チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2008年11月4日
ルンタレストランで働くパッサンの証言その1
最近「リチャード・ギア/マイ・ヒーロー」というこの辺で作られた映画にも出演した、なかなかキャラがたった生粋のカンパ。
今のチベッタン・カウボーイ風の出で立ちからは、嘗て彼が僧侶だったこと、耐え難い拷問を長時に味わったこと等はまるで判らない。
腕には<チベット独立>の刺青が彫られている。
彼には最近インタビューしたのですが、その後で「これは自分の証言を外人がまとめて英語にしてくれたものだ」と言って比較的長い文章を渡された。
以下はその前半部分です。明日にでも後半を続けます。
友人の友人に訳してもらったものに友人と私が手を入れたものです。
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<パッサン・ドルジェ36歳の証言>
パッサン・ドルジェはカンゼ地方のウスン村に生まれ、15歳の時、自ら欲してカンゼ僧院の僧侶となった。
彼は、カンゼの街頭にチベット独立支持の張り紙を貼った罪で、6年半の刑期を言い渡された。
パッサンは意気軒昂な人柄で、人権が侵されることに対し一切黙っておれない真の人権擁護者である。チベットの自由を心から望む、骨のある男だ。
カンゼ地方では、公安の役人が彼を捕まえようと度々試みたが、彼は監視の目をすり抜け、幾度となく捕まらずに独立支持の張り紙を貼ることに成功した。このように、危険を覚悟の上で、パッサンがここまでチベットのために行動するようになったきっかけは、一つには敬愛するダライ・ラマ法王の法話を聞いたこと、もう一つは、新年の大祈祷祭の際、友人のツェトップがカンゼ寺のホールの上にチベットの国旗を掲げ中国に抗議したことに、激しく心を動かされ、啓発されたことからだという。
パッサンの最初の抗議行動は1993年7月であった。“チベットに自由を!”“中国はチベットを支配する権利はない!” と書かれた夥しい数の張り紙を、カンゼの政府高官事務所とその周囲の壁に貼りだした。その後、中国役人が徹底的に調査したにもかかわらず、その時彼を捉えることはできなかった。
パッサンが2度目に行動したのは1993年8月20日。ちょうど最初の抗議行動の一ヵ月後、ナツァン・リンポチェによる会衆への法話が行われていた時であった。多くの人々が参加する法話の期間中、パッサンは再度 “チベットに自由を!” “中国はチベットを支配する権利はない!”と書かれた、自分で作ったチラシを配った。公安はこの時も作成者を見つけることはできなかった。しかしながら、役人たちは法話の最中に中国への抗議の雰囲気を感じ取り、カンゼ寺院の僧侶たちに疑惑を抱くようになった。そして、パッサンが一番怪しまれることとなった。公安は厳しく彼に尋問し、チラシの筆跡を僧侶たちの筆跡と比べた。
尋問は1995年の冬から1996年の初めまで続いた。このころ中国政府は パンチェン・ラマ11世としてゲルツェン。ノルブを承認し、長寿を祝う祝典を行うよう、カンゼ僧院へ三万元を与えた。パッサンは、中国人がパンチェン・ラマの生まれ変わりとして指名したこの少年を拒否し、更にチラシを配り、チベット旗を掲げることにより抵抗を示した。新しいチラシにはこう書いてあった。「我々チベット人に、中国が選んだ2番目のパンチェン・ラマは必要ない。中国政府がくれた三万元はチベット社会とチベットの未来に対する害毒である。本物のパンチェン・ラマ、ゲンドゥン・ニマ,は、ダライ・ラマ法王が既にパンチェン・ラマ11世として認めている。本物のパンチェン・ラマと彼の家族は北京へ連れ去られ現在行方不明になっているのだ。」
1996年4月2日の正午、公安の役人はパッサンを予告なしに逮捕した。彼は僧院で先に行われた筆跡のテストにひっかかったのだ。彼は“悪質である”として厳しく糾弾され、中国政府のため赤いガウンを着させられた。
