チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2008年12月17日
野田雅也氏連載第五回分
「父さんがいたから怖くなかった、でも寒くてお腹ペコペコだったよ」。 今年2月、ダラムサラに到着したペマ(6)と父親=2008年3月 インド・ダラムサラ 撮影:野田雅也
信濃毎日新聞 文化面 08年12月5日掲載
<チベット 人々の祈り> (野田雅也)
第5回 自由求め故郷逃れた難民
ヒマラヤ山脈を間近に望む、インド北西部の町ダラムサラ。ここには、一九五九年に亡命したチベット仏教の最高指導者ダライ•ラマ十四世をはじめ、チベット難民約八千人が暮らす。
彼らの大半は、ヒマラヤ山脈をひそかに越え、故郷から逃れてきた。標高六、〇〇〇メートル近い雪山の峠越えは、気温が氷点下三〇度以下に達し、凍死や遭難死の危険も大きい。中国の国境警備隊に見つかれば、投獄されるか、その場で射殺される。そのため、昼間は氷河の谷間に身を隠し、夜になってから月明かりの下で断崖を歩く。
死と隣り合わせのその困難を乗り越えて、毎年二千人以上の難民がチベットからダラムサラにたどり着く。そして、この半世紀で、世界各地へ離散したチベット難民は十二万人を超す。
「十二年間投獄され、釈放後すぐに故郷を離れた」。チベット自治区の町から、ラサを巡礼して、今年二月にダラムサラの難民収容所に到着した僧侶、ジャンバ•タシ(39)は言った。
彼は一九九四年三月、同じ寺の僧侶五人と「チベットは私たちの国だ」と書いた紙を町役場の壁に貼り、逮捕された。たった一枚の貼り紙に対して、十二年の刑が言い渡された。
タシの寺は、文化大革命期(六六―七六年)の徹底的な宗教弾圧で破壊され、その後、寺の一部を再建したが、数百人いた僧侶は二十五人に減った。九〇年代に入ると、中国政府の新たな規制で僧侶が十三人にまで制限され、タシを含め十二人が追放された。
「中国は表向き信教の自由を認めているが、さまざまな規制で、チベット仏教が衰退するように操っている」とタシは言う。貼り紙は、チベットの宗教や文化が奪われていくことへの抗議の意思表示だった。
投獄されたタシは、最初の一カ月間、一日三回の拷問を受けたと言う。「両手、両足を縛られ、こん棒で殴られた。気絶すると水をかけられ、濡れた体に電気を流された」。看守たちは「おまえを操っているのは分裂主義者のダライ一派か」と詰問した。タシが「自分の意志だ」と言うと、高圧電流が流れる棒を口に押し込まれた。
「全身が激しく痙攣し、口が裂け、皮膚がはがれ落ちるようだった」
拷問で右膝を傷めたタシは足が不自由になり、後頭部を強打されて視神経が切れ、右目は今もほとんど見えない。しかし彼は今も、「正しいことをした」という誇りを持っている。「非人間的で、残虐な行為をする彼らこそ、憐れだ」と。
ダラムサラでは、仏教をあらためて学び、英語も勉強したいという。「何をするにも、ここでは自分の心に従って決めることができる。これが〝自由〟なんですね」とタシは言った。
チベットから逃れる人々のなかには、子どもたちも多い。ダラムサラで暮らす難民の三分の一は十七歳以下だという。やはり今年二月にダラムサラに着いたノルブ(14)は、「故郷の町は軍隊と漢民族ばかりで、チベット人はいつも見下されていた」と語る。サンデン(17)は、ヒマラヤ越えの際に凍傷になった足の親指が壊死して黒ずんでいた。「読み書きもできないので、もう一度、勉強をやり直したい」と言った。
今年三月のチベット騒乱以降、国境地帯の警備は強化され、軍隊の厳重な監視下に置かれている。しかしそれでも、国境を越えて、抑圧下のチベットから逃れようとする人たちは絶えない。この冬、いったいどれほどの難民たちが、ヒマラヤを無事に越えられるだろうか。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)