チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2008年11月13日
新しく亡命者が22人ダラムサラに到着
今日は朝まだ暗い5時半ごろからダラムサラの難民一時収容所(ネレンカン)に向かいました。
カトマンドゥの収容所から22人の亡命者が到着すると聞きつけたからです。
3月以降、国境を越えられた者は数人に過ぎませんでした。
それが、突然のようにこれだけ現れたのです。
何だか嬉しくなりました。
少し前に到着した一行は、屋上の、かつていつも沢山の子供たちが絵を描いていたその場所に集められ、管理人のおじさんから館の規則、注意事項などの説明を受けているところでした。
すぐに子供は何人いるのかな?と眺めましたが、まだ暗い屋上でよく確認できませんでした。
でもすぐそのあと解散になってみんな、寝床を見つけたり、お茶を探したりしているとき子供にはみんな声を掛けました。
子供は四人でした。
5歳と6歳の女の子と10歳と13歳の男の子でした。
其々別々にカトマンドゥに辿り着いていますが、二人の女の子はシガツェ方面から男の子二人はカムからでした。
僧侶は見まわしたところ一人だけ。彼もシガツェの近くからだそうです。
ラサから来た人はいないようでした。
いつものようにカムとアムド出身者が多く、男女比も半々ぐらいか?
今日のところはあまり詳しくみんなに話を聞いていません。
明日からゆっくり何人かにインタビューするつもりです。
ナンパラ峠を越えて来た人が一人、
カンゼから来た人もいるそうです。
中で一番可愛くて、明るく、みんなのマスコットのようになってる女の子とはさっそく仲良くなりました。
6歳のテンジン・ドゥカはお父さんと一緒にここまで来たのでした。
それもあってちっとも大変そうだった風に見えないのかも、と思ったりしました。
お父さんはしばらくして、ドゥカの学校が決まったらまた、チベットに帰るそうです。
奥さんと3歳のもう一人の子が待っているとか。
「ここにたどり着くまで大変だったろうに、どうして子供をここまで連れて来たのか?」と聞くと。
「国にいてもこの子を学校にやれない。学校がないわけじゃない。でも遠くて通えない。
お金もない。ここに連れてくればダライラマ法王のお陰でただでちゃんとした教育を受けさせることができると思って来たのだ」そうです。
デンジン・ドゥカは夜行バスでもよく寝たのか、興奮したようにはしゃいでばかりいました。
デリーで別れた亡命者が5人、
今まだカトマンドゥの収容所に10人はいるそうです。
今年の冬はまた相当の亡命者が寒い国境を越えてくることでしょう。
ーーー
アマ・アデさんに会ったので、「アマラ、また子供たちが来てうれしいね!」
と声をかけると、満面笑みで「どうだ、そうだ」と言ってました。
午後、もう一度収容所に行った時、そのアマ・アデさんがインド人の学生を前に自身の過去の話をなさっていました。
「1万人の収容所で生き残ったたった4人の中の一人だ、だから死んだ仲間たちの代わりに話すのだ」
「餓死を前に死体に人々は群がった。でもチベット人の死体には骨しか残っていなかった」
「マントラを唱えたとか、ダライラマを非難しないと言って拷問された。爪と肉の間に針をさされたりした」
とかの話の後「チベットは嘗てちゃんとした独立国だった。
でも今は法王は独立の話をしていない。でも中国はそれを否定してる。私たちはただ、宗教の自由と文化を守りたいだけだ。
インドには恩が深い。これからもチベットの事を支援してほしい。インドの若い人たちがこうして私の話をきいてくれることは本当に嬉しいことだ。ありがとう。ありがとう」
と締められました。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)