チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2008年12月16日
野田雅也氏連載第四回分/ 続<08憲章>
ネレンカン(難民一時収容所)の屋上で、9か月ぶりに子供たちの絵のクラスが始まりました。
現在10人以上の子供がここにいます。
一番小さい子は4歳の女の子。
この子の家族は一家5人(両親、子供三人)一緒に亡命して来たとか。
今日は特別にツェリン・ノルブも従兄のジャヤン・タシの隣で久しぶりの絵のクラスを楽しんでいました。
昨日までの穏やかな日々は昨夜から一変、荒れ模様、山には雪が降ってます。
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以下は野田雅也氏の信濃毎日新聞連載記事第四回分です。
私は広島の出身なので原爆・水爆の話には特に興味があります。
中国は今も毎日何度も、テレビで原水爆実験のキノコ雲を誇らしげに見せています。
今日も四川テレビで見ました。
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信濃毎日新聞 文化面 08年11月28日掲載
広大な草原地帯に核兵器開発基地の施設跡が廃墟となって残る。奥右側の煙突がある建物は核爆弾の製造工場だった=2008年 青海省西海 撮影:野田雅也
<チベット 人々の祈り> (野田雅也)
第4回 放射能 知らされぬ住民
青海省海北チベット族自治州の西海は、古くからチベットの人々が羊やヤクの放牧を行なってきた地域だ。海抜三、〇〇〇メートルを越す草原は、夏の時季には黄色や白の花々が一面に咲き乱れる。
その広大な草原地帯に、巨大な廃墟が点在している。かつて核兵器の研究開発や核実験に使われていた施設跡である。中国の核兵器開発の拠点だった西海は、今でこそ地図に名が記されるが、軍事機密都市として長くその存在が極秘にされていた。
一九五〇年のチベット侵攻で、アムド地方(青海省)を占領した中国は、五八年に核兵器の研究開発基地(221工場)を西海に創設。旧ソ連の技術援助を受けて核兵器の開発を始めた。六四年六月に西海で核爆発実験を行ない、同年十月に新疆ウイグル自治区の核実験場で原爆実験に成功すると、原爆、水爆、その他核兵器の開発と実験、製造を本格化させた。
「地面から大きな煙が上がったり、きのこ雲が丘の上にわき上がったりするのを何度も見た」。西海の核実験場で一九八〇年代から羊の放牧をしていたカルデン=仮名=(36)は、爆発があった場所を両手で示しながら話した。「煙が消えると兵士たちが爆発した場所に行って土を調べ、その後、軍用トラックに土を積んで遠くに埋めていた」
その土には〝毒〟があるとカルデンは言う。だが、それが何か、人間や家畜にどんな影響を及ぼす毒かは知らない。ただ彼は「ここで育った羊は、寿命が四年ほどと短い。歯がなかったり、反対に歯が異常に長く伸びた羊もいる。生後数カ月で死んでしまうことも多い」と語った。
中国は核実験のデータを公表していないため、実験場周辺の核汚染や住民の健康被害、あるいは放射性廃棄物がどう処理されたのかも闇の中だ。NGO「チベット国際キャンペーン」(本部・米ワシントン)の資料によると、八四年に西海周辺住民の血液検査を行ったチベット人の内科医タシ•ドルマが「小児白血病の発症が著しい」と報告している。また、その当時現地に入った米国人医師が「原爆投下後の広島と長崎で見られた事例に類似している」とタシ•ドルマに告げたという。だがそれ以上には、住民の健康被害の状況は明らかになっていない。
八七年に西海での核実験は中止され、九五年にすべての施設が閉鎖された。しかしそれによって、残留放射能による土壌汚染や健康被害の危険性がなくなったわけではない。
カルデンによると、西海の住民たちは九〇年代、家畜の成育の異常は「草に〝毒〟があるからではないか」と、省政府に調査を求めた。すると「北京の中央政府から派遣された調査員が来て、水や土、草を持ち帰った」と言う。その後、住民に伝えられた調査結果は、西海から南へ三キロ離れた錫の精錬工場に原因があり、「排煙や排水が大気や土壌を汚染し、食物連鎖によって家畜に影響が出ている」というものだった。放射能については何も知らされなかった。
住民たちは今も、草原に放置された施設跡やかつての核実験場の周辺で、家畜を放牧している。実験の計測施設跡を家畜小屋や倉庫に利用しているチベット人男性は「ここには毎年、軍隊が調べに来る」と言った。兵士から「〝毒〟があるのでここに食べ物を保存しないように」と注意されているという。怖くないかと尋ねると、男性は「大した影響はないさ。この通り、私はピンピンしている」と不安を振り払うかのように言った。
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<08憲章>の署名者数はすでに4000人近くに達したとか?
