チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2008年12月31日

年の終りに。 シャーンティデーヴァ「入菩提行論」第六章「忍耐」

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5f08786e.JPGとうとう、今年も今日が最後。時は去り、セーヌも流れ去り、私は残る、です。

年の初めにはまさか、今年がこんな年になるなどとはつゆ知らず、さて今年は何しよう、、、???去年は上座部系仏教とヨガに凝った一年だったので、今年はも一度密教かな?長年念願のミラレパでも訳そうぞ、と思ったりしてました。
相変わらず本業のことは何も考えてない。

しかし、3月、突然、チベットが騒然となりました。
もちろん少しはその前から、今年は何か起こるかも知れない?との雰囲気はありました。

それにしても、あまりにも衝撃的な始まりでした。ラサで続いてアムド、カムで一斉にチベット人が蜂起した。町の至るところに、銃弾に倒れた人々の大きな死体写真が張り出されました。

亡命チベット人たちは朝から夜遅くまで、毎日声を張り上げ、中国に対する抗議のデモと集会を繰り返す。ここでデモしても中国の兵士が来るわけではないのですが、みんなその顔つきは戦争がはじまったかのごとく本気でした。

そんな状況のただ中にあり、一方に相変わらずチベットに関しては、正確な情報不足、中国寄りの報道が目立つ日本の状況を思い、はじめは<裏るんた>を通じてダラムサラ通信をはじめました。

というか、私も「忍」が切れ、怒ったのです!
ギリシャでのオリンピック・トーチの点火式を見ていて、私の心にも久しぶりに火が点いたのです。

図面は少しは描けるが、文章の方はまるで苦手の素人である私が、突然なぜかレポーターごっこを始めたというわけです。
自分でブログを作ることを、そのころダラムサラにいたフリー・チベット仲間の辻井くんに教えてもらい、その日から、今日までほぼ毎日更新し続けてきました。
昔から日記が書けない人で、書いたこともないのに、不思議です。

オリンピックまでは一日に3,4回もアップしてたようだ。数人から「あんまり多いとついていけません」と言われたりして、回数はそれから減らしました。とにかく忙しかった。それだけいろんなことが起こっていたのです。

チベットのいたるところで、たくさんの人々が行進し、殺されていく。
悲しい話がたくさん毎日届けられました。
なぜかチベットの話はみな悲しいものばかりのような気がする。

長年虐げられ続けてきた、チベットの貧しい農民や遊牧民が追い詰められ声を上げる。
それを情け容赦もなく、殴りつけ、撃ち殺す。
逮捕された者たちは、恐怖の見せしめのために、できるだけ残酷な仕方で拷問される。

確かに、チベットだけではない、世界中でこんなことは起こっている。
でも、チベットは少なくとも私には特別の意味がある。このチベットの教えと文化だけはなくならないでほしい。
未来への大切なメッセージを含む、真の精神的世界遺産だと感じるから。(遺産にしてはいけませんが)
この文化が消滅することは世界から「大切な心」が一つなくなることだから。

法王も「チベットが自由になることは、自分たちの最終目的である<人類への精神面での貢献>を効果的に果たすために必要なことだからだ」とおっしゃっています。

だから、みんなもその気で来年も<フリー・チベット>・<フリー・チャイナ>のために頑張ってみてください。

ーーー
31,12,08ルンタレストランの皆
ルンタ・レストランも昨日が今年最後の営業日でした。今日は大掃除の日です。
この一年間、沢山の日本人現地滞在者、旅行者、チベットアクティビスト、報道関係者、学者、仏教修行者、ヨガ行者、子供等がおいで下さいました。
御ひいきにして頂きありがとうございます。

今日からルンタ・レストランは来年3月1日まで二ヶ月間お休みです。
来年もまた、ルンタ屋上ヨガクラブは参加者のいる限りできるだけ行うつもりです。
ヨガ好きの方はおいで下さい。

