チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2008年9月19日
尼僧一人逮捕時に死亡、TCVの子供に話を聞く
本土からの情報は益々入りにくくなっています。
そんな中、18日付のphayul.comに載せられていた
<ある尼僧の死亡記事。>
http://phayul.com/news/article.aspx?id=22819&article=Tibetan+TV+Journalist+Arrested%2c+Nun+Dead
情報はチベット議会議員ゲシェ・モンラム。タルチェン師がVOT(チベットの声放送)に伝えたものだ。
7月8日カム、ダゴ(ダンゴ)、サムテンリン尼僧院の尼僧チェリンがまず法王のチベットへの帰還を願うパンフレットを配布し始めた。
ツェリンを支援するために数人の同尼僧院の尼僧が町の中心部に向かって行進を始めた。
しかし途中で中国の武装警官に取り囲まれリンチにあった。
そのうちグルと呼ばれる尼僧は頭を鉄の棍棒で強打された。
その上護送中の車から後ろ手に縛られたまま、蹴落とされた。
その時彼女は頭を強く打った。
病院に運ばれたが頭部挫傷のため死亡した。
中国当局は家族に対し、死因は「自殺」だと言ったが、家族の調べで頭部挫傷と判った。
さらに2人の尼僧、ツェリン・ツォ27歳と彼女の姉ウゲン・ラモ32歳が2年の刑を宣告された。
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さらに同じ記事の中で9月11日の深夜、ランジュンというセタ・テレビ局でニュースレポーター、キャスターを務めるチベット人がアムド、ゴロの自宅で逮捕されたことが伝えられている。
25歳の彼は有能でありすでに二冊の著書と抒情詩一冊を出版している。
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数日前、TCVに再び行った。
子供たちに話しを聞くために。
この日は4人に話を聞きました。
私が通訳したのをいつものようにT女史がまとめて下さいました。
本人のブログに行かれるともっと詳しい説明やら写真やらも見られます。
http://newborder.exblog.jp/
そのうちの一人:
(いつ、どうやって亡命したの?)
2005年にダラムサラへ。10歳の4月にラサを出て、ナンパラを越え、一ヶ月と28日歩いた。
ラサまでは姉が送ってくれた。現在も22歳と18歳の姉は両親と一緒にガンゼにいる。
ダラムサラへは8月に辿り着いた。
(山越えはどうだった?)
ガイドはカムの男一人で、34人で歩いた。
シガツェからディンリまで歩かねばならなかったので、長くて非常にきつかった。
中国人の監視を抜けるため、夜の八時過ぎから朝まで歩き、午前中仮眠を取る日々だった。
食料はお金のある人は買うことができたが、お金のない人は乞食をしながらディンリまで行った。
(アクシデントはあった?)
川を渡っている途中、水かさが胸くらいにまでなり、二人の子供が流され僧侶によって救出された。
峠に近づいたある夜、中国軍駐屯地の近くで、その溺れた子供のお父さんが弱って歩けなくなっている所をサーチライトで照らされ、連れて行かれてしまった。
一番恐ろしい出来事だった。
(別れ際、両親は何と言っていた?)
「よく勉強しなさい。大きくなったら人のために役立つような人になりなさい。
他の仲間と仲良くするように。先生の言うことを良く聞きなさい。卒業してから、
もし帰れるのなら帰ってきなさい。」
母はとても悲しそうで泣いていたけれど、将来のためだという思いは父も母も一緒だった。
(インドへ亡命することは、いつ、どのように、両親から伝えられた?)
亡命する二か月前に伝えられた。
「ここにいたら勉強する機会もなく、中国化され、将来が心配だ。ダラムサラへ行けばチベット語も勉強できるし、将来チベットのためにもなる。上2人は女の子だから、一番体力のあるお前が行きなさい。」
(チベットにいた時は学校へ通っていたの?)
ガンゼの田舎の学校へ小学校5年まで通っていた。
生徒は133人で、家から一時間ほどの距離だった。
科目は数学と中国語のみ。
4歳から僧院にも通い、お経を中心にチベット語も少し習っていたが、学校ではチベット語を習うのは禁止されていた。
ただし、学校へ行かなければ一日100元の罰金が課されるんだ。
学校ではただ一人、亡命することとなった。
(はじめて亡命の話を聞いたときはどう思った?)
びっくりした。学校でただ一人だけだったので、友達と離れ離れになるのが辛かった。
(両親の仕事は?)
農家で、ヤクなどの家畜もいた。
(勉強する以外、ダラムサラへ亡命する理由はあったと思う?)
チベット独立のため、チベット語を勉強して将来チベットの子供たちに教えなければならないと父から言われていたし、自分でもそう思う。
小さい頃から、チベットは中国に侵略され、多くのものを破壊され盗まれたことは知っていたから。
(TCVを卒業したら何がしたい?)
チベット語で詩を書いたり歌を作りたい。
そして、いつかはチベットへ帰りたいと思う。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)