなのです。つまり不幸にしていることには意味がないのです。それどころか、心の喜びと平静さを失うことや、怒りや憎しみの起こる状況をつくりだすことにより、自分の福徳の力を衰えさせてしまうばかりだからです。

もし、治る当てがあるのなら 
そのことに不機嫌になる何の用があろう
もし、治る当てがないのなら
そのことに不機嫌になって何の利があろう(一〇)

 ここで、シャーンティデーヴァは不機嫌になるべきでない他の理由を説いています。つまり、もしも問題の状況や性格を良いほうに治すための方策があるならば、悩んだり、不機嫌になる必要はないのです。また反対に問題や困難な状況に対し何も手を打つあてがなく、解決の可能性がないならば、この場合もまた、そのことに対し悩んだり、不機嫌になる意味はないのです。

 次の第十一句において、シャーンティデーヴァは不満や不幸の感覚を起こす一般的要因について語ります。

自分や自分の友人に対しては
苦しみ、不名誉、陰口など
どんな不快も望まぬが
敵に対してはまるでその逆(一一)  

 これを八つの世俗的思い(世間の八法)と呼びます。一般に世俗においては、(1)何か楽しいことが起これば幸せと感じ(2)悪いことが起これば不機嫌となり不幸と感じます。(3)人に誉められると嬉しくなり(4)非難され、けなされると不機嫌になります。同様にして(5)得たいと願っていたものを手に入れると喜び(6)手に入れられないと不幸と感じます。また(7)有名になると嬉しくなり(8)悪評が立てば不機嫌となります。これら八つの現象に対し、わたしたちは以上のような自然反応的感情を抱きますが、同様のことが親友や家族、愛するだれかに起こったときにも抱きます。

 ところが、これが敵の場合となれば、逆なのです。敵の人生が上手くいっているようだと不機嫌となり、敵が金銭的に苦しむと愉快に感じます。敵が有名になると惨めさを感じイライラし、その名声が衰えれば嬉しくなるのです。これらが、わたしたちの一般的反応、態度なのです。

 このことからも解るように、わたしたちは自然の性向として、苦しみ、不幸、問題を嫌い、自然に快、喜び、幸福を求めるのです。不満や不幸は状況に対する自然な反応なのです。そこでシャーンティデーヴァは・苦しみに対する見方・こそが変えられるべきだ、と指摘します。苦しみも思うほど悪いものでないかも知れないのです。

 ここで、苦しみ全体に対する仏教徒の基本的立場について理解しておくことも大事でしょう。仏陀自身による教えのなかで、初めに説かれたのが・四つの聖なる真実(四聖諦)・の教えであり、またその第一は・苦しみの真実(苦聖諦)・でした。この教えの中で仏陀は、すべての存在の苦の性格を理解することの重要性を説いています。なぜ苦しみについて考えることがそれほど大切かと言えば、苦しみから出るための道、もう一つの道があり、苦しみから自由になる可能性があるからなのです。このためには、苦しみの性格について理解することが鍵となるからです。もし、そうでなく、苦しみから自由になる希望も可能性もないのに、ただ苦しみについて考えることは不健全で善くないことでしょう。

 ここで、シャーンティデーヴァは将来に経験するであろう強い苦しみから自由になるため、困難を乗り越えるため、ある一つの姿勢を学ぶようにと、わたしたちを激励しているのです。

 第十二句には 

幸せの因が起こることは稀
苦しみの因にはこと欠かぬ(一二前半)

 人生には、痛みや苦しみの原因となる多くの要因、条件が見付けられるのに、喜びや幸せの原因や条件は比較的少ないと気付きます。わたしたちの存在の現実がこのようであるがゆえに、寛容の姿勢を学ぶ意味があるのです。苦しみは現実の一部であり、存在の自然の事実なのです。それが嫌いであろうとなかろうと、いずれ避けようもなく経験せねばならないことなのです。一つの姿勢を保つことで、そのことがそんなにひどく心に影響せず、受け入れることができるようになるのです。忍耐がなければ、その人の人生は苦しいものとなります。例えば、非常な悪夢の夜を経験するとき、終りが無いかのごとく長いものと感じられることでしょう。同様に、もし人が苦しみに耐えることを学ばないならば、その人の人生は苦しみに満ちたものとなるでしょう。