冬休みの間ここのチベット人たちは温かいインドの平野部に、セーター売りに出かける者、巡礼に出る者が多く、町はほぼ来年のロサまで空っぽになります。

法王は年明け1月8日から14日までヴェナレスの近く、ブッダ初転法輪の地サルナートにて一週間の仏教講義を行われます。
テキストはカマラシーラの「ゴムリン・バルワ 修習次第中編」及びシャーンティデーヴァの「チュンジュック 入菩提行論」であります。

これを目当てに大勢のチベット人、外人がこのころヴェナレスに集まることでしょう。

さて、私は1月半ばより南インド、ネパール、日本を訪れ3月10日前にはまたここに帰ってくる予定です。

このブログいつまで続くやら、、、来年はチベットにとって、また大きな一年なのだから、来年もできるだけ続けようと思っています。ですからアクセスお願いしますね。

今年最後に、なが~~~い文章(経典)を付録に載せさせていただきます。
興味のない方はパスされて結構です。

「シャーンティデーヴァ」と聞いてふと思い出したのです。
「入菩提行論」は法王の一番のお気に入り講義でもあります。

毎日、かつて10年間ここの図書館の仏教講座に通っていたころ、授業の始めに唱えるお経の一節に

 その御名の光のほんの一片でも
 幸運な者の耳に至るやいなや
 その者の心の闇を照らし去る
 そのようなシャーンティデーヴァの御足に敬礼し洞察を請う

というのがありました。
チベットの監獄に届くことを心より願う。

嘗て、もう10年前ごろに試訳した、
シャーンティデーヴァの「チュンジュック 入菩提行論」第六「忍耐」の章です。

すでに三浦さんだったか?の翻訳本が日本でも出ていると聞いてます。さらに興味のある方はその本をお読みください。

まず、本文のみの訳、次に法王がかつて解説された講義録のはじめの方だけ掲載します。(と考えていましたが、列を揃えることが難しいとわかりましたので、今日はとりあえず本文のみとします。縦列がそろわなくて読みにくい点は御勘弁を)。

これからの世の中、チベットだけじゃない、世界中が益々困難な状況に向かおうとしています。
まずは明るく耐えるしかない。智慧と慈悲を鍛えるしかない。

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  (1)  数千劫かけて積んだ  
      布施や仏への供養による徳も    
      善行のすべても    
      ただ一度の怒りにより、台無しとなる  

  (2)  憎しみほどの悪業はない   
      忍耐ほどの苦行はない     
      ゆえに、忍耐を常に心し     
      様々の方法にて修習すべし

  (3)  悲痛なる憎しみが心に巣くう時    
      心静まること知らず     
      喜びも幸せも見い出せず    
      眠ることあたわず、心散ぢに乱れる
 
  (4)  その生活や尊敬に対し    
      恩ある召使でさえ    
      怒る主人には    
      殺そうと襲いかかる

  (5)  友や親内の者は悲しくなる    
      施しにより(人を)集めてみても、頼ってもらえない   
      このように、憎しみのあるところ     
      喜びもない

  (6)  憎しみと言う敵は、かくの如く
      様々な苦しみを創りだす     
      努めて憎しみを打ち破る人は    
      今世と来世の幸せを得る 

  (7)  望まぬ行為と   
      望みを邪魔されることによる   
      心の不幸に煽られて     
      憎しみは増し、わたしは破壊される
 
  (8)  では、まずわたしはこの敵の    
       食料を完全に取り上げよう     
       この敵はわたしを      
       害するばかりの故に

  (9)  どんなことが起きようと    
       わたしは喜びの心を乱すまい    
       不機嫌になって、思いが叶うわけでなし   
       ただ、善行の衰えるばかりがゆえに

  (10) もし、治る当てがあるのなら 
       不機嫌に何の用があろう    
       もし、治る当てがないのなら   
       不機嫌に何の利があろう

  (11) 私や私の友人に対しては   
       苦しみ、不名誉、陰口など    
       どんな不快も望まぬが    
       敵に対してはまるで逆とは

  (12) 幸せの因が起こることは稀   
       そして、苦しみの因にはこと欠かぬ    
       でも、苦しみがなければ、出離もない  
       だから、心よ、堅固であれ  

  (13) もしも、(ドゥルガー教徒の)苦行者やカルナータカさえも、
       意味無に、焼かれたり、切られたりすることに耐えるなら                     彼岸のためというのに、    
       どうして私はこんなに臆病なのか?

