チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2008年9月17日

ガワン・トプチュの証言

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7efeadfd.JPGガワン・トプチュはルンタレストランでも一番の古株。
今は朝6時からパンとケーキを作る係りだ。毎朝我々はヨガのすぐ後焼きたての彼の作ったパンをおいしく頂いている。

彼の話は以前にもこのブログに載せている。
しかしその時は国旗の話しを中心にちょっと聞いただけだった。

以下に数日前に聞いた少し詳しい彼の証言を載せる。
T女史がまとめてくださった。

ーーー

<ガワン・トプチュ 34歳の証言>

私は、ラサのガンデン僧院近郊のメト・クンガ県、メト・ギャマで産まれました。そこからガンデン僧院までは、以前は道が険しく雨が降るたびに道が壊れるほどで、近道もなかったため、車で二時間ほどかかりました。現在はラサから高山資源が豊富なメト・ギャマまでの幹線道路ができ、車で15分ほどの距離です。大きな88台のトラックが、金、銅などの資源を確保しに、一日19回往復しています。

出家

14歳でガンデン僧院の僧侶となりましたが、二十歳(92年)までは見習い僧でした。当時、中国による規制のため、若くして僧侶になることはできませんでした。僧院でお経を唱えたり勉強することはいくらでもできましたが、他の僧侶と同じ食事は取ることも、僧院の教育システムに入ることも出来なかったのです。
月の8日、15日、24日などの特別な仏事の際には、僧侶とともに食事ができ、時々布施をもらうことができましたが、それ以外は雑務や労働に従事していました。

ジョカン寺でのデモ

92年、チベット暦の4月15日(6月くらい)に、メト・ドゥムラというジョカン寺近くの大きな公園から、二人の僧侶とともにデモを開始しました。4月はサカダワといわれ、お釈迦様が誕生・成道・涅槃された大切な月で、功徳を積む修行に最も適した機会です。特に15日の満月の日は、仏教でとても大切な聖日とされ、方々からチベット人が祈りを捧げるためにラサへ集まります。私たちは多くのチベット人を励まし応援したいと考え、デモを計画したのです。他の僧院と連絡を取り、ジョカン寺へ集まろうと呼びかけ合っていたので、当日は大勢の僧侶がデモに参加しました。

当時国旗はなかなか手に入らなかったため、デモ用の国旗は仲間と手作りしました。青色はインクがありましたが、赤色はなかったので、自分たちの血で染めました。その大きな国旗を二人が持ち、一人がジョカン寺へ向かって先導したのです。外国人の観光客も何人かいたので、写真やビデオを撮られるよう、私たちは大きな声を上げて派手にやりました。
「チベットの完全独立を!ダライ・ラマにご長寿を!中国人は中国へ帰れ!チベットの主はチベット人だ!」と、順番に、ありったけの声で叫びました。

そして、ジョカン寺を右回りに回ろうとしたところで中国公安に捕まってしまったのです。仲間のテンジンはすぐに両腕を後ろ手に紐で縛られ、トラックにまるで物を投げ入れるかのように放り込まれました。私は激しく抵抗したため、銃尻でひどく殴られました。30人しか収容できないトラックに90人以上が押し込まれましたが、私はトラックに入りきらなかったため、同じように両手を後ろ手に紐で縛られ、路上に正座させられました。そんな中、監視の目を盗み、なんとか紐を外そうと手をもぞもぞ動かしていたら、奇跡的にも紐がするりとほどけたのです。そして、他のチベット人たちが追手を遮ってくれたので、なんとかジョカン寺まで逃げることができたのです。
当時は武装警官の中にもチベット人が沢山いたため、逃げても深追いされることはなく、今と比べるとまだ規制が緩かったようです。2006年頃から政策が変わり、内地から大勢の中国人警官がチベット自治区へ送り込まれたため、過激な軍隊式へと化していきました。その時に中国側が打ち出した政策はこのようなものです。

・遊牧民の定住政策
・トゥルク・リンポチェ(転生活仏)の共産党政府認定制度
・ダラムサラとの対話硬直

トムセカン(ジョカン寺の裏当たり)まで逃げたとき、一人の年輩の男に手招きされ、とても警戒しました。ところが彼が、「私は寺の法要の施主をしている者だ、安心しなさい。」と、にこやかに言ったので、安堵のため息をついたのを覚えています。彼はデモの様子を一部始終見ていたとのことで、「本当に良くやった。」と私を労い、助けてくれたのです。