 例えば、ある人がたいへん恵まれた環境の中で、ものに恵まれ、苦労なく育ったならば、一般にその人の困難に耐える力は低く、甘やかされた人となります。ちょっとした問題に出会っただけでもうろたえます。これに少し関係があることで思い出す話しが一つあります。もう亡くなってしまいましたが、わたしの長兄であり、長年合衆国で過ごしたことのある、ロプサン・サムテンが、「この国でもし、電気が切れてしまい、少し回復が遅れるようなことがあれば、たくさんの人が餓死するだろう、それほどすべてが電気に頼っているからだ。冷凍庫、冷蔵庫、電気炊飯器等生活機器は本当に発達している。町の高層ビルにはエレベーターと言うものがあるが、電気がないときにはこれは使えない。こうなると、上にいる人は長い瞑想に入るか、もしそれが冬であれば凍死する者さえいることだろう」と。

 第十二句の後半二行には 

  苦しみがなければ、出離もない
ゆえに、心よ、堅固であれ(一二後半)

苦しみについて考えることは、大切な上に、大きな利があると説いているのです。苦しみについて考えることには大きな意味があるのです。「苦しみの性格を知ることによってのみ、人は優れた・出離・の感覚、束縛からの開放を求める優れた意志、を育てることができる」からなのです。

 例えば、仏教の修行者の場合には、短くて明らかな苦痛に対し考察するばかりでなく、この存在していくこと自体の苦しみと不満足性について考察すべきです。人は業と煩悩の影響下にある限り、苦しみと不満足の状態にあり続けるのです。明らかな苦しみである、苦痛や苦悩等はわたしたちの存在の基本的不完全性が露になった状態なのです。これらは、この基本的性格を指摘し思い出させるのです。

 時に、仏教を実践している友人が自分の苦労や痛み、苦しみなどについて不平を洩らすのを聞くとき、わたしは冗談交りに「本来なら苦に対する瞑想により得るべき体験なのに、なかなかそうもいかないから、存在の不完全性を身体が身をもって教えてくれているのだよ、だから、有り難いと思わなきゃね」と言うことがあります。

もしも、苦行者やカルナパさえも、意味無く
焼かれたり、切られたりすることに耐えるなら
わたしが、彼岸のために
耐えられないことがどうしてあろう。(一三)

 「もし、人が究極的でない目的のためにも苦労、痛み、困難に耐える用意があるのなら、どうして、苦しみからの完全な開放を願う、このわたしがこの程度の痛みや苦しみに耐えられないことがあろうか?」この教えは他の仏教のテキストにも多く見い出せます。小さな目的のために大きなことを犠牲にすることは、賢い人のやり方でなく、むしろ高い目標、目的のために、小さなことを犠牲にするのが、賢い人のやり方です。チベットには『千のためなら百は捨てろ』という言い方があります。もちろん「大きな目的のためには小さなことを犠牲にすべきだ」と解ってはいても、さて本当にそれができるかどうかについては、自信がないのです。だめかもしれないと思うのです。

 そこで、第十四句においてシャーンティデーヴァは「初めから挫けることはない、どんなことでも、常に慣れ、常に練習することで、すべてはより簡単に、より受け入れ易くなるものだから」と教えます。

慣れ(瞑想)により
簡単にならないことは何もない
  だから、小さな困難に慣れて
大きな困難に耐えることを学ぼう(一四)

 何か特別の活動や修行と関わるとき、はじめはきつく思われますが、常に繰り返すことにより慣れ、また決意を強化することにより、簡単なものにすることができるのです。それ自体が簡単になったのではなく、むしろ自分の姿勢、自分自身の心理状態が近づいてきたのです。だから、現象の現れ方が違って見えて来るだけなのです。

 以下の三つの句において、シャーンティデーヴァは、訓練し親しむことにより、ある種の痛みや苦しみに慣れることができる例を上げます。

  蛇に噛まれ、蜂に刺され 
飢えに渇きに
痒みなど
意味ない小さな苦痛となぜ思えぬ(十五) 

  暑さ寒さ、雨に風
病や縛られ、打たれるなど
それでも短気は起こすまい
害は増すばかりがゆえに(十六)

  ある人は、自分の血を見ると
勇気がさらに湧く
ある人は、人の血を見ると 
卒倒し、気を失う(十七句)