  (14) 慣れにより簡単にならない   
       ことは何もない      
       だから、小さな害に慣れて  
       大きな害を耐えることを学ぼう

  (15) 蛇に噛まれ、蜂に刺され     
       飢えや渇きや      
       痒みなど     
       意味ない小さな苦痛も無視せず慣れよ
 
  (16) 暑さ寒さ、雨に風    
       病や縛られ、打たれたり   
       でも短気は起こすまい    
       害は増すばかりのゆえに  
 
  (17) ある者は、自分の血を見ると
       勇気がさらに湧く     
       ある者は、人の血を見ると   
       卒倒し、生気を失う
 
  (18) この違いは、心の    
       強さ、弱さから来る  
       だから、苦しみを気にせず   
       苦しみの影響を受けまい

  (19) 賢人に苦しみが生じても  
       心を清く保ち、濁らせてはならない  
       煩悩と戦場に戦い合う時     
       多くの傷を受けるは当り前

  (20) すべての苦をもろともせず   
       怒り等の敵を下す      
       これが真の戦士     
       普通の戦士は死体を殺す者のごとし

  (21) ほかに苦しみの利益は  
       悲しみにより驕りがなくなり   
       輪廻するものに対する慈悲を生み   
       悪を恐れ、仏に近づく

  (22) 肝炎等の苦しみに遭ったとて
       病気に怒ることはないのに   
       心持つものたちにはどうして怒るのか?  
       それもこれも条件(縁)により生起したのみ

  (23) 例えば、望んだわけではないのに   
       病は(条件が揃えば自然に)起るように  
       望んだわけではないのに   
       逆らい難く煩悩は起る

  (24) 病もうとしたわけではないのに  
       人は心ならずも病んでしまう   
       怒ろうとしたわけではないのに  
       人は心ならずも怒ってしまう

  (25) すべての犯罪、様々な悪行  
       これらすべては     
       条件の力により生起した(のみ)  
       自立して存在するものではない

  (26) それら寄り集まった条件たちには   
       私が生もう、との意志はなく 
       それらにより生まれるそれ(苦しみ)にも  
       私は生まれしめられた、との思いがあるわけではない

  (27) (シャーンキャ学派の)根本元素と呼ばれ主張されるもの                アートマン(梵我、我)と名付けられたもの
       これらは、(創られたものでないゆえに)生じようと意図し              (害を与えようと)生じたものではない

  (28) 不生にして存在しないなら  
        生じようという意志も  
       対象に常に従うゆえに   
       止められぬこととなろう

  (29) もしも、我が不変であるならば    
       明らかに空間のごとく、無為であろう
       他の条件に出会っても   
       不変なものにどうして作用(影響、行為)が生じよう

  (30) 作用(影響)されても、不変ならば   
       作用(影響)を与えて何になろう    
       この我に対し、この作用はあったと   
       どうして、関係付けることができるのか

  (31) かくのごとく、すべては他に拠ってある  
       他に拠るがゆえに、独立して存在しえない  
       このように知って、幻のごとき     
       すべての現象に対し、怒るまい

  (32) 「では、誰が何を抑えるというのか  
        抑えるということ自体、不理となろう」(と、反論するならば)                       抑制により様々な苦しみの流れ    
       尽きるゆえに不理ではない

  (33) だから、敵であろう、友であろう  
       不当な行為を見るときは    
       これは、条件に拠り生じた   
       と知って、喜びの心を失うまい

  (34) もし、選択の自由があるのなら
       誰も自ら苦しみたい者はいない   
       すべての命ある者に     
       苦しみの生じることもなかろうに

   (35) 気が狂ったうように、自分から  
       とげに刺されるなど、害をつくり   
       女などがほしいとて    
       おかしくなり、食を断つ者もいる

  (36) ある者は、首を吊ったり、崖から飛び降りたり   
       毒や変な(不健康な)ものを食べたり    
       不徳なことをしたり等して   
       自分を害する者もいる

