チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2009年1月2日

続シャーンティデーヴァ<忍の教え>法王解説分

Pocket

79ad611e.jpgお正月はやはり、ダライ・ラマ法王の教えを聞くのが一番でしょう。

以下に、この前のシャーンティデーヴァの続きとして法王の解説の部分の試訳を掲載させて頂きます。
初めの方だけですが、、、でも十分長いかも知れませんからご注意を。
縦列がそろわないのはいつものことですが、すみません。

一度には行かないので何度かに分けて掲載します。

質疑応答の中には「中国のジェノサイドに対してどう対応すべきか?」なんてのも有って、面白いですよ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1993年アメリカのアリゾナで行われた法王の講義からです。

題を付けるとすれば:

  チベット仏教の忍の力・   ・ダライ・ラマの忍の一字・   ・ダライ・ラマのイライラ解消法・  ・怒りを癒す  等いろいろ考えられます。

ダライ・ラマ十四世
英訳ゲシェ・ツプテン・ジンバ
(日本語訳 中原一博)
Snow Lion Publication Ithaca, New York
が元本です。

第一日目  第一セッション

 世界の全ての主な宗教において、愛と慈悲、そして忍耐の重要性は強調されています。特に小乗、大乗、そして密教を含めた仏教では特に大切なことと説かれます。あらゆる宗派において慈悲と愛は全ての精神修行の基礎であると明言されているのです。  自らの慈悲を開発、強化し、自らの心に元来備わる秘められた慈悲と愛の力を発揮するための鍵は何かと言えば、これらの良き心に対抗する力を退治することです。そこで忍耐あるいは寛容の行が大切な鍵となるのです。人は忍耐によってのみ慈悲への障害を乗り越えることができるからです。

 一言に忍耐とか寛容と言っても、様々なレヴェルがあります。小はある程度の暑さ寒さに耐えることからはじまり、次第に高次なものに至り、大は偉大な行者や仏道の高位に達した菩薩たちの内に見い出される忍耐と寛容に至るまで様々です。忍耐、寛容とは負の状況や条件に遭遇した時、ひるむことなく、また揺るぎなく不動に留まることができる能力に起因するものです。従ってこれを弱さの印しと見ることなく、揺るぎなく不動に留まることのできる深い能力の印しとして見るべきなのです。暑さ寒さのような、ある程度の肉体的逆境に対し耐えることができるだけでも、その差がその人の態度に大きく反映されます。もし当面のちょっとした困難を我慢することが、後の長期に渡る良き結果を生むことを知的によく理解しているならば、日々の困難にもより耐え易くなることでしょう。同様に菩薩位において高次の忍耐や寛容を行ずる場合にも、この知性の役割が補助として重要な要素となるのです。  

仏教的見地から忍耐、寛容の価値は言うに及ばず、私たちの日々の生活においても心の静けさ、心の平安、心の沈着等を維持する忍耐、寛容を体験することには大きな利があります。もしある人がこの忍耐、寛容の能力を持っているならば、例え非常に緊張し、ストレスの多い環境の中でも、その人の心は乱れないことでしょう。

 今日からの一連の講義において私が説こうとするテキストは仏教の中でも特に大乗仏教に属するテキストです。この教典の中で説かれる多くの実践行は、すでに大乗の道において菩提心の発露に努めつつある行者、菩薩の規範の内に生活を律する行者を対象としています。しかし、ここに説かれるテクニックの多くは、菩薩行を実践する者でもなく、また仏教徒でもない人にとっても適切、有効で実践できるものなのです。  

テキストはサンスクリット語にて・Bodhisattvvacary計at罫a 入菩薩行論(悟りへの道)・と呼ばれます。菩薩行には三つのレヴェルがあり、その第一は菩薩行に入るレヴェルです。そこでは主に全ての有情のために至高の悟りに至ろうと願う、利他的意志である菩提心を強化することが中心課題です。これに次いで第二に六波羅密行を内容とする実際の修行が続きます。発菩提心の主戒であるこの六波羅密行の一つがこの忍耐、寛容の修行なのです。修行の結果として、第三の仏位に達した後の菩薩行実践のレヴェルがあります。  

『入菩薩行論』の第一章においてシャーンティデーヴァは、まず全ての有情のために仏位を願うという利他的熱望としての発菩提心の利徳について語ります。

     密なる大切な心、内に生まれし
     彼の人の身に向かい、私は敬礼いたします
   自らを傷つける者にさえ幸せを運ぶ
その喜びの源に、私は帰依いたします

 利他的意志(菩提心)は他の全ての有情を救うための無限の能力を育む。そのような無量の利他心を生むに至った人は真の尊敬と称賛に値する、と説いています。この無量の利他心は、その人にとってだけでなく他の無数の命ある者(有情)の喜びと幸せの源であるがゆえに、そのような人との接触はたとえ否定的なものであろうとも、関係を持った人々の人生に強い影響を与えるのです。仮にもしある人がそのような人に対し否定的な関係や行動をとってしまったとしても、短期的には悪い結果が現れようとも、長期的には良い結果につながるのです。無量の利他心にはそのような力があるのです。  