パッサンは、後ろ手にされ、親指に錠をはめられ、尋問された。そしてその状態のまま、鉄棒、銃の台尻、電気ショック棒(尋問の部屋では、様々なサイズと様々な電圧の電気棒で被尋問者の顔と身体に押し付けたり、殴るのに使用された)で、顔や身体のあらゆるところを役人に殴打された。更に尋問の間中、長いこと天井に取り付けられた鉄棒にぶら下げられた。彼は尋問の後、これらの非人道的な拷問によりほとんど立ち上がることができず、そのまま監房へと投げ入れられた。
翌日の午後、パッサンは再び尋問された。この時、あまりにひどく拷問されたため、その後8日間は監房で意識不明のままだった。後の公判中に、警察官たちは彼にカンゼの街中に独立運動の張り紙を貼ったことを告白するよう強制した。また、彼は身に覚えのない他の運動に関しても責任追及された。しかしパッサンは公安が立証できないことに関してのあらゆる告発を否定した。
ある日パッサンは、ツプテンという看守によって、ダライ・ラマ法王のロケットを見つけられてしまった。看守はそれを彼の首からはずし、所長のところへ持っていった。所長は、チラシの筆跡から既に彼の有罪は明らかだったこともあり、パッサンに罪を告白するよう詰め寄ったが、彼は再びそれを拒否した。尋問の最中、看守は彼が衰弱している様子を見て、「お前は元々病気だったのか、それとも監禁中に具合が悪くなったのか?」と問いただした。パッサンは「具合が悪くなったのは監禁によるものだから病気の治療をしてほしい」と頼んだ、しかしそれを受け入れてはもらえなかった。
パッサンの顔は見るに耐えない状態だった。頬はげっそりとこけ、両目は眼窩の奥へ引っ込んでいた。18日後にやっと治療を受けるが、それが7ヶ月続いた。
治療中にカンゼの裁判所は判決を下した。刑期6年という判決だった。法廷では役人が囚人の健康を気遣うような素振りを見せていて、判決の際、パッサンの健康に関しての質問がなされた。そして治療後に初めカンゼ地方監獄で9ヶ月を過ごし、次にアパチュの刑務所へ移送され、そこでその後6年間を過ごすこととなった。
アパチュ刑務所では、幸運なことにノルブ・ダドゥル、ゴンポ・ルドゥップ、タシ・ドゥンドゥップ、タシ・ニマなどの、旧知の僧院仲間たちに会うことができた。パッサンはアムドから来た二人の政治犯アムド・ゴンポともう一人の僧侶にも会った。彼らはパッサンにこの刑務所の状況や拷問の内容などを詳しく説明してくれた。
しかし間もなくパッサンは恐怖の無窓独房に入れられた。其れは丸一年も続いた。彼はその間、手錠と足かせをかけられたままだった。独房は非常に狭く、窓がないため光もなかった。そして常にその状態におかれ、空を全く見ることができなかった。独房は非常に幅も狭いため、かろうじて横になれるだけのスペースしかなかった。トイレは独房内で缶を使用し、その中身を捨てるときだけ外に出ることを許された。彼は数分でトイレまでその缶を運び、トイレで空にしなければならなかった。部屋へ戻る間、彼は誰の姿も見かけなかった。刑務所では、反動主義者は他の収容者と関係を持たせてはいけないと決められてていた。
無窓独房に入れられていた間、パッサンはほぼ500mlの血液を2回抜かれた。毎年、全ての政治犯は血液をとられた。そのうちの何人かは1リットルの血液をとられた。血をとられた日、パッサンは問題なく感じた。ところが2日か3日後に頭痛がしはじめ、日々酷くなり、ある日彼は気絶した。
刑務所での2年目が始まった。パッサンは激しい軍隊式体操をするよう強要された。最初は目が見えず、上肢をコントロールすることができなかった。彼の腕と手はただ、だらんと身体の脇に垂れたままだった。
食事といえば、朝は水っぽいポリッジとクルミぐらいの大きさの蒸しパンだった。昼には一握りのごはん(通常腐って苦いにおいがした)と野菜(茹でてあるが、油っぽく臭い)が出た。夕飯も昼食と同じであった。
続く、
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)