  (37) 煩悩の力のままに   
       愛する自分さえも殺すなら   
       どうして、他人の身体を   
       害さないと期待できよう

  (38) 煩悩の生起により、私を  
       殺そうとするすべての者に  
       慈悲を起こすことができないまでも  
       少なくとも、怒を持つことはないように

  (39) もしも、他人を害することが   
       子供っぽい人の性向ならば    
       怒ってはいけない     
       燃えて当り前の火に怒るようなものゆえに

  (40) たとえ、普段温厚な人が  
       時に間違いを犯しても   
       怒ってはいけない    
       空に煙が上ったからと怒るようなものゆえに

  (41) 棒で打たれたとて     
       打つ人に怒ってはいけない   
       その人は怒りに命令されただけゆえに  
       怒りに怒るが道理   

  (42) 私はかつて、有情を  
       同じようなに害した   
       有情を(このように)害した私が  
      (この)害を受けても当り前

  (43) (私を害する)武器と私の身体
       二つともに苦しみの原因   
       武器と私の身体が合うとき  
       どちらに向かって怒るべき

  (44) 腫物のような私の身体   
       触られただけでも耐え難い苦しみの性  
       そんなものに強く執着するとき  
       誰に対して怒るべき

  (45) 子供っぽい者は苦しみたくないのに  
       苦しみの原因には執着する      
       自分が起こした害なのに    
       他を怒って何になる  
  
   (46) 例えば、地獄の鬼や  
       剣の葉の森のように    
       己の業が生んだものならば    
       誰に向かって怒るべき

   (47) 私の業に誘発されて  
        私を害する人が生起した  
        その悪業の故に相手が地獄に落ちるなら  
        私が相手を害したことにならないか

  (48) 害する人に対する  
       忍により私は多くの悪業を浄化する   
       私に因って相手は    
       地獄に落ち長く苦しむ  
 
   (49) 私が相手を害し      
       相手が私を利するなら  
       反対なのに、どうして   
       不当な心よ、怒るのか  
 
  (50) もしも、私に思いやり(忍耐)の  
       徳があるならば、地獄に落ちることはない  
       私はこうして守られるとて    
       相手に徳が生まれるわけではない

  (51) では、(相手に徳を積む機会を与えるためにと)仕返しをするならば                            耐えたことにもならず  
       自分の善行も衰え  
       難行を全うできぬ

  (52) 心はからだを持つものではないので   
       誰からも、何によっても害されようがない   
      「でも、からだに執着するから     
       からだが苦しみで害されれば怒ろう」(と反論するならば)

  (53) 悪評(中傷)や暴言や    
       面白くないことばは    
       からだに害を与えるわけでなし   
       心よ、どうして怒るのか

  (54) 他の者たちが自分を好きでない  
      (からといって)そのことは今生でも来生でも  
       自分を害するわけでなし  
       どうしてそれが嫌なのか

  (55) (世俗の)利益の障害となるから  
       いやなのだ(というならば)   
       自分の利益は、いやでも今生で捨て置かねばならぬもの                           (一方)悪業はいつまでも付きまとう

  (56) 今日にも死んだほうがましだ   
       汚いやり方で利を得て長生きするより    
       自分など長生きしたところで  
       いずれ、死の苦しみは越えられぬ

   (57) 夢に百年の喜びを味わって  
        夢, 覚めてしまった者    
        夢に一瞬の喜びを味わって  
        夢、覚めてしまった者

  (58) いずれも覚めてしまえば  
       その喜びは、もう二度と戻って来ない
       長生きしようがしまいが
       死ぬ時には記憶のみ

  (59) 多くの富を得て  
        久しく幸せを享受したにせよ
       強盗に身ぐるみ剥がされるごとく
       裸で、手に何も持つものなく死に行く

  (60) 「富にわたしは生かされて
        罪を清め、徳も積めるのだ」(ともし反論するならば)                                   富のために怒るなら
        徳を壊し、悪業を積むばかり