ここで、シャーンティデーヴァは二種類の人を例に上げます。ある人は、血を見ると、例えそれが自分の血であろうと、勇気が湧き、勇敢になると言う人です。一方、ある人は自分の血はもちろん、他人の血を見るだけでも卒倒し、気を失うと言う人です。この違いは条件付けと普段の慣れによるのです。

 第十八句の初めに

  この違いは、心の 強さ、弱さによる(十八前半)

  とあり、次の二句で前の話しをまとめています。

だから、困難を気にせず
苦しみの影響を受けまい(十八後半)

 不平、不満、不機嫌の感情が起こることに対抗する方法について、今まで話してきました。これは、痛みや苦しみに対する姿勢、態度を変えることによるのです。わたしたちの普通の姿勢、ごく自然な傾向は、痛みや苦しみを全面的に嫌悪することです。痛みや苦しみに対する嫌悪感には強いものがあります。苦しみの性格について考えること、そして慣れによりその姿勢を変えることができる可能性について考えることにより、この嫌悪の強さを減じるのです。こうすることで、苦しみに対する感覚を以前より受け入れ易くなることでしょう。

 もっとも、これらの内のある考察は本来の文脈上で解釈されるべきと思われます。ここでは、四つの聖なる真実(四聖諦)と二つの真実(二諦)と言う仏教修行上の特別な枠組みを前提とする文脈です。これは基盤、道、目的とする成就の状態を含む完全な体系です。この全体の文脈を知らないと、ここに説かれる姿勢を何か病的なものと誤解される危険があるようにも思われます。背後の文脈を知ることが大切なのです。

 ですから、仏教テキストのどこを読むときにも、仏教修行上の実践面と関係付けられた正しい文脈上で理解することが、非常に大切なことなのです。この点では、勉学と実践修行を結び付けることに、常に重点を置くチベット仏教の伝統はすばらしいと思います。

瞑想 

 今回の瞑想において、無常について考えながら、存在の苦の本質に焦点を当てましょう。無常とは、現象は変化し、決して留まらないと言うことです。「現象(事象と事物)の崩壊は二次的要因を待つことなく、機械的に生起する」と覚ることは重要なことです。このことは「すべての事象と事物は他の要因に支配されている」ということも示しています。例を身体、あるいは五蘊(心身)に取って見ますと、これらは無明と煩悩の影響下にあると理解できます。五蘊が無明と煩悩の影響下にある限り、真の喜びと幸せは有りえません。無明は否定的なものです。そして、否定的力の影響下にあるすべてのものは肯定的で良い、好ましいもの、とは言えないものです。内なる敵である、憎しみと執着あるいは欲望は無明の二人の『親友』です。無明は総理大臣か大統領。憎しみと執着はそのもっとも強力な大臣たちと言えます。この三つを心の『三毒』と呼びます。生きていく存在は、この三つの毒の影響下にあるのです。この三毒の力の支配下に有る限り、常に私たちの存在は本質的に不満足な状態に留まるのです。これが苦の瞑想です。その本当の深い根、単に身心に苦しみを感じると言ったレヴェルではなく、深い真の原因に到達することです。

 無常とその原因について考察することからはじめて、次第にサンサーラ(輪廻)とその欠陥について熟考しましょう。

質疑応答

[質問]西洋の心理治療家たちは怒りの表出を奨励したりします。怒りに対する対治として適切に利用できる、怒りの表出があるのでしょうか?「すべてを吐き出そう!」と、叫ぶ心理学者やカウンセラーに対し、怒りと憎しみについてどう説かれますか?

[ダライラマ]ものごとには色々な状況があることを理解すべきです。例えば、過去の自分に対する侮辱とかを基に、強い怒りや憎しみの感情に巣くわれ、心がその感情で満たされる状況もあるでしょう。そのような時、チベットの諺に『ほら貝の中に何か病気があるならば、吹き出せばぬける』と言われるように、何かほら貝を詰まらせているものがあるならば、だだ吹き出せばいい、そうすればきれいになる、と言う状況もあるかも知れません。つまり、だだ怒りも感情を出るにまかせ、表現するほうが良いという状況のことです。

