チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2008年11月19日
チベット史の生き証人二人が記者会見
鄧小平が1979年に「独立以外の事なら、どんなことでも話合うことができる」と言ったことを受けて法王は対話のために、独立の旗を降ろされたのだ。
しかしそのことを今回の会談で中国側は否定した。「そんなことは言ってない」と言い始めたのだ。
そこで、このことに関し、今日(19日)午後3時より内閣府の一室で緊急記者会見が開かれた。
登場したのは、ダライラマ法王の貴兄ギャロ・ドゥンドゥップ氏と元首相ジュチェン・トゥプテン・ナムギェル氏。
ギャロ・ドゥンドゥップ氏こそ1979年の春、鄧小平に呼ばれ、北京に行き、鄧小平からその言葉を聞いた張本人だ。
ジュチェン・トゥプテン・ナムギェル氏は1982年の第一回チベット調査団の団長として北京を訪問したとき、そのことを確認している。
会見のほとんどはギャロ・ドゥンドゥップ氏の当時の詳しい経緯についての話だった。
ジュチェン・トゥプテン・ナムギェル氏は英語ができないので、質問にも全てギャロ・ドゥンドゥップ氏が答えておられた。
会見が開けた後、チベットメデイアだけがジュチェン・トゥプテン・ナムギェル氏に押し寄せ、質問を繰り返していた。
会場では、これまで1979年から1992年まで少なくとも6回、この言葉を中国側が使ったことを証明する資料が配られた。
以下は今日のギャロ・ドゥンドゥップ氏の話の前半部分です。
続きは明日か?
私のメモからですから、正確な内容は日本事務所からでも出るかもしれない報告を参照お願いします。
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私は1952年から79年に掛け、香港にいることが多かった。
香港は中国に近く、中国からの情報を得やすかったからだ。
特に私は中国語を習うためにそこにいたのであり、特別の政治的使命を持っていた訳ではない。
79年、新華社のボス、リー・ズン・サンが私に会いたがっているという話を友人のアメリカ人を通じて知らされた。
はじめは断わり続けた。しかし、香港の友人たちがしきりに勧めるので会うことになった。
彼は鄧小平が私を探しだし、北京に招待せよとの命令を出されたこと、私を探すのに苦労した話などをした。
しかし私は「自分には政治的権限は何もないし、香港にはただ中国語を学ぶためにいるだけだ」と言ったが、ひつこい。
そこで、最後には「私が北京に行くにしても、そのことをダライラマ法王にご報告し、許可を受けないで行くわけにはいかない。だからまずはインドに行かせてほしい」と答えた。
すると、相手は「そんな必要はない、北京に朝行って、夕方には帰って来れる」などと言っていたが、終わりには「早く行ってこい」ということになった。
法王とはインドのナクポというところでお会いした。
経緯を説明すると法王は「それは非常に良いことだ。行くべきだ。政治的代表としてではなく、私の許可を受けた、個人的特使として行けばよい。
行って、彼のいうことを良く聞いて帰ってくればよい」とおっしゃられた。
こうして、新華社のリーに連れられ北京に行くことになった。
しかしその時、鄧小平はベトナムとの戦争を指揮するために現地にいっており、なかなか帰って来なかった。
その代りに、その時の統一戦線議長ウーランフーが私を様々な政府高官と引き会わせた。
彼はモンゴル族の出身だった。
鄧小平は戦争のことで忙しく、とうとう一か月待たされた。
彼が北京に到着するとすぐに呼び出された。
人民大会堂で統一戦線その他の高官も同席して会談は行われた。
鄧小平ははじめに「いらして下さったことを、心より嬉しく思う。
中国とチベットの間には今までに沢山の出来事があった。
だがそれもすべて過去のことだ。
中国人もチベット人も大きな苦しみを味わった。
私も苦しみを味わわされた。ここにいるウーランは7年監獄にいた.
この人もあの人も監獄に捕らえられていた。
過去に何があったにせよ、我々は将来について考えることが大事だ。
だから、過去のことを根に持ち怒りの心を持ち続けることは良くないことだ。」
と話し、ダライラマ法王やチベット人の状況について尋ねられた。
その後、本題に入った。
鄧小平は「独立の話以外はどんなことでも話し合える。
今日、すぐにでも、チベットの問題を解決するために話合いを始めようではないか」
と言った。彼は小柄だが、率直て、興味深い人物だった。
これに対し私は、
「確かに法王の承認を得て来てはいるが、招待されたから来ただけで、何か交渉のために来たわけではない。法王は行って鄧小平氏が言われることをよく聞いてくれば良いと言われた。そのために来ただけだ」と答えた。
しかし、鄧小平はその時、法王の帰還を勧め「帰られたらその地位を保障する。すべての亡命チベット人はチベットに帰ることができよう。失った土地などの財産も取り返せるだろう」とか言って、交渉を開始することを急いでいた。
しかし、あくまで「法王に相談したのち答える」と言い通した。
「それでは、個人的な提案のようなものは無いか?」と訊かれた。
そこで、次の三つの点について要請した。
「59年以降20年間チベットの国境は閉鎖されたままだ。チベット人は内と外とに分断された。離ればなれになった人々はお互いにその家族、親戚の安否を気遣いつつも、まったく消息不明のままだ。
だから、まず第一のお願いとして、国境を開き離散家族の再会が実現するように努力してほしい」と要請した。
すると鄧小平は「すぐに国境を開けるよう命令を出そう。家族が行き来できるようにしよう。移住も自由だ。巡礼もできるようになる。カム、アムドからの移動も許可されよう。
ダライラマに会いにインドに行くこともできる。
今日からすぐに開かせよう」
と答えた。
二番目に「中国政府はパンチェン・ラマに対し不当な扱いをしている。どうか鄧小平氏にパンチェン・ラマを守って頂きたい」と要請した。
これに対し鄧小平は「彼をすぐに政治協商会議の副主席に任命しよう」と答えた。
三番目に「チベットではチベット語を教える先生が少なすぎて、子供たちがチベット語を読み書きすることができなくなっている。亡命先のインドではネルー首相の理解と援助もあって、亡命チベット人の教育には成功している。チベット語を教えることのできる者は多い。だから、チベットの内地にチベット語の教師を送ることを許可してほしい」と要請した。
それに対し「素晴らしい考えだ。いったい何人ぐらい送れるのか?」と訊かれたので「毎年2~30人位は送れると思う」と答えた。
すると鄧小平は「1000人は送るべきだ。チベット各地に教師は必要だ。インドでチベット語だけではない、英語やヒンディー語も習ったはずだ。それらの知識も有用だ。だから、少なくとも1000人は要るだろう」と言った。
私は「できるだけ送れるよう努める」と答えた。
彼はすべてに対しストレートであり、その場で即決するタイプだった。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)