この無量の利他心の真の基盤は同情より他を哀れみ慈しむ(慈悲)心です。この心が無量の利他心の根本であるがゆえにチャンドラキールティ(月称)は著書『入中論』の冒頭賛嘆句の最初に通常の形式である仏、菩薩あるいは守護尊への賛嘆の代わりに慈悲に対し句を捧げ、慈悲がいかに大切で永遠の価値を持つかを説いています。初心者の段階において慈悲の価値を低く見てはいけません。実際の修行に入った者も慈悲の価値と大切さを低く見てはいけません。例え仏の位という果の段階に至ったとしても慈悲の大切さと価値に変わりはないのです。世界の全ての主な宗教において、なぜ慈しみの心が大切なのかについては、その説き方に違いはあるにしても、慈悲の心が教えの根本であることでは一致しています。これは大切な共通点なのです。

大ざっぱには慈悲とは、非暴力的な、不害の、非威圧的な心の状態と定義できます。しかし、これだけでは慈悲を単なる執着心や親愛と混同してしまう恐れがあります。そこでまず、愛(慈しみ)又は同情(哀れみ)と言われるものにも二種類のタイプがあることを知っておくべきです。その一つは執着心に基づくか、あるいは執着の匂いが残る心のことであり、この愛や同情、親密さの感情は片寄った、偏見的なものです。この愛情または執着の対象は自分にとって愛しく、親密な誰かであり、そのような人への配慮の気持ちが元にあるのです。もう一つはそのような執着より自由で、こだわりを離れた・優れた慈悲・と呼ばれるものです。その動機は、対象となる人が自分の友人であるとか「自分に優しくしてくれるから、関係のある人だから」ということに因らず、むしろ・優れた慈悲・は「全く自分と同じように他の者も苦しみを乗り越えて幸せになりたい、という本能的欲求を持っており、全く自分と同じようにこの基本的意志を追及する権利がある」との合理的理解を基礎とするものです。基本的平等性と共通性の認識を基礎に好感と親近感を生み、これを基礎に愛と同情の心を育くんでいくのです。

 またこの場合、慈悲の強さと深さを決定する補助的要因として、知性あるいは智慧が関わっていることは明らかです。仏教では、慈悲を三つのタイプに分けて説きます。一番目のレヴェルは、いかなる智慧とも関わりのない慈悲。二番目のレヴェルの慈悲は、すべての命ある者のはかなさ、無常性に対する洞察に支えられたもの。三番目のレヴェルの慈悲は・無対象の慈悲・と呼ばれ、現象の究極的存在様態に対する洞察、智慧に支えられるた慈悲です。このレヴェルにおいて、はじめて人は生きとし生けるすべての有情の空性を悟ります。この洞察が他の有情に対する慈しみの心を非常に強化するのです。このような優れた慈悲、無量の利他心は意識的に種を撒き育てるべきものなのです、わたしたちはみんなこのような心を強め広げるための基盤、可能性(仏性)を生まれながらに持っているのです。

 わたしたちはみんなこの慈悲の基盤、可能性を生得的にもっていますし、また人間の基礎となる、根本的性格は優しさであると、わたしは深く信じています。人間に限らず、すべての命あるものはやさしさをその根本的性格として持っているのです。例えば、幼児期から死に至るまでの人生の様々な場面において、わたしたちはいかに愛情によって育てられてきたか、愛情を受けた時にどのように感じたかを経験しているし、想像でも理解できることでしょう。さらに、体験的に自分が好意的感情を持つ時には自然に心があったかくなります。その上、その態度と思いにおいて愛情深く良心的であることは身体生理学的にもよい影響を及ぼすことができ、健康で心地よく暮らせるもととなります。もしもこれが反対の状況下であれば、健康にもいかに破壊的影響を及ぼすか、と考えて見ることも大切です。これらを理由として「人間の根本的性質の一つはやさしさだ」と考えます。もしそうであれば、わたしたちの存在の根本的性格であるこのやさしさと調和するような生活の仕方、人生の送れるよう努力することにもより多くの意義を認めることができることでしょう。