北京から東京に帰られた福島香織さんがブログに<08憲章>について書かれています。
以下その1,2のコピペです。
【記者ブログ】春雷が聞こえる?08憲章 福島香織 – MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/world/china/081216/chn0812160021000-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/world/china/081216/chn0812160021000-n2.htm
http://sankei.jp.msn.com/world/china/081216/chn0812160021000-n3.htm
2008.12.16 00:21
■ネットから響く中国の春雷か。といわれる「08憲章」。すでに本紙でも取り上げられ、中国関係ブログでは完全翻訳も出回っているので、詳細は省きます。
■ 大胆にも中国一党独裁の終結を謳った08憲章が、一部知識人や欧米メディアだけが騒ぐのではなく、普通の労働者や失業者など社会にたいする不満をくすぶらせている層へと広がるかどうか。点と線だけの動きが面へと変わっていく気配をみせているのか。福島も、なんとなくどきどきして、総理番に身がはいりません。だって、日本の政治よりおもしろそう(失礼)。正直、日本はものすごく枝葉末節なことで、ぐずぐずいって、この100年に一度の大転機にどういった覚悟と意気込みで臨むのか、どんな国家観、ビジョンをもっているのか、というのがみえてこない気がするのです。中国では、一部の知識層からとはいえ、こんな風に時代を動かしていこうという命がけの動きがでているわけです。
■五輪という平和とスポーツの国際イベントが、中国人の心の奥にどんなタネをまいたのか。そのタネは果たして芽吹くのか。五輪直後に中国を離れた者としてはずっと気になっていたのですが、その答えがひょっとして、これではないか。という期待と、いやいや、過剰反応は禁物。これは一部の知識人とネットサイト上の限られた動きにすぎないのではないか、と自分を戒めてみたりしながら、サイトめぐりしています。
■今の中国経済失速の危機と、共産党の求心力の急激な低下と、米一局支配の世界構造の変化、そして五輪直後にやってくるチベット動乱(民族蜂起)50周年、天安門事件20周年、ダライ・ラマ亡命20周年、建国60周年…という微妙な政治の季節に、このネットからごろごろと響きはじめた遠雷は、果たして春雷となり春の嵐となり、政治改革の夏を呼ぶのでしょうか。
■で、この08憲章やネット言論周辺の動きを取材してまとめようかな、と思ったのですが、劉暁波氏は拘束され、なにやらきな臭い話も。福島一人が日本という安全な場所にいて、電話やスカイプで話をきいて、万が一、盗聴されたりして、友人たちを危険にさらすわけにもいかず、当面はウオッチを決め込むことにいたしました。ひょっとしたら、年末年始休みに北京か香港にいって、ごはんくらい一緒に食べられればいいのですが。
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<08憲章>の最初の303名の署名者の中に「唯色 西蔵」とあります。
これは唯色=ウーセルさんのことです。
やはり彼女もしっかり名を連ねているのですね。
彼女のブログではダラムサラ事情も含めチベットのことがすべて書かれているようです。(中国語に弱いので読めないのですが、、誰か翻訳ソフトの良いの教えてください、、できればただの)
長田さんの12月1日のブログに、
http://tibet.cocolog-nifty.com/blog_tibet/
<チベット人作家ウーセル(唯色)の生い立ち『私のアルバム〜我が家の三代記』>
という記事があり写真付きで彼女の生い立ちがわかります。
その彼女のブログの12月16日、今日の第7番目!の記事にどうやらこの前から話のタネにしている、例の<ペー・ラモの日>に関することが書かれているらしいです。
「仙女」というのがペー・ラモのことではないでしょうか?