 一般には怒りや憎しみの感情は、もしチェックされず、気を付けていなければ、居座り、増え続けて行くという性格を持つ感情なのです。従ってできるだけそれらに働き掛け、注意深い態度で、常に力を減じるよう努める方が良いのです。

[質問]怒りと憎しみは執着心と関わってはいませんか? 物に対するだけではなく、主義、イデオロギー、そして特に、永遠なる自己としてある・わたし・に対する執着心にです。

[ダライラマ]おっしゃる通り、怒りも憎しみもその最終的な根、原因は堅固な・我・永遠なる・エゴ・に対する感情に求められます。我とかエゴの概念に対する執着の状態について語る時には、まずこれを二つのタイプに分けるべきです。その一つは、自己中心的態度で、自分の個人的利害が唯一考慮に値することと見なされ、他の者たちの要求や感情に対しては忘れ易く、ほとんど無関心である状態のことです。もう一つのタイプは持続的で、永遠で、具体的な・我・あるいは・私・を信じる状態です。修行の初期段階において、この二つは補足的に働き、一つが他を強め合うのです。心の中ではこの二つは分かち難く結び付いているのです。

 もし、菩提心(すべての命ある者を救うために仏位に達しようとの熱意)の行に重点を置きつつ、現象の究極的性格に対する洞察にほとんど関心を持たない時には、利他的能力の障害となり、いつか状況がその人の知的理解を越え、対応不能に陥る危険があります。このような状況においては、利己的思いに基づいた、他の人々の福祉や感情を無視する感情、自己中心的態度は確かに減少するかも知れません。でも、永遠と見る『我』は依然存在し続けます。同様に、もし空の行に重点を置き過ぎ、菩提心の側面に注意を怠る時には永遠に、確かに存在する、具体的な『我』に対する執着は緩められるかも知れませんが、利己心、自己中心的態度は依然残り続ける危険があるのです。高いレヴェルにおいてはこの二種類のエゴを認識し区別することが大切です。

 故に、完成に向けて精神的修行を行うときには、慈悲と智慧、巧みな手段と洞察と言う二つのものが一つとなった道を選ぶことが大変重要なのです。

 憎しみや執着心は最終的には無明という、現実の本質に対する誤解に根を持つものですから、憎しみや執着心に対する特定の対治(治療法)は、個々の煩悩に対するだけの限定的なものと見なされます。一方、無明に対する対治は無明だけに対して有効であるばかりでなく、憎しみや執着心の根にも効くと言う意味で、より包括的な対治と見なされます。

 また、仏教における・我・の概念について語る時、そこには様々なタイプや程度があることを知っておくべきです。あるタイプの我意識は育てられ、強化されるべきものなのです。例えば「すべての命ある者を幸せにするために仏位を希求する」との強い決心を持つためには、責任と勇気に支えられた、非常に強い自信が必要です。これは強い我意識の上にはじめて成り立つのです。自我へのアイデンティティー感覚を持たない限り、この目的を熱求する自信と勇気は育たないからです。これに加え、仏性の教えは私たちに大きな自信と勇気を与えてくれます。各々の心の中に、完成に至ることを許す、基本的可能性があることを理解させてくれるからです。一方に、別のタイプの我意識があります。それは永遠で、強固、個別的である・我・とか・私・と呼ばれる存在を信じることに起因するものです。その全体について非常に具体的で客観的なイメージを信じているのです。これは自己に対する間違った概念であり、克服すべきものです。

 同様に、この自己に対する間違った概念にも、様々なレヴェルがあります。「永遠、不変の我(魂)をただ単純に信じる」と言うような様々なあらい形のものもあります。さらに考察を深めれば、そこには「ある種の固有の現実、そのものに特有な自立したステータスを持つ」と信じる感覚があることに気付くことでしょう。これは間違った概念なのです。