 しかし一方、他の人々と利害対立が起これば、各々の心の中に、家族の中に、さらに社会レヴェル、国レヴェル、世界レヴェルで実に多くの争いが起こり、緊張感が高まることをわたしたちは知っています。ではこれらはいかに説明されるべきでしょうか。  争いを助長する一つの要因として、想像する機能、言い替えれば知性の働きを上げることができます。一方この争いを乗り越えるための道、方策を見つけるのもまたわたしたちの知性なのです。この人間の知性によって創られた争いを乗り越えるために、知性を使う時、重要な鍵となるのが慈悲心なのです。現実的に争いを乗り越える最上の道は・和解、許しの精神・です。これは個人の心の中においても言えます。そしてこの許しの精神は大いに哀れみ、慈しみ、同情の心(慈悲)と関わっているのです。

 他者の権利と意見を尊重することは慈悲の一面ですが、これが許しの基盤です。わたしたちの心の底には、この慈悲に基づいた和解、許しの精神という道が、その人が意識しているいないに関わらず通じているのです。人間の根本的性格はやさしさであるならば、いかに激しい暴力や悪が犯されようとも、最後に辿り着く正しい解決策は根本的な人間的感覚である、人の愛にたち戻ることでしょう。このように、人間的愛とか慈悲とかはただ宗教上の問題であるばかりか、日々の生活においてもなくてはならぬものなのです。

 以上のことを知った上でこの寛容、忍耐の行を見ていくならばその意味をより深く理解できることでしょう。これはいかに困難であろうとも実践するに値する行なのです。  シャーンティデーヴァの「忍耐」の章の初めの句は 

千劫(無限に等しいほどの長期間)かけて積んだ
布施や仏への供養による徳も
善行のすべても
ただ一瞬の怒りにより破壊される(一)  

この句の暗意は「行者がこの忍耐、寛容の行を成功させるためにまず必要なことは、強い努力(精進の力)、強い意志だ」と言うことです。道中の試練に耐える力は努力と意志力に比例するからです。人生に必ず訪れる試練を喜んで受け入れるという準備が必要です。

 まず第一段階として強い努力の心を生む必要があります。これにはまず怒りと憎しみの破壊的性質と忍耐と寛容の肯定的効果について分析すべきです。テキストには「ただ一瞬の怒りや憎しみも、その力は千劫に渡り積み上げた徳をも破壊する」とあります。他のテキスト、チャンドラキルティー(月称)の『入中論』では「一瞬の怒りと憎しみは百劫の間に積んだ徳を破壊する」とあります。この点における二つのテキスト間の相違は、怒りや憎しみの向けられる対象の違いから説明されます。もしもその人の怒りや憎しみの向けられた対象が修道階梯の上位の菩薩であり、かつその怒りを起こした本人が菩薩でない場合には、壊される徳の量は多いと言われます。それに比べ、もし菩薩が菩薩に対して怒りをいだいた時には、その量は比較的少ないと言うのです。  

「非常に長い間に積んだ徳も一瞬の怒により破壊される」と説かれる時にどのような種類の徳が壊されるのかを知るべきです。このテキストと『入中論』に共通して、そのとき壊れる徳は善行の徳の方であり、智慧の方面でなく主に方便の面での徳がなくなると説かれます。とくに布施や寛大の徳、戒律を守ることより得る徳などが壊されるのです。一方、例えば智慧の行に含まれる真如に対する洞察とか、心の集中の行からくる徳とか、瞑想により得た智慧とかは怒り、憎しみによる破壊を被らないとされます。

 ここで、仏教システム内で特徴的な長さの単位である『劫(イオン)』と言うことばが使われています、アビダルマのシステムによれば、『数劫(イオンズ)』とはつまり『大劫』のことで、二十の中劫の集まった長さのことです。これは仏教の宇宙観に関わっており、この期間内に宇宙の進化の過程がすべて説明されるのです。このアビダルマ宇宙観によれば、進化の過程は四つに分けられます。・虚無空間の時代、進化の時代、住(存続)の時代、破壊の時代・と呼ばれ、さらにそれぞれの時代は細分化されます。これを一五〇~二〇〇億年を単位に説明される現在のビッグ・バン理論と比較して見るのも一興と思います。  智慧の徳、特に真如に対する洞察(空性の体得)と三昧(禅定、寂住、集中力)の獲得または体得からくる徳は怒りや憎しみによる破壊を免れるのです。このことからも「三昧を生み空を洞察することは大事なのだ」と覚えておいてください。

 第二句は 

憎しみほどの悪業はない
忍耐ほどの苦行はない
それゆえ、忍に努め
様々の方法にて瞑想しよう(二)

