チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2008年9月13日

法王の手紙、亡命した子供たち、80年代終わりにデモを扇動した人たち

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4ef147b0.JPG休養中の法王から突然、議会及び内閣に宛手紙が送られて来た。

以下はY女史訳です。
私が訳そうかなと思っていたところに、偶然丁度Y女史からの訳がメールに届けられているのを見つけました。

<緊急会合の召集 - ダライ・ラマ法王からカシャック(内閣)および議会へ>

http://phayul.com/news/article.aspx?id=22801&article=Call+Emergency+Meeting+-+Dalai+Lama+to+Kashag+and+TPIE

【ダラムサラ、9月12日】 ダライ・ラマ法王はチベット亡命国会(議会)とカシャック(内閣)に対して、緊急会合を召集する指示を出した。
この指示は、ダライ・ラマ法王庁により本日、書簡形式で発行された。

現在第6会期中の第1チベット亡命議会が、この書簡を国会で読み上げた。チベットのリーダーであるダライ・ラマ法王は、ムンバイで治療を受けて北インドの拠点に戻ってきたばかり。
チベット亡命政府の立法および行政機関に、チベットの基本的な諸問題について議論するよう要請している。
7月に73歳になったこのチベットの指導者は、チベットおよび現在の世界情勢における緊急を要する事態について、書簡の中で述べている。

緊急会合を要請できるダライ・ラマ法王の権利については、チベット亡命政府憲章第59条に規定されている。法王は、この権利に基づいて書簡を発行している。

書簡によれば、会合は今年11月か12月に開かれるとされている。

チベット議会と内閣は、緊急会合で討議される試案のために、計画その他の詳細について、共同で討議していくと見られている。
チベット亡命議会の常任委員会が通常そうした事項について議論を行うが、現在は会期中であるため、試案についての討議は月曜以降に議会で扱われる見通し。

ーーー
この会議はチベットの将来にとって非常重要な会議となることは間違いない。
今年の騒乱と不毛に終わった対談を経て果たして中道路線に変更がありうるのか?
本人亡き後の話があるのか?、、、

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連日I氏のインタビューは続く。

一昨日は午後二時過ぎにTCHRDの次長ジャンペル・モンラム氏を事務所に尋ね話を聞いた。
彼はあの歴史的な87年9月27日のデモを先導した21人のデブンの僧侶の一人だった。
彼らのデモは中国で文革後初めての党に対する抗議デモだったのだ。

「デモしようと言うアイデアは一体どこからきたのか?デモの仕方を知っていたのか?」
「デモのやり方はテレビで良く紹介されていた中国共産党の嘗てのデモの様子を見て知った。旗を掲げスローガンを叫びながら行進するのがデモなのだと知った。」

「パルコルを三周ほどしたが、最初の一周のときには周りのチベット人たちは虚とんとしており、自分たちが何をしているのかが良く判らない様子だった。
でも二周目に入ると、周りのチベット人も事の次第を理解したらしく、後ろから同じくスローガンを叫びながら続くものが出てきた。手を合わせ涙を流しながら「よくやってくれた。有難う!有難う!」という老人。我々に向かって五体倒地をする人等が大勢いた。三周目に入るころには後ろには道いっぱいになって、数へ切れなほどのチベット人老若男女が後ろに続きスローガンを叫んでいた。
沢山のカタが我々の首に掛けられた。
後でグツァ拘置所に送られて初めて気が付くと、懐にはお金やら果物やらが一杯押し込まれていた。
カタと一緒に自分たちの僧衣の間に押し込んだものらしい。
三周した後ジョカン前広場の中央にあった花壇の上に21人が昇り<チベット独立!チベットはチベット人のものだ!ダライラマ法王に長寿を!中国人はチベットから出ていけ!>と叫び続けた。
広場は同調するチベット人で一杯だった。
それからジョカン前の通りをチベット自治区中央庁舎に向かってまっすぐに行進していった。途中には大勢の武装警官隊が待ちうけていたが、彼らは意外にも自分たちそのまま通した。自分たちを通した後、後ろに続く一般のチベット人を阻止した。
こうして自分たちだけになったところで囲まれて全員逮捕された。」

釈放された後彼は仲間10人と地下組織を結成する。
その時のことなど

興味深い証言が沢山ありましたが、、、今回はこれまで。

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それからTCVに行って最近来た子供たちにインタビューする積りだったが、流石に飛び込みはだめで明日準備しておいてくれることになりその日はベービールームなど見学して帰った。
夜にはラサ裏社会を知ってるらしい人に話しを聞いたりした。

昨日は午後からTCVに行って5人の子供に話を聞いた。
皆それぞれ印象深い話ばかりだった。

あるアバから10歳の時来たという女の子は9人兄弟でそのうち5人が一緒にインドに送られたという。
インドに行ったこともある父親が決めたことだった。
周辺には学校が全くなく勉強の機会は皆無だった。