 もう一つの、他の生き物の福祉や感情、権利などを無視する傾向に関わる強い我意識も、離れ克服されるべきものです。ですから・エゴ・とか・自己・とかが仏教の文脈で使われる時には非常に気を付けて観察されるべきです。「これはだめ、これはいい」といつも白黒で見てはならないのです。 [質問]憤怒尊の役割は何でしょう? [ダライラマ]これを説明することは容易ではありません。基本的考えは「怒りなどの人間の感情には迅速な行動を促す力がある」と言うことです。これが基礎となります。憤怒尊の概念の裏には、怒りや他の煩悩による感情的状態に特徴的に備わるある種のエネルギー理論があるのです。感情的状態はある種のエネルギーを含み、素早い行動を可能にさせます。非常に力強い動機の要因ともなります。憤怒尊に関係する修行はこの事実を踏まえて理解されるべきです。また、煩悩に対する仏教徒の基本的見解についての理解も必要です。大乗以外の教えでは、最終的な目標は個人の輪廻からの解放ですから、菩提心を育むことが重要だとの話しはなく、すべての身体〔身)と言葉(口)と心〔意)の否定的行動、感情は捨てられるべきものなのです。それらが許される例外的状況は皆無です。「捨てられるべきだ」で終わりです。

 しかし、大乗顕教においては、他に仕えることが菩薩の主な目的ですから、ある種の身体と言葉の否定的な行動も許される状況を例外的に認めます。でも、心の不徳については、利となる可能性がないとして否定されます。菩薩であるならば、大きな共同体や多くの有情を助けるためには、間接的に執着心を利用しても良いとされます。しかし、怒りと憎しみを利用することは顕教では決して許されません。  密教には、守護神のヨーガに基づく特殊な空の瞑想法があります。瞑想の過程においてありふれた普通の知覚と知覚の対象を溶かし、解き放って、次第に完璧で神的な個性に生まれ変わるのです。この・わたし・を基にする時には、怒りを修行に利用することも許されます。この文脈上で憤怒尊は密教の瞑想に使われるのです。他の有情のために怒りのエネルギーを使おうとする時には、静寂尊を観想するより憤怒尊を観想するほうが自然でやり易いからです。

[質問]もし、魂がないとすれば、今生から来生へと輪廻転生する心の流れとは一体何ですか? その意識はどのように区別することができるのですか?

[ダライラマ]これは・魂・と言うことばをどう解釈するかに係ってきます。・魂・と言うことばを、この瞬間から次の瞬間へ、今生から来生へと続く個の連続体、ある種の心の連続体として捉えるならば、仏教徒もこれを認めると言えるでしょう。この場合、魂があるかないかはことばの定義の問題となります。一方、仏教教義上の無自性あるいは・無魂・理論においては、永遠、不変に実在する自己を・魂・と呼び、その存在を否定します。でも仏教徒は意識の連続性は否定しません。この意味で、あるチベットの学者、サキャ派のレンダワなどは自我とか魂、チベット語の・gang zag gi bdag 人我(プドガラ)・を受け入れるのです。しかし、同じこのことば・gang zag gi bdag・あるいは、自己、人格、個人的自我は多くの学者により否定されてもいるのです。  仏教学者の中においても「厳密に何を・わたし・の本質とするのか?何が、どんな全体が、この瞬間から次の瞬間へと連続して行くのか?」については様々な意見があるのです。ある者は、身体と心の複合体としての五蘊の中にそれを位置付けようとします。ある者は、身体と心の複合体を基体として名付けられた、名(のみ)として説明する等々です。

 大乗の中でも唯識(Chittamatra,Yogachara)派はアーラヤ識(alayavijnana)と呼ばれる、根本意識の特殊な連続を認めます。この設定される理由は、もしも自分と呼ばれる、瞬間から瞬間へ、今生から来生へと連続する意識の流れが有るならば、・自我・とか・わたし・とか様々に名付けられ得るそのことばの裏にある真の対応物を求めるとき、それは見つけられるべきであり、もしも見つけられないときには・虚無論・に陥ると考えるからなのです。一方もし、自分の身体と心から独立して存在する自我、あるいは行為者を設定する場合には・永久論・に陥る危険があると考えます。さらにもし、自我とか個人を意識の流れそのものの中に求めようとすれば、問題が起ります。それは、仏教徒は意識の不在状態、その時その人にいかなる思考も意識もない状態を認めるからです。そこで、この問題を回避するために、この派は根本的基盤のような、別の意識の連続体を設定し、これをアーラヤ識と呼ぶのです。もし、我性、自己人格性を六つのタイプの意識(六識)と五つの感覚器官の範疇の中のみで説明しようとすれば、前にも指摘しましたように、問題が起るからです。例えば無思考で、意識の無い状態においては、その人は存在しないことになってしまうからです。  
さらに、唯識派がこの特殊な心の流れを設定する必要があると考える別の理由として、仏教では、空の直感的、直接的体験の状態を認めますが、意識が完全に澄みきり、汚れなき状態となったその瞬間に、その人はまだ完全に悟った訳ではありませんが・悟ったような状態・となります。そこに、その人の完全な悟りを妨げる何がしかの汚れを設定する必要があると考えるのです。それを潜在力とか、熏習等々と呼んで理解しようとするのです。そしてそれをまた支えるために、根本的基礎となる中性な意識、有情の心に植え付けられた様々な潜在力の貯蔵所としてのみあるような意識を設定する必要があると考えるのです。