 一般に慢心(慢)、驕り、嫉妬(嫉)、貪欲(貪)、肉欲、偏狭心等たくさんの煩悩がありますが、中でも怒りと憎しみは最悪とされます。これには二つの理由が上げられます。第一に怒り、憎しみは行者として利他的意志である菩提心や善なる心を強めようと努めるものにとってもっとも躓き易い、障害となるからです。第二に怒り、憎しみの感情が起こることにより、その人の徳と心の静けさが破壊されるからです。仏教心理学では憎しみは六つの根本煩悩の一つです。チベット語ではこれを・シェ・ダン(zhe sdan)・と呼びます。英語には・anger 怒・または・hatred 憎しみ・と訳せるでしょう。しかし、わたしはこれを・hatred 憎しみ・と訳すべきと考えます。英語の・anger 怒り・は特別の状況下においては肯定的意味も持ちえるからです。その怒りが慈悲を動機とするときとか、善なる行動への原動力や触媒として働くときなどです。このような稀な状況下では・怒り・は肯定的意味を持ち得ますが・憎しみ・は決して良い意味を持ち得ず、常に否定的意味しか持ちません。

・憎しみ・は常に否定的意味しか持ちませんから、チベット語の・シェ・ダン(zhe sdan)・が密教の文脈中に使われる時にはこれを決して・憎しみ・と訳すべきではありません。時に「修道のために憎しみを使う」との表現を耳にしますが、これは誤訳と言えます。この場合・憎しみ・は適語ではなく・怒り・の方を使い「修道のために怒りを使う」と訳されるべきです。チベット語の・シェ・ダン(zhe sdan)・は・怒り・とも・憎しみ・とも訳せますが、煩悩の一つとして言及される時には・憎しみ・と訳されるべきです。

 第二句の下二行には

それゆえ、忍に努め
様々の方法にて瞑想しよう(二後半)

とあります。目標はわたしたちの寛容能力の増大、忍耐を行ずることですから、怒りと憎しみ、特に憎しみの力に対抗できることが必要です。このために、あらゆるテクニックを使って、様々な面から、これを強化するために忍耐に慣れ親しむ(瞑想する)のです。現実の生活内での状況が利用されるのはもちろん、想像力で様々な状況を観想し、自分がいかに反応するかを試して見ることもできます。繰り返し何度も憎しみに打ち勝つよう努力し、寛容と忍耐の能力を増大すべきなのです。

悲痛なる憎しみに心捕われるなら
心静まること知らず
喜びも幸せも見い出せず
眠ることあたわず、心千々に乱れる(三)

この句において憎しみの破壊的効果が描写されますが、これらは非常に明らかで、目につき易くまた即時的です。例えば、ある強い憎しみの思いが起こったとします、すると一瞬にしてその思いはその人を圧倒し、平静さを失わせます。この憎しみが心の内に巣くうようになれば、人は常に緊張感に曝され、食欲不振、不眠等に陥ります。

わたしたちの生存の目的は幸福の追及と完成にあるとわたしは信じます。仏教的見地から幸福と完成の四つの要素(四無量心)を語るときそのはじめの二つは開放とか悟りとかの宗教的、精神的究極の追及とは関係のない、世俗的言語で語れる喜びと幸せの達成です。このレヴェルの喜びと幸せをより完全に経験するための鍵は心の状態にあります。もちろんこのレヴェルの喜びと幸せの達成には、様々な要素が必要です。幸福な生活の必要要素として世俗に認められる身体的健康とか、もう一つの要素としては金銭的蓄えとかです。世俗的にはわたしたちはこれらを喜びと幸せの源と見なしています。第三の要素は友や仲間を持つことでしょう。慣習的にわたしたちは幸福で充実した人生を享受するにはこれらが必要と考え、また信頼し感情的に関わることのできる友人、仲間に囲まれたいと願うのです。

 確かにこれらは幸せの源であり得ましょう、しかし幸せで充実した生活を享受する目的のためにこれらを充分に利用するためには、その人の心の状態が鍵となるのです。もしもある人の心の内に憎しみが巣食っていたり、心の底に強い怒りをいだいていれば、先の第一の要素である健康を損ないましょう。もしも素晴らしい所有物が自分の手にあろうとも、その人が一瞬、強い怒りや憎しみに襲われれば投げつけ壊したくなることでしょう。このことからしても、富のみが求める喜びの保証とならないことは明かです。同様にして、人が強い怒りや憎しみの状態にある時には、非常に親しい友人も何か・しらけた風・に見え、冷淡で悩ましくさえ見えるものです。

 これらは、喜びや幸せを味わえるかどうかは、わたしたちの心の状態に大きく関わっていることを示しているのです。仏教の行として見なくとも、普通の意味で、幸せな日々を享受するためにも、心の状態に気を付けるこのことは大切なのです。心が静かになればなるほど、心の平安は増し、幸せで楽しい人生を享受する能力も増えるのです。

 しかしここで言う心の静まった状態とか、心の平安を完全な無感覚、無感動な状態、いわゆる・飛んだ・状態、空虚な状態と混同してはなりません。そのような状態は心の静まった、平安な状態とは呼べません。

