チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2008年11月5日

オバマ氏はチベットの希望?会談終了、 続パッサンの証言等

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1397a19f.JPG今日は、世界中がアメリカの大統領に、オバマ氏が当選したことを祝福しているような印象があるのは、半分は、このところBBCの入りが悪く、CNNばかり見てるせいでしょうか?。
それとも希望がほしい経済危機の真っ最中だからでしょうか?
中国は本当のところはこのことについて、どう思っているのでしょうか?

オバマ氏の当選後初のスピーチをライブで聞いていました。
オバマ氏は本当に演説がうまい!内容もいい!
今打ってつけの役者に、うまいシナリオライターがくっついたみたいです。
オバマ氏の人気はこの演説のうまさにあることは嘗てよりよく言われていることですが、今日は私も珍しく人に魅かれ、人に期待してしまいました。

「彼なら少しはこの世をまともに変えさせることができるかも知れない。
(チベットの)状況もこれからひょっとして彼のお陰で良くなるかも知れない?
何しろ彼は黒人だから」
とアフリカの人々のように、単純にこれまで虐げられてきた人たちに、希望を持たせてくれるだけでもすばらしいことでしょう。

元々、ナンシー・ペロジ女史をはじめ民主党内には法王を尊敬し、尊重する議員は多い。オバマ氏が法王の信者?になる日も遠くないことでしょう。

一般のチベット人、特にカムでは、今でもアメリカがいつか助けに来てくれると信じてる人が多いようだ。

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<第8回チベット・中国会談>は昨日の朝から始まり、今日終わった。

今夕にも特使一行はデリーに到着するとのこと。
その後記者会見がダラムサラで行われるのか?デリーで行われるのか?はまだ未定のようです。
サムドゥ・リンポチェは今日デリーに向かわれました。
法王はダラムサラにいらっしゃらないことだし、記者会見があってもおそらくデリーでしょう。

ーーー

中国は4日、法王の東京での発言に対し、新華社伝に「引退するような振りをする、下手な芝居をやり、根拠のない<失望>を語っている」とコメントした。

http://phayul.com/news/article.aspx?id=23147&article=China+Hits+Back+at+Dalai+Lama

さらに「白と黒を取り違え、真実を無視している。人目を引くことと、人々の同情を買おうとしている」とも言っている。

<文化的ジェノサイド>とか<死刑宣告された>とかの批難はダライラマの分裂主義的野望の現れだ」と特別きついお言葉です。

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その他内地からのニュースとして、

http://phayul.com/news/article.aspx?id=23148&article=China+Puts+55+Tibetans+Behind+Bars
チベット自治区裁判所は新たに55人のチベット人に、中国の言う<3月14日暴動>の実行者として刑期を言い渡した。
刑期は3年から無期

罪状は社会の安全を乱した罪、窃盗、器物破損等であり、政治犯は今回も一人もいない。
つまり彼らは<チベットに自由を!>とかを叫ぶためにデモしたのではなく、ただの暴徒だっただけというわけだ

もちろんまともな裁判など一度も開かれたことなどない、ただの宣告式です。

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最後に、昨日の続き、パッサン・ドルジェ氏の証言の後半を載せます。
今までも、今この瞬間にも、これからもパッサンが受けたごとくの拷問がチベット中いたるところで行われたし、行われているし、これからも続くであろう。

2002年4月1日、パッサンは6年間の刑期を終え、刑務所から釈放された。まずカンゼの人民裁判所へ送られた。そこで彼は再び僧衣をまとうことを禁止すると言い渡された。すなわち、彼は僧院に戻ることができないのだ。
更に、パッサンは度々地区の裁判所に行って自分が村にいることを証明しなければいけなかった。時々なんらかの政治活動をしていないかどうか尋問されることとなった。
遂にある日、父親は彼に家を離れインドへ逃れるように言った。パッサンは僧院から追放され、いかなる会社にも雇ってもらえなかったからだ。彼は、逃げたらチベットの家族に害が及ぶのはわかっていたが、それ以外に選択の余地は無いと思われた。