それを知った母親はそれ以来泣き暮らし叫んだり、ふらっと外に出て遠くまで彷徨うことが多くなった。眠れないようだった。瘠せ細り病気がちとなった。
食事時間にいないので探しに行くと一階の家畜部屋の片隅で真っ暗やみの中で泣いているのを見つけたことがある。

インドに子供を送ることをめぐって夫婦で言い争いをしているのを見たこともある。

今年の3月以降家に電話を掛けたとき、知らない中国人が電話口に出て「誰に掛けているんだ?」と訊いてきた。怖くなって電話を切った。それからは連絡できないでいる。アバでは今年沢山デモがあったから両親や兄弟のことが心配だ。」

この子は22歳だった。
将来はどうするの?と聞く。
「今は高校2年生だ出来れば看護婦になって、国に帰りたい。
自分の住んでいたあたりには病院も薬を得るところも全くなかったから。」

ーーー

もう一人の18歳の女の子はラツェの近くの田舎に暮らしていた。
半農半牧の貧しい家だった。
始めに「私の家には悪いことが続いたのです」と言った。

11歳のころ父親が病気になり動けなくなった。
次の年には母親が倒れた。
病院まで車で1時間半掛かる。車も町にはない。
それでも病院に数回いったのだけど、高い治療代が払えなくて十分の治療を受けさせることができなかった。ほどなくして母は亡くなった。
その次の年父も亡くなった。
そのころ20歳を超えた姉と兄がいたのだが。間もなく長女の姉も病気になり死んでしまった。
私はそのころインドに行ったことのあるお坊さんから「インドのダラムサラに行けばただでいい教育が受けられる。ダライラマ法王にも会えるんだ。」ということを聞いたことがある。
自分は勉強がしたいと思っていた。だから兄に「インドに勉強しに行きたい。ガイドに払うお金がほしい」と言った。
兄は「今は家にお金は全くない。でももしもうちのヤクを買ってくれる人が見つかればヤクを売ってお金を作ってやろう」と言ってくれた。

ガイド代は1000元だった。ヤク一頭は700元ぐろいだった。
一頭では足りなかった。

雪山を越えるときは怖かった。
雪の道が始まる手前には中国軍の駐屯地のような建物があった。
それを迂回するために夜中に山を登った。でも駐屯地に飼われている犬が自分たちに気づいて吠えはじめた。
その時は本当に見つかると思い怖かった。
でも見つからなかった。
それから3日間は夜歩き昼岩陰に寝た。
峠にはタルチョが沢山結ばれていた。
二週間ぐらい歩いた。
すごく寒くて、お腹が空いた。

今はここで本当に楽しく暮らしている。
勉強も好きだし、友達もたくさんいる。
故郷の家には電話もない。
時々人づてに手紙を送るけど、一度だけしか向こうからは送られて来てない。

ーーーーーーーー

その夜にはツェリン・ソナムという古い友達にインタビューした。
彼は88年の3月ガンデン僧院の仲間たちとデモを扇動し逮捕された。
五年の刑を終えたときから、ある有名な元政治犯をまとめる僧侶の下で政治的張り紙の印刷と配布などを1年ほど続けた。
仲間が一人一人と逮捕され、自分も危なくなったところで山を越え亡命した。

ダプチ刑務所で知り合ったジャンパ・プンツォック氏を最後まで見守った一人でもあった。

3時間近く話を聞いた。

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今日は朝からもう一人のジャンパ・プンツォック氏をよく知る人物、
同じく88年3月のデモを扇動した僧の一人だったゲシェ・ロプサン・ダクパを尋ねた。
彼は数年前からナムギェル寺の哲学講義の先生をしている。
偉い人なのだ。

彼はジャンパ・プンツォック氏が彼らの立ちあがる二日前に一人で立ち上がり「仏教の守護者ダライラマ法王に長寿を!侵略者は出て行け!チベット独立!ツェメ・ユンテン(真理の言葉、法王が60年代始めに作詞された)を唱えるべきだ!」
と叫んだのを間近に見ていたという。
後に監獄仲間となったとき、「あの叫び方は本当にカッコ良かった。叫んだ内容もよかったし」と言ったら「実はあのために何度も練習したんだよ。谷間の渓流のほとりで何度も叫んで練習したんだよ。どうせ最初に声をあげるなら、内容のいい言葉を大きな声で叫ぶのがいいと思ったのだ。渓流の音が大きかったから人に聞かれる恐れがないし、そこで練習していれば川の流れの音のない僧院の中ならきっと相当大きな声となって響くであろうと考えたからだった。
でも何よりも動機を正しくすることが一番大事と思ってた。
最高の動機とは菩提心だから、、、」
と話したという。

彼にも二時間近く話しを聞いた。
録音したものをいつか起こせるといいのですがね、、、

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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