  (61) もしも、そのために自分が生きる
       目的そのものを破壊するならば
       悪なる生業のみに
       生き延びて何になろう

  (62) もしも、自分の徳を害するから
       自分を中傷する者に対しては怒る理由がある(と反論するならば)                               では、他の人を中傷する人自分に対して
       どうして怒らないのか(徳が害されるのは同じなのに)  

   (63) それは相手に従って不信は引き起こされただけと
       (第三者の)不信に対し寛容でおれるなら
       (自分を害する相手の中傷も)煩悩に従って生じたのみゆえに                         中傷になぜ耐えられないのか  

    (64) 仏像、仏塔、仏法を  
         貶し、破壊する者に対しても
        怒るは不理なこと
        ほとけ等は害されることを離れているゆえに

  (65) ラマや親族たち
         友人に害を与える者に対しても
        前に説いたごとく、(すべては)条件により
        生起したと見て、怒りを治めよ

  (66) 身を持つ者に対し、心持つ者と
       心持たないもの二つからの害が起こる時
       心持つ者にだけどうしてそんなに怒るのか
       二つともに許すべき   

   (67) ある者が無明がゆえに害をなし
        ある者が無明がゆえに怒る時  
        いったい誰が悪くて
         誰が悪くないと言うのだろう

  (68) 他の者が私を害するは
       以前の(私の)業の故
       すべてが縁起により生起する時
       どうして私は(相手に)怒るのか

  (69) かくの如く見て
       みんなが互いに愛し合えるよう
       私は一心に  
       福徳を積むことに励もう

  (70) 例えば、一つの家の火事の火が
        隣の家に移ろうとする時
        藁など燃えるものは
        そこから取り除かれるべき

   (71) そのように、あるものへの執着故に  
        怒りの火が、燃え上がる時  
        福徳の燃えることを恐れ
        それをそこからすぐにも捨てよう

  (72) ある死刑囚が手を切られただけで
        もし、解放されるなら、何という幸運
        もし、人の苦しみに耐え
       地獄の苦しみから解放されるなら、何という幸運

  (73) 今のちょっとした苦しみさえも
       私は耐えられぬなら  
       地獄の苦しみの原因となる
       怒りをどうして捨てられぬ

   (74) 欲のために、身を焼かれる等
        地獄を無数に味わえど
        私は自分の意も  
        人の意も満たせない

   (75) それに比べれば小さな苦しみで  
        大きな果を得ることができる故
        すべての命ある者の、苦しみを払う苦しみを
        喜んで受け入れよう

   (76) もし、ある人が(敵の)徳を賛え
       喜びを得るならば
       心よお前もなぜ  
       そうしないのか  

   (77) お前のその喜びの徳は
        喜びを生み、罪なきと
        徳ある者たちにより説かれた
        また、人心を得る最良の方法でもある

   (78) 敵が褒められ喜ぶことが  
        もし、いやだと言うのなら
       (使用人の喜ぶ)給料も払わぬべきか  
        かくて、現世と来生(の喜び)は衰えるばかり

  (79) 自分が褒められる時には
        その人にも喜びを願い  
        人を褒める時には
        自分には喜びは要らぬとは

  (80) すべての命ある者の幸を願い
       菩提に心を起こし(た私が)
        命ある者が自分で(小さな)幸せを得たとて
        それをどうして憎むのか

  (81) 三界に賛えられる仏位へと
       すべての命ある者の昇ることを願う時
       相手が世俗の名声を得ただけで
       どうして心沈むのか

  (82) 私の養育すべき
        親戚の子が
       自分で独り立ちしたならば
        怒るどころか喜ぶべき

   (83) それさえ願わぬと言うならば
       誰の菩提を願うのか  
       他の人の幸運を憎む人の
       心のどこに菩提心があるのか

  (84) もう(敵が)それを得たか
       まだ、与える人の手にあるか
       どちらにせよ、自分の手にはない
       故に、嫉妬は理に合わぬ

  (85) 福徳や信頼などの利点を
        なぜ自分から捨てるのか
       利得の因を守らぬ
       自分に向かい、なぜ怒らぬか

  (86) お前は自分の(過去の)悪業に対し
        後悔の念がないばかりか
        徳を積んだ相手と  
       競い合おうと願うとは

  (87) ある敵が気に入らないとて
        その不幸を喜ぶとは何たること
        いずれお前の望みだけでは
       相手が害される因とはならぬ