彼は、ポタラの裏手の湖まで私を連れて行くと、変装用の服と煙草と400元を手渡してくれました。途中公安に見つかりましたが、煙草を吸っている振りをし(僧侶は煙草を吸わないため)演技をしたら、ばれずに何とか逃げ切ることができました。

里まで辿り着くと、私はわざとヤギを連れて、山へ香木(香を焚くための木の葉)を集めに行きました。次の日僧院に公安や当局の監視委員会がやってきて、「ラサに行ったか!」と問われましたが、こうして山へ行き、15日のサカダワの準備をしていたなどと言ってごまかしたので、疑われることなく捕まらずに済んだのです。
デモをした3人のうちテンジンだけが捕まり、刑期を言い渡されました。他の僧侶たちも大勢捕まり、刑期はだいたい6年~10数年だったそうです。中には銃殺される者もいたと聞いています。

不当な要求への抵抗

忘れもしない96年5月6日のことでした。13時、突然ガンデン僧院に共産党の委員会がやってきて、800人の僧侶全員(そのうち見習僧が500人)が集められました。そして、ダライ・ラマと亡命政府は国家分裂を謀る危険な存在であると冒涜し、壁に掛けられたダライ・ラマ法王の大きな写真をただちにおろすよう命じたのです。法王のその大きな写真はとても大切なもので、法要の際に必ずその前で祈りを捧げていました。ですから、当然私たちの誰一人として、中国人の言うことには耳を貸す者はいませんでした。

すると、15時くらいに再び公安とチベット人警官がやってきて、こんどは僧院長を呼び出しました。そして、しばらくして私たちは同じように集められました。僧院長は、「みんなは自由な選択ができる。けれども今回の話は僧院存続のためになることであり、みんなの為にもなることだから必ず聞くように。」と言われ、中国人が先に命じた内容を再び私たちに話されたのです。僧院長のすぐ横で、中国人の公安やチベット人警察が睨みをきかせていました。
私たちは通常、僧院長の指示に従わねばなりませんが、この内容だけはどうしても受け入れられませんでした。ある者は中国人に小石を投げたり、またある者はチベット人警察に「同じチベット人なのに、何故だ。チベット人ならラマを尊敬するべきだ。」と抗議し、乱闘になりました。

そのあと、私たちガンデンの僧侶たちは緊急会議を開き、この一件をめぐる今後のことを話し合いました。中には逃げた方が良いという者もいましたが、最終的には、私たちは何があってもダライ・ラマへの忠誠を誓うこと、仲間を裏切らないこと、そして、逃げも隠れもしないでその意思を貫くことを誓い合ったのです。

18時頃、ガンデン僧院に向かう坂の下から、驚くほど多数の軍隊のトラックが押し寄せてくるのが見えました。私は、ついにこの時が来たという思いでいました。
いよいよ彼らが僧院に到着すると、わざと大きな足音を立て、物々しい様子で攻めてきたのです。
僧侶50人ほどが、法王の写真が没収されそうになるのに抵抗し、石を投げて立ち向かいました。すると中国人は銃を向けて威嚇し、数人は脚を撃たれて連行されました。私たちには、トゲの生えているイラ草で通り道を塞ぎ、石を投げて抵抗するしか、成す術がありませんでした。次の日から徐々に逮捕者が増えていきました。はじめに30人、次に40人、3回目に17人捕まったとき、私も連行されました。そんな逮捕劇が、しばらくの間続いたのです。

刑務所内から病院へ

刑期は裁判をせず当局によって適当に言い渡され、私は11年の刑期でした。同じことをしても2、3年の刑期の者もいれば、16年という長期の者もいたのです。
投獄されてから初めの頃は、一日6~7回もの尋問があり、決まって、首謀者は誰か、そしてバックには誰がいるのかと尋ねられました。私たちは、ダライ・ラマの写真をおろせと言われたことに自ら抵抗しているだけで、誰かに命じられたわけではないのです。けれども、そう言う度にひどく殴られ、同じ尋問がくり返されました。