 優れた心の平安は愛情と慈悲を伴っています。そこには非常に高いレヴェルの感受性、感覚が働いています。内的規律と心の平静さがなければ、いかに外的に豊かな条件を持っていようとも、決して求める喜びや幸せの感覚を与えてはくれないでしょう。逆にもし、この内的資質である心の静けさ、内的安定を持っているならば、一般に幸せで楽しい生活に必要とされる様々な外的条件が揃っていなくとも、依然として幸せに楽しく暮らすことが可能なのです。

 心の内に「いかにして怒りとか憎しみの感情が起こるのか」と観察するならば、自分たちが害されたと感じたり、だれかが予測に反して自分たちを不当に扱ったと感じたりする時に起こることが見てとれましょう。もしその瞬間に怒りがいかに湧き起こるかを注意深く観察するならば、それはあたかも自分を守る者のように、戦いを助けてくれる友、自分を害する者に対し復讐してくれる友のように現れることに気付くことでしょう。つまり怒りや憎しみの思いは自分を守る盾のように現れるのです。でも実際にはこれは幻想であり、心のまやかしの状態なのです。

 チャンドラキールティは『入中論』の中で「もしも、その復讐がなんらかの意味で自分を助けてくれたり、すでに被った被害を取り戻したり、減らしたりすることができるのであれば、力に力をもって答えることもいくらか正当化されよう、しかし実際には、肉体的その他の場合でも、その被害はすでに起こってしまった後なので、いかに復讐しようとも、被ってしまった傷や被害を予防したり減じたりすることはできない」と説いています。

 状況に対して寛大に対処せず、否定的な方法で対応するならば、その場で利を得られないばかりか、否定的態度や感情を起こすことで将来に悪い種を残すことにもなります。仏教的では復讐の悪果はその人のみが来世で味わうものとされます。 このように復讐には短期的な利がないだけでなく、長期的にもその人に害となるのです。

 しかし、もしある人が非常に不当な扱いを受け、状況が他に全く知らされない時には、その罪を犯す者は非常に否定的な結果を受けることになるでしょう。そのような状況においては何か強い対抗手段が必要とされます。罪を犯す者への哀れみより、怒りや憎しみを抱くことなく、実際に強い抵抗や対抗策を取ることができます。事実、菩薩戒の一つとして「必要な状況において強い対抗策をとるべきこと」と言うのがあります。もしも必要な状況においてある菩薩が強い対抗策を取らなかった場合には戒を破ったことになるのです。

 また『入中論』にも指摘されるように、憎しみの思いを起こすことは来世で悪種に生まれる原因となるばかりか、強い怒りの感情が起こるやいなや、人はいかに威厳あるポーズをとろうと努めても、その顔は醜くなるばかりです。不快な表情と共にその人の放つヴァイブレーションはひどく敵対的となります。回りの人はこれをまるでその人の体から発散される湯気のように感じるのです。実際これは人だけが感じるだけでなく、ペットや他の動物さえそのような人を避けようとします。

 これらが憎しみのその場の結果です。それは非常に醜い不快な身体的変化を当人に及ぼします。その上、強い怒り憎しみが起こるならば、ことの善悪を判断する能力と長期的、短期的結果を予測するという、わたしたちの頭脳の最良の部分が機能しなくなります。頭が働かなくなり、ほとんどその人は狂ったかのごとくになってしまいます。これらの否定的で破壊的な影響を考えるとき、わたしたちは感情の爆発を離れるべきだと理解するのです。

 この怒りと憎しみの破壊効果に限っては、富によって守ることもできません。たとえその人が億万長者であろうとも依然その人はその破壊効果の対象となるのです。また教育もこの際、何の保証にもなりません。同様に法律も防御とはなりません。核武器をもってしても、いかに洗練された防御システムをもってしてもこの攻撃の効果を防ぐことはできないのです。

 この怒りと憎しみの破壊効果を防ぐために頼れる唯一の方法は寛容と忍耐の実践だけなのです。 瞑想 ここで、今までお話しした事柄を考察するために、五分間黙想の時間を取りましょう。

質疑応答

[質問]昨晩のインタビューでのお話しによれば、確か法王はわたしたちの根本の性格は慈悲深く、やさしいものだ、とおっしゃったと思いますが?

[ダライラマ]その通りです。さきほどもこのことについて話しました。

[質問]では、一体どこから憎しみは来るのでしょうか?