2002年10月1日、パッサンはラサに到着し、インドへ逃がしてくれるガイドを雇った。彼に1700元支払った。ところが、10月6日、パッサンとガイドその他チベット人亡命志望者一行はラツェとディンリの間の検問を通過できなかった。パッサンは尋問された時、インドへの巡礼へ向かうところだと答えた。しかしながら、彼は警官に荷物を調べられ、6年間刑務所へ入った後持ち歩いていた書類を見つけられてしまい、警官は速やかに彼をラツェの警察署へ連れていった。そしてパッサンだけが拘置所に拘留され、その後シガツェの刑務所に送られ、そこで105日を過ごし、それからカンゼの公安事務所へ戻された。そこで彼は真実を話すよう警告され、それができない場合はさらに3年拘留を延長するとされた。パッサンは彼らに何を話せばいいのかわからなかったので、彼らの気に入りそうなことを話した。パッサンは既に刑務所で6年の刑期を終えていたので、役人たちは彼を厳しく罰しないこととし、3ヶ月後に釈放された。けれども、地方の裁判所に7ヶ月サインをしに行かなかったことで、彼は6000元の罰金を課せられたのだった。

彼が実家に帰ると父は既に亡くなり、二人の姉妹は貧しい状況であった。彼は姉妹を助けるために留まり、ほぼ一年間実家で働いた。
 
2004年6月1日は子供の祭りの日であった。パッサンがカンゼのお祭りに参加しているとき、市民の格好をした公安の職員が何人か彼を取り囲むように現れ、彼を警察署へと連行した。そこで、この一年間、他の者と組んで、独立運動とか政治活動とかに参加しなかったかどうかを聞かれた。また、2004年5月29日の独立メッセージの配布にかかわったかどうかも問われた。中国人の役人は彼の親指を親指錠でとめ、その親指を床におき(時にはテーブルの上に)尋問の間中ブーツで踏みつけた。それは囚人を拷問する耐え難いほど過酷な新しいテクニックだった。(パッサンによると彼は多くの拷問を経験したが、この新しい方法が一番ひどかった、経験したなかで一番苦痛だった、という。)

彼はそれから7日間眠らせてもらえなかった。その間3時間ごとに、別の尋問者たちに絶え間なく尋問された。中国人の役人がパッサンから罪を問えるような答えを引き出せなかったため、遂に彼を、二人の姉妹を保証人として釈放した。パッサンは、今後全ての政治活動に参加することを禁じられ、政治的活動をしている誰とも接触してはならないと警告された。

彼が尋問を受けている間に警官隊が家に押し入り、家を荒らし、ダライ・ラマ法王の写真が持ち去られていた。彼は姉妹たちから再度インドへ逃げるよう急かされた。2004年8月、再度インドへの逃亡を試みた。そして彼はトゥ・ガリ地域へ到着し、ひどい体調のままそこで3日間を過ごした。拷問が原因の病気は彼の体力を損ない、長く困難な旅でさらに悪化した。旅を続けるほど元気がなかったので、現地の医者に診てもらうことにした。ところが、医者はパッサンの手にフリーチベットの刺青を見ると警察へ電話し、彼を逮捕しに来るよう伝えた。警察が到着し、パッサンは刺青の目的は何か、誰がその刺青をしたのかと尋問された。これといった目的もなく刺青をし、独立運動にかかわり、6年間投獄されたと答えた。また、刑務所に入ることにより学んだので、政治活動は避けることにしたと述べた。

このような返答と保証人となってくれた友人の助けによって、彼はその場から解放された。友人は、自分がネパールまでのガイドを見つけるまで留まるよう忠告した。6日後、パッサンはプランから電話を受け、ガイドに会うためにそこへ向かった。友人は、パッサンをネパールまで連れていくのにガイドに1500元支払った。だが、彼の病気は悪化しあまりに弱っていたため、誰かの助けなしには前に進むことが出来なかった。彼の状態は更に悪くなりガイドは彼を見捨てて逃げて行ってしまった。10日間一人で山の中に取り残されることとなった。運良くもう一度新しいガイドを見つけたが、今度は彼の健康状態があまりに悪いというので、3000元支払わねばならなかった。それからも幾日もの間、パッサンは多くの問題に直面し、血を吐き、食物が喉を通ることはなかった。。

2004年11月15日、パッサンは遂にカトマンズのチベット難民一時収容所へ到達した。そこでチベットでの過去の出来事を語るよう促された。3日後、パッサンはダラムサラへ送られた。11月末、彼は何年もの監禁、逮捕、非常に長い旅路を経て、ようやくダライラマ法王により祝福された地、ダラムサラへ到着したのである。

以上。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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