拷問は堪え難いものでした。今でも腕には特殊な手錠(動く度にきつく締まる仕組みのもの)で締め付けられた痕、背中には殴打された時の傷痕が残っています。コップ一杯の血を抜かれ、ふらふらで無抵抗なままひどい拷問を受け、私たちは日に日に衰弱していきました。病院にも行かれず、食事も粗末なものしか与えられなかったため、怪我も病気も悪くなる一方でした。

そんな日が半年も続いた時、私は瀕死の状態に陥り、監獄内で死なれたら困るという理由で軍病院に搬送されました。それまで本当に体調が悪いのか確かめるのに、水をかけられたり電気ショックにかけられたりと、ひどく野蛮なやり方で検査されました。

その後、数か月経っても回復が見られなかったため、別の病院へ行けと言われ、私は軍病院からメンツィーカン(チベット伝統医学院)に移りました。その間、私は金が尽きていたので、養生して少し回復し始めた頃から病院を抜け出し、外に働きに出ました。一年間病院を出入りしていましたが、容態が良くなればまた監獄へ帰されてしまうので、一年後の97年に私は亡命を決意したのです。
ガイドは、外に働きに出ている時に人づてに評判を聞いていたカムの男でした。鄧小平が亡くなり、喪に服している間は比較的検閲が緩かったので、私たちはその時を狙って決行することにしました。

ネパール、そしてインドへ亡命

ラサで集まった 21人とトラックでディンリまで行き、そこからナンパラ(峠)を経由し、ネパールまで一緒に歩きました。ガイドに一人3500元支払い、その中からガイドがトラックの運転手にいくらか渡します。トラック内に私たちはぎゅうぎゅうに押し込まれていたので、降りて歩きはじめてから、ようやく年齢や男女の区別がつきました。7、8歳の子供4人に、老人や尼僧も数人いました。

ガイドはほとんど人づてに紹介されます。中には善良なガイドもいますが、大抵 はヤクザ
との繋がりが強いと言われています。私たちのガイドへの清算方法は以下のようなものでした。まず、紙に契約内容を明記します。それを半分に破ってその半切れと半分のお金をラサの友人に預け、残りのお金を先に支払います。無事に送り届け、ラサへ戻ったときに、ラサの友人が半分の紙切れと照合させて、残りの額を渡すのです。通常ガイドはネパールのナムチェバザール近くのルクラという所にある、亡命政府一時収容所の支部まで案内し、帰って行きます。

私たちは監視の目を逃れるために、ネパール側のナムチェバザール付近に入るまでの移動は、すべて極寒の深夜に行いました。季節は3月でしたが雪深く、靴も着るものもちゃんとしたものではなかったので、寒くて死ぬ思いでした。お金もないのに食料も尽きてしまい、みんな飢えを凌ぐのに必死でした。途中、力尽きた子供がこれ以上歩けなくなり、ガイドに置いていかれそうになったため、私たちは木を切り、即席で担架を作って子供を運びました。
ガイドは、「簡単にインドまで行かれる。問題ない。」とはじめは言いますが、いざ旅が始まるとその道のりは険しく、力尽きてついて来られない者が出てきます。ガイドが歩けなくなった者を放って行ってしまうことは、よくある話なのです。峠を越えるとき、凍りついた7人ほどの遺体を見ました。みんな置いていかれた者たちなのでしょう。手足の感覚がなくなり、呼吸も苦しくなり、常に私たちは死ぬか生きるかの瀬戸際に立たされていました。峠のナンパラを越えてからナムチェバザールまでは二週間ほどの道のりで、喉の渇きと空腹に耐えながら歩き通しました。その道のりはとても長く、靴下を数枚ボロボロにしてしまうほど厳しいものでした。

ナムチェバザールで捕まると中国へ帰されてしまうので、私たちはルクラまで身を隠しながら恐る恐る移動しました。ところが、途中でネパール警察に見つかってしまい、私たちはカトマンズの監獄へ連行されたのです。20日ほど拘留された後、カトマンズの一時収容所の人がやってきて多額の保釈金を支払ってくださったお陰で、私たちは無事に釈放されることになりました。3月10、ようやくカトマンズの亡命政府一時収容所へ辿り着いたのです。そして5月に、ここダラムサラへやってきました。

現在は結婚し、朝はルンタレストランでパンとケーキを焼き、午後には妻に代って子守りをするという日々を過ごしています。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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