中国語をそのまま載せます。
誰か翻訳を送ってください。
<在西藏: “仙女”陪我过生日>
http://tibet.woeser.com/?p=630
2008年12月16日
今年的12月12日真是个好日子,既是农历的十五,又是藏历的十五,还是西藏的“仙女”节。一大早出门,便已有“仙女”在路上等候了,多亏事前有办公室同志对我的提醒,先换了一大把零钱揣在兜里,才算卖通了道路。遥想去年“仙女”节,被突然而至的众多“仙女”堵上门,事先没有任何准备,怎么翻也找不到50以下的零钱,只好做慷慨状,换来来“仙女”们的喜笑颜开,自己却勒紧腰带过了两月。时代还是进步了,堵门的“仙女”改拦路了,虽然结果都一样,但方式毕竟文明多了,看来天上也在搞精神文明创建活动啊。听说县长可能因为最近太忙了,地震灾后重建家园工作实在任务太重了,所以疏忽了节前准备工作,当天被“仙女”们以汇报工作为由进入办公室,然后单刀直入地要送吉祥给他,没换好零钱的他窘迫之下,掏出了数张百元大钞。“仙女“们为县长送出最重量的吉祥后,又把这个喜讯在“仙女“协会中传递。于是县长办公室门外汇报工作、请示工作、送工作报表,还有索性不带任何理由的女同志明显增多。没过多久,县长给我打来电话,说去下乡了。然后电话就不通了。
早有朋友告诉过我,藏族的“白拉日缀”本意不是什么节日,而且也不是什么女人要钱的日子,是一种藏传佛教拜祭有一个叫“白拉姆”的仙女,白拉姆本来是个普通人,她在她家三个姐妹当中白拉姆对父母最孝顺,传说后来在母亲的祈祷中变成了仙女,因此藏历10月15日是藏族人为了纪念白拉姆的日子,以前的传统中那天父母会对家中的女孩给一些零花钱,主要是警示她们要向白拉姆学习,但是现在就成了所有女人向男人名正言顺伸手要钱的日子。
可见,在利益驱动下,文化是在不断演变的。
从县里回到拉萨,透过车窗,看到街上三三两两的女孩子,手里捏着钱,踌躇满志地望着来往的行人。
晚上,县委办的同仁们和好友为我安排了一次盛大的生日PARTY,当然,开始之前,与会的所有男同志要先掏包,当然不是给我,是给在座的“仙女“们。
在欢歌笑语、吉祥如意的氛围中,众位仙男、仙女们陪我走进了37岁!
附去年仙女节博文:
今天女人过"节",男人过"劫 "
作者:北京市第五批援藏干部
早上才起床,便有人来敲门,周末很少有人这么早来串门的。打开门一看,原来是公寓的四个女服务员。我没要什么服务啊,而且一下子来这么多,藏汉全来了,少见啊!我很纳闷。其中一个四川籍的服务员,平时也很爽快的,每次见面都极热情,她首先开口,“刘书记,今天是仙女节,男士要给女士钱的!”说完,和其她几个都不好意思的笑了。我以为是开玩笑,还想,公寓的生活真是好,管理者总是想方设法调济生活,增添情趣。她们看我没有实际行动,就又加了一句:“如果不给会不吉祥的,我们可是好意来告诉您的!”我这才感觉到,这不是玩笑,是真格的。看这架式不给是不行了,我摸摸兜,摸出了几张一块两块的,她们谁也不伸手,嘴里说“给多少都行,刚才,吴局长一人给了50块。”我很乖巧地一人给了50,她们兴高采烈地揣起来,又去敲下一个门。
中午吃饭时,上午有几个男士未被照顾到,被在饭桌上逼地掏了腰包。有知趣者,带着红包来吃饭的。同为援藏的女干部在懵懂中,也跟着沾了光。
下午,老赵出去想遛遛,刚出大门迎面便来了一群妇女,围住他,连笑带比划地说了一大通,他一句没听懂,一位路人告诉他,跟你要钱呢。
更有甚者。晚上快10点了,郭伟打电话给我,“你在房间吗?”我说“在”,他说“县里两位女同志,专程赶过来要钱的,我已经被洗劫了,正去你处。”我正在惊讶中,敲门声已经响起了。如此执著,不远100多公里赶夜路来,50是拿不出手了。
她们去敲老赵小魏的门,二人出去没在,幸免一“劫”啊!
当她们兴灾乐祸地准备离去时,我虔诚地求教“今天到底是什么日子啊?”她们奇怪地看了我一会,然后一脸认真地赐教于我“藏历叫百崃日缀节,又称仙女节,我们今天都是仙女!”我来不及追究她们做仙女是否称职,忙不迭地询问“哪天是仙男节?”她们放声大笑,“做梦吧,你们!”
你可以通过这个链接查看去年仙女节遭遇:
http://liuying509.bokee.com/viewdiary.21509381.html
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)