[ダライラマ]この質問に本当に答えるには長時間の議論が必要でしょう。まず仏教徒は心には様々なレベルがあると考えます。この内もっとも微細な心が、前世、今世、来世の基礎になるのです。この微細な心は原因と条件に従って生起する有為、無常の現象です。仏教徒は心は物質からは生まれないと結論づけています。従って唯一の選択として心の連続性を受け入れるのです。これが再生の理論の基礎となります。

心のあるところ、また無明と憎しみも自然に起こります。これらの否定的感情、同様に肯定的感情も無始より存在するといえます。すべては心の一部なのです。しかし否定的感情は正しい土台を持たない根源的無知(無明)に由来するものです。いかに強力そうに見えようとも、否定的感情には確かな拠り所がないのです。一方肯定的感情である慈悲とか智慧には論理的理解に基付くと言う、確かな拠り所があるのです。

この微細な心の性格は中性です。従ってすべての否定的感情は浄化され取り除かれる可能性があるのです。この根本性格を・仏性・と呼ぶのです。憎しみや他の否定的感情に始まりは見付けられません。しかし、終りはあるのです。心自体には始まりも終りもありません。

[質問]どのような状況が強い対抗策の必要な時と言えるでしょうか? また例えばそれはどんなことでしょうか?中国によるチベット人ジェノサイドに例をとるとき、法王の行動のなかにわたしたちは何を学ぶべきでしょうか?

[ダライラマ]あなたを害する誰かに対し、強い対抗策をとるべき理由の一つは、もしそれを放っておくならば、その人はひどい悪事に習慣付くことにより、長期的に悪事を繰り返し、結果として破壊的な状況がその人に起こるからです。従って強い対抗策は相手に対する配慮、慈悲の心よりとられるのです。このような理解に動機づけられて行動がとられるときには、相手に対する配慮が常に伴われます。

 中国政府に対する対応については、常にまず否定的感情を避けるよう努めています。意識的に感情を制御するよう努めます。怒りの心が起こりそうなときには慎重に心を観察しこれを抑え、逆に中国人に対する慈悲の感情を増やしていきます。

 罪を犯す者や侵略者に対し慈悲の心を持つべき理由の一つは、侵略者は罪を犯し続けることにより、後に良くない結果を生む原因と条件を積み続けているからです。この意味で侵略者に対し慈悲を感じるのです。

 このような考察を通して中国人に対処しているのです。指摘されるように、この状況は人が怒りや憎しみにどう対処すべきかの例となるのです。同時に真理に基づく道義を堅固に守り続けることの大切さを忘れず、必要な状況においては強い対抗策をもとることもあるのです。

[質問]相手の憎しみに対抗策をとると、自分自身の内には憎しみがなくとも、しばしば相手の憎しみを増すように見えるときがあります。どのように対処すべきでしょうか?

[ダライラマ]これは非常に良い質問だと思います。そのようなときには状況に応じて、その場で決定されるべきです。そのためには、その場の流れや状況に対する感受性が必要です。ある場合には、ご指摘のように自分に憎しみの感情がなくとも、強い対抗策をとることにより、相手の怒りや憎しみの感情を増幅させてしまうことがあるでしょう。そのような状況においては、何も策をとらずやり過ごすこともありえます。

 まずその行動の結果を判断することが大事です。もし、相手がその悪い習慣を将来にも続けることにより、長期的に破壊的状況が予測されるようなときには強い対抗策がとられるべきです。しかし、もし強く反応することにより、状況が悪化し相手の怒りや憎しみが増すようなときには、おそらく状況に従って反応を示さず、そのままにしておくというか、やり過ごすべきでしょう。つまり、それぞれの状況に対する感受性が必要となるのです。

 この状況は、一つの仏教的教訓に関係するところがあります。つまり、自分の個人的要求に関する限りにおいては、のめり込まず、義務を減らし、用事や仕事その他何事においても最小限とすることが理想とされます。一方、事が大きな共同体の利害に関わるときには、できるだけ熱心に、できるだけ多くの活動をなすべきとされます。

[質問]一瞬の怒りは同等の一瞬の徳を破壊するのではなく、どうしてそれほど多くの徳を破壊するのでしょうか? それは例えば、一瞬の幸せを創りだすためには限りなく長い間に渡る徳の積み重ねが必要であり、一瞬の怒りはその瞬間を享受することを許さないと言うことなのでしょうか?

[ダライラマ]この質問に答え、どうしてそうなのかを言うことは非常にむづかしいことです。おそらく、この点は仏教徒の呼ぶ『非常に隠された現象(極隠蔽分)』にあたります。一般に現象の性格や観察の対象について語るときには、仏教徒は現象を三つのカテゴリーに分けます。第一のカテゴリーはわたしたちの感覚にとって顕著で明かな事物と事象を含みます。二番目のカテゴリーの現象とは顕著で明白ではない事物と事象、推理によってのみ理解され知覚される現象です。この一つの例としては空性の洞察が上げられます。これは明白ではありません。分析能力を使ってはじめて現象の空性が推理されるのです。同様に現象の無常性、一瞬ごとに変化する性質も推理により理解される現象に含まれます。第三のカテゴリーの現象は用語的に『非常に隠された現象』と呼ばれます。