[質問]怒りと憎しみの社会的現象としては、若者の冷酷な殺人等が挙げられると思いますが、これらに対し社会はいかに対応すべきでしょうか。

[ダライラマ]昨日の記者会議でも指摘しましたが、わたしはこの何十年かの間、無視され続けてきたことがあると感じます。この間、幾つかの基本的な人間性の価値の大切さに対し十分に注意を払わなかったのです。そのことが他の要素と相まって、今、わたしたちが見るようなこの種の社会現象を引き起こさせたのです。ですから、これだと言えるような、単純な解決法を見つけることは容易ではないのです。様々な角度からの総合的努力が必要なのです。教育は疑い無く、主要な要素となります。いかに子供たちを教育するかは非常に重要です。特に教師の態度が大切なのです。教師の責任は単に情報や知識を与えるだけではなく、教えようとする規範の良き見本を示すことにあります。子供たちがどのような方法で教育されるかが重要です。特に、大人が良き例を示すべきです。このようにして示された規範や価値観は、子供たちの心に大切なものとして残り続けるのです。また、メディアの責任も大きいと思います。

[質問] 望の影響を減少させるにはどうすれば良いでしょうか?

[ダライラマ] 望がなければ再生もないでしょう。(菩薩、活仏等の)再生のためには、渇望が必要なのです。怒りの場合と同様、渇望にも様々の種類があると思います。あるものは肯定的で、あるものは否定的なものです。渇望は欲の一形態です。それは、過剰な期待に基づく、欲の強化されたものと言えます。  渇望に対する正しい対治は満足の心(足を知る)です。仏教の行者にとっては多くの行が渇望への間接的な対抗力としての働きをします。苦しみからの解放、自由を求める価値に目覚めること、存在に底通する不完全性の認識等です。より直接的には、過剰な渇望の行き着く果てについて考えることです。渇望は欲求不満、失望、多くの混乱、多くの問題へと人を導くものです。

 渇望の特徴は、その動機は満足を得ることでありながら、欲しいものを手に入れても、それに満足できないと言う点にあります。それは際限なく増え続け、ついに問題に至るのです。  一方、もし人がしっかりした満足の感覚を持っているならば、その対象を得ようが得まいが大した問題とはならないのです。どちらにせよ満足できるのです。

[質問]念(注意力、記憶力)と忍耐、また譲歩と忍耐の関係についてお教え下さい。

[ダライラマ]一般に、どんな修行においても念の習慣を持つことは大事なことです。念とは「観察の対象に対し注意を持続させる心の働き」のことだからです。忍耐であろう、他の行であろう、その時の特別の行に対し注意を向け続けることが大切です。このとき念が必要となるのです。

 譲歩と忍耐も近い関係にあります。わたしが「譲歩の心を持て」と言う時の意味は「やり返す能力がある時にも、そうすまいと決心せよ」と言うことです。もし欲するならば、より戦闘的な対抗策を取る能力がある時にも、あえてそうしないことを決心できる能力のことです。これをわたしは・優れた譲歩・と呼ぶのです。状況に打ち負かされ、対抗不能と感じることは・優れた譲歩・とは呼べません。それはただ状況に負け、選択できない状態のことです。  同様に寛容や忍耐にも様々なものがあります。自分の意志で寛容であろうとして行動することは優れたものと言えます。一方、反応を強制される時には、寛容と言うより従順であるだけとも言えるでしょう。そこには違いがあるのです。

 寛容は自発的意志を必要とします。より挑戦的な手段が取れないというのでもなく、強制的に寛容的態度を取らされた、というのでもありません。私たちの中国に対する寛容の行は真摯なものであり、欺瞞ではありません。

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一日目の講義終了

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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