  (88) お前の欲する苦しみが相手を
       襲ったとて、喜ぶとは何たること
       もし、満足とでも言うならば
       それよりひどいことはない

  (89) 煩悩という漁師が仕掛けた  
       この針は鋭く耐え難い
       捕まれば地獄の鍋で
        地獄の鬼が私を煮るは必常

 (90) 称賛や名声は
        徳にもならず、延命にもならず  
       力が増すわけでなく、病を避けることにも役立たぬ
       身を楽にもしない

  (91) 自分のためと言い
       心に楽しみだけほしいなら
       賭け事や酒によるべきものを

  (92) 名声のために富を投げ出し
        (戦場に)自分を殺す者もいる
       ただのことばに何を望むのか
        死んだ後に誰を喜ばせるのか?

  (93) 砂のお城が壊れる時
       子供は泣き叫ぶ
       そのように、称賛と名声の衰える時
       私の心は子供のごとし

  (94) 音は心なき故に
        わたしを褒めようとの心なし
       ーわたしを褒めることをその人は喜ぶから
        と、名声を喜びの原因と言うならば

   (95) 他人に対してであろう、自分に対してであろう
        褒める人の喜びが、どうして自分を利するのか?
        その喜びは他人のもの
        わたしはそのかけらも得ることはできない

   (96) 他人が喜べば自分も喜ぶならば
        すべての場合にもそうあるべき
        ではどうして、敵が褒められ
        喜ぶ時、自分は不機嫌となるのか?

  (97) かくの如く、わたしは褒められた  
       と、自分で喜ぶは   
       理に合わず    
       子供っぽいだけ

  (98) 称賛等はわたしの心を乱し
         ついで、出離の心を衰えさせ
         徳高い人に嫉妬の心を起こさせ
        すべての良きものを破壊する

  (99) 故に、わたしへの称賛等を
         破壊するために働く人は
        わたしが悪趣に落ちることを
        守るために存在する如くではないか

  (100)わたしが解放を望む人ならば
        富や名声に縛られたくはないはず
        わたしをその束縛より解放してくれる者に
       どうして怒るのか

  (101)苦しみの門に入らんとするところを
       ほとけの加持の如く
        門を遠ざけてくれる
       そんな人に対しなぜ怒るのか

 (102)ーでも、徳を積む障害となるからー
       それでも、怒るは理にあわず
       忍耐以上の難行はない  
       だから、必ず行ずべし

   (103)もしも、自分のせいで
        敵を受け入れられぬなら
       徳の原因に近づきながら
       自分で妨げをつくったのみ

  (104)(敵が)いなければ(忍耐の徳も)生じない
       いるから有り得る
       それがその原因のとき
       どうして、それを障害と呼べるのか

  (105)施しの心起こるとき
        乞食は施しの障害とはならず
        戒を与える(導師)は
        僧侶となる障害とはならぬ

  (106)どこの世にも乞食は多いが
        害を与える者は少ない
        つまり、やり返さなければ
        害される機会は少ないもの

  (107)それが来れば、労せずして
        家に宝が現れた如し
        菩提行の友となる
       わたしの敵を愛すべし

  (108)敵とわたしがいて(忍耐の行が)成り立つ
       ならば、忍耐の果(菩提)は
        敵にまず捧げられるべき
       かくの如く、敵は忍耐の原因である故に

 (109)「忍耐を成り立たせよう、との心を持たないから
       敵は称賛の対象とはならない」と、もし言うならば
       成就の原因となる   
      (同じく意志のない)正法をなぜ賛えるのか  

  (110)「(そうでなく)敵は害そうとの  
       心を持つから、賛えるわけにはいかない」と、言うならば                   (みんなが)医者のように助けることに努めるなら   
        わたしは忍の行をいつ成就できるのか