 例えば「菩薩に対して怒りや憎しみを抱くならば、その一瞬の力は幾劫にも渡って積んだ徳を破壊するに十分だ」と言うことなどは顕著で明白でもなく、論理的な推論により理解される現象でもありません。唯一経典の記実に従って受け入れるしかないものです。経典を証拠としたり、権威とすると言っても、どんな経典でも良いと言う訳ではありません。権威ある経典はある特別の基準を持つべきです。

 まず仏教徒はいかに経典や様々な経典の権威に関わるかについて理解しておくことが大事です。仏教の学派の一つである経量部においては「経典はすべて歴史的人物であるシャカムニ・ブッダの説かれた正当な教えとして、文字通り受け入れることができる」と説きます。ですから経量部では文字通り受け取るべき経典(了義経)と文字通りには受け取るべきでない経典(未了義経)の区別は存在しません。一方、すべての大乗の学派はこの区別を採用します。ある経典は文字通りにそれを最終的意味として受け取ることができ、ある経典は文字通りに受け取ることはできず、さらなる解釈を必要とするのです。ここで問題となるのは、では一体ある経典がそのどちらにあたるかをいかに判断するのか、と言うことです。もし、そのためにさらに他の経典に拠る必要があるとすれば、手続きは無限に続くことになるでしょう。それを決めるための経典を決めるための経典というようにです。最終的な決定は人間の論理的理性による理解に頼るしかありません。この論理的分析と理解により了義、未了義は決定されるのです。

 では、第三のカテゴリー、窮めて隠された現象について説く経典の正当性は、いかに決定されるべきなのでしょうか?これについては、前にも触れましたが、経典の権威、釈尊の証言に拠ってのみその正当性が受け入れられます。そのためにはまず、それを説く人、この場合には釈尊に対する信頼性を確立する必要があります。方法は、ただ一つのみの経典に拠らず、分析や推論を使って理解可能な現象をあつかう釈尊の直接のことば、教えを観察することに拠るべきです。これには例えば、修行階梯についての教えや現象の究極的性質についての教え等が含まれます。これらの点について釈尊の教えの正当性が自身の内に確立されたならば、その延長線上に教主である釈尊自身の正当性が確信されます。さらに、窮めて隠された現象について説かれる特別な経典についても、その内容に矛盾がないかを観察する必要はあります。  つまり、この二つの要素の組み合わせにより、釈尊が信頼すべき教主であり、経典にも矛盾がないことが確立されるべきなのです。その後に初めて個々の事象についての釈尊のことばを受け入れることができるのです。

[質問]自分の子供に対し、忍耐についていかに説くベきでしょうか? 子供の怒りに対しいかに対応すべきでしょうか?

[ダライラマ]子供に忍耐をいかに説くべきかについては、実際子供に忍耐の価値や重要性をことばで説明することはきわめてむづかしいことです。大切なことは子供に良い例を示すことです。もしもあなた自身が常に短気でちょっとしたことにもすぐに怒るようであれば、子供に対し「おこっちゃだめ!我慢が大事よ!」といくら言ってもまったく効果はないでしょう。

 子供の怒りに対しいかに対応すべきか? との質問に答えることは、わたしには非常に難しいことです。しかし、このテキストの中で説かれるような、いかに忍耐を増やすべきかについての一般論の多くは、そのような状況にも適用できると思います。

[質問]沸き上がる怒りや憎しみを発散させるにはどのような方法をとるべきでしょうか?

[ダライラマ]まず必要なことは、状況を観察し、そのときの怒りや憎しみはどのような要因により引き起こされるのかをチェックすることです。それに従い色々な方法がとられるのです。しかしこのためには、その人が日々の生活の中ですでに何らかの精神的行をおこなっていることが必要です。この点に関しては後にテキストで説かれることでしょう。

[質問]忍耐はときに弱さの現れではないでしょうか?

[ダライラマ]どうも、菩薩について少し誤解があるように思われます。菩薩とは弱い人のような印象をもってはなりなせん。菩薩とは最も勇敢な人と見ることができるのです。彼らはその道義に対しもっとも堅固で決断力があります。一般的に、もし足の先を踏まれただけでもいつもすぐに断固とした反応を示すような人をもって勇敢で性格の強い人と言われるならば、菩薩とはすべての命あるもの(有情)の心の内なる悪と敢然に戦うと誓約した人ですから、その意味では同様に強い人で傲慢な人とさえ呼べるかもしれません。もっともこちらは正しい理由を基にしているとの違いはありますが。勇敢な態度は見方によれば傲慢の現れです。肯定的意味においてですが。  例えば、この入菩提行論の第十章・廻向・等の菩薩たちによって著された請願を読むならば、菩薩たちがいかに現実には実行不可能と思われる多くの願いを持っているか解ることでしょう。彼らはそのような理想的ヴィジョンと請願の内に生きているのです。わたしは彼らを勇者と見なします。非常に勇敢な人だと考えます。わたしには弱さは全く感じられません。菩薩は必要なときには必ず強い対抗策をとることができます。

[質問]すでに廻向してしまった徳も、後の怒りにより破壊されるのでしょうか?

