チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2008年9月12日
ツェリン・テンパの証言
数日前、ルンタレストランの厨房で、やたらいつも歌を