   (111)かくの如く、憎しみに燃える心に  
        因って忍の行が生起するなら
        それは忍耐の原因ゆえに
        正法の如く賛えられるべき

   (112)ゆえに『有情の福田は
        勝者(仏)の福田』とほとけが説かれた
        これを信じて多くの人が
        善なる彼岸に達した

   (113)有情とほとけと
         ほとけの法を成就する(因として)は似たもの
         ほとけを尊敬するように
        有情を尊敬しないのはなぜ

   (114)心の質を比べて言うのではない
        結果から言えば同じように
        有情にも徳はある
         このようにして、二つは平等

  (115)愛する心を持つ人を賛える(福徳)は
        有情の偉大性のお陰
        ほとけを敬う福徳は
        ほとけの偉大性のお陰

   (116)仏法を成就する(因の)部分を担う点で
        二つとも平等と認められる
       (しかし)無量の大海の如き福徳を持つ
       ほとけたちとは(心は)比べものにならぬ

  (117)至上の徳を集めた(ほとけ)一人の
        徳のほんの一部分でも
        現れるなら、これを賛えるには
        三界のすべてを捧げても足りぬほど

  (118)ほとけの至上の法を生む、その一部が
        有情にある時
        その部分に似合うだけでも
        有情を敬うのが理

   (119)また、不動にして、しかも友となり
        無数の福利を与えて下さった仏たちに
        有情を敬うこと以外
         他の何をもって恩返しできよう

   (120)そのために、身を捨て地獄に落ちようとも
        有情の恩を返すためならば
        彼らがひどくわたしを害そうとも
         常に良き敬心をもって接しよう

   (121)もしも、わたしの敬うほとけ自身
         そのためには身を捨てることも厭わない時
         その理を知らず、わたしは
         奢りが故に、人の召使にはなれぬとは

   (122)彼らが喜べば仏たちも喜ばれる
         彼らが害されれば喜ばれない
         彼らを喜ばせれば仏はみんな喜ばれる
        彼らを害するは仏を害すること

   (123)もしも、我が身のすべてが燃える時
       どんな欲の対象も心喜ばすことはできない
        同様に、有情を害する時
        大悲の人々を喜ばすことはできない

   (124)では、わたしが有情を害したことで
        すべての大悲のお人の心を悲しませた
        悪業をすべて隠さず、今日、懺悔いたします故に
       どうか、わたしの不徳を忍ばれたまえ  

    (125)如来たちを喜ばせるために
        今日より、確かに心を制し、世の下部となり  
        みんなが寄って集ってわたしを打とうとも
        踏みつけようとも、やり返さず、世の王(仏)を喜ばせん

   (126)すべての有情を、大悲の心は平等に
        我がことの如く感じるは確か
        このような有情の(真の)姿を見るとき
       それはほとけと代わらない、どうして敬えないのか

   (127)これが、如来を喜ばせる行為
        自分の利を良く成就させるもこれ
        世の苦しみを払うのもこれなのだ  
        これを知り、わたしは常にこれに努めよう

   (128)例えば、王の家来の一人が
        多くの人を害すれど
        遠くを見る目を持つ人は  
        害されど、やり返すことはない

   (129)これは、(敵は)一人ではなく
         王の軍力と伴にあると、知るからだ
         同様に、害をなす小さな有情も
         決して見くびってはならない

  (130)それは、地獄の鬼と
         大悲の仏たちが彼らを守る故に
         そうであれば、平民が怖い王に仕える如く
         すべての命ある者を敬おう

   (131)一人の王が怒っても
        有情を敬わなかった果として
         味わうこととなる
         地獄以上のことを為せようか

   (132)王だけを敬っても
        有情を敬うことで
        得ることができる
        仏位は貰えまい

   (133)有情を喜ばすことで
         いつの日にか仏位を得ることができ
        今生においても、栄光と
         名声と喜びを得ることをどうして見ないのか

   (134)輪廻においては忍より美貌等と
         健康と名声を得
        長寿をまっとうし
         転輪王の大楽を享受する

入菩提行論より、忍耐を説く第六章を終わる。                             

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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