[ダライラマ]もしもあなたの廻向が、窮めて強い悟りへの意志とか、利他的意志である菩提心とか現象の空性の確信とかの要素に伴われているならば、もちろんその徳は破壊されることはなく、守られます。

 廻向は仏教の修行上たいへん重要なものです。マイトレーヤ(弥勒)は『現観荘厳論』の中で、廻向の正しい方法として、菩提心に強く動機付けられて行われることの重要性を説いています。徳を廻向するときには、非常に強い菩提心を動機に、すべての命ある者の福利のためとの思いと供に行われるべきです。加えて、廻向の最中、すべての現象の空性、現象の幻のごとき性質について明らかな理解を持ち続けるべきです。廻向はその行為者、行為、行為の対象の無実体性により・封印・されねばなりません。これが・三空による封印・と呼ばれるもので、このような行に伴われるならば、あなたの徳は守られます。仏教の行を効果的で力強いものにするためには、行のある一面のみに集中するだけでは十分ではありません。智慧とか廻向等の多くの補助的要因が同時に必要なのです。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

ちべろぐ

Archives

  • 2018年3月 (3)
  • 2017年12月 (2)
  • 2017年11月 (1)
  • 2017年7月 (2)
  • 2017年5月 (4)
  • 2017年4月 (1)
  • 2017年3月 (1)
  • 2016年12月 (2)
  • 2016年7月 (1)
  • 2016年6月 (1)
  • 2016年5月 (9)
  • 2016年3月 (1)
  • 2015年11月 (1)
  • 2015年10月 (2)
  • 2015年9月 (4)
  • 2015年8月 (2)
  • 2015年7月 (14)
  • 2015年6月 (2)
  • 2015年5月 (4)
  • 2015年4月 (5)
  • 2015年3月 (5)
  • 2015年2月 (2)
  • 2015年1月 (2)
  • 2014年12月 (12)
  • 2014年11月 (5)
  • 2014年10月 (10)
  • 2014年9月 (10)
  • 2014年8月 (3)
  • 2014年7月 (9)
  • 2014年6月 (11)
  • 2014年5月 (7)
  • 2014年4月 (21)
  • 2014年3月 (21)
  • 2014年2月 (18)
  • 2014年1月 (18)
  • 2013年12月 (20)
  • 2013年11月 (18)
  • 2013年10月 (26)
  • 2013年9月 (20)
  • 2013年8月 (17)
  • 2013年7月 (29)
  • 2013年6月 (29)
  • 2013年5月 (29)
  • 2013年4月 (29)
  • 2013年3月 (33)
  • 2013年2月 (30)
  • 2013年1月 (28)
  • 2012年12月 (37)
  • 2012年11月 (48)
  • 2012年10月 (32)
  • 2012年9月 (30)
  • 2012年8月 (38)
  • 2012年7月 (26)
  • 2012年6月 (27)
  • 2012年5月 (18)
  • 2012年4月 (28)
  • 2012年3月 (40)
  • 2012年2月 (35)
  • 2012年1月 (34)
  • 2011年12月 (24)
  • 2011年11月 (34)
  • 2011年10月 (32)
  • 2011年9月 (30)
  • 2011年8月 (31)
  • 2011年7月 (22)
  • 2011年6月 (28)
  • 2011年5月 (30)
  • 2011年4月 (27)
  • 2011年3月 (31)
  • 2011年2月 (29)
  • 2011年1月 (27)
  • 2010年12月 (26)
  • 2010年11月 (22)
  • 2010年10月 (37)
  • 2010年9月 (21)
  • 2010年8月 (23)
  • 2010年7月 (27)
  • 2010年6月 (24)
  • 2010年5月 (44)
  • 2010年4月 (34)
  • 2010年3月 (25)
  • 2010年2月 (5)
  • 2010年1月 (20)
  • 2009年12月 (25)
  • 2009年11月 (23)
  • 2009年10月 (35)
  • 2009年9月 (32)
  • 2009年8月 (26)
  • 2009年7月 (26)
  • 2009年6月 (19)
  • 2009年5月 (54)
  • 2009年4月 (52)
  • 2009年3月 (42)
  • 2009年2月 (14)
  • 2009年1月 (26)
  • 2008年12月 (33)
  • 2008年11月 (31)
  • 2008年10月 (25)
  • 2008年9月 (24)
  • 2008年8月 (24)
  • 2008年7月 (36)
  • 2008年6月 (59)
  • 2008年5月 (77)
  • 2008年4月 (59)
  • 2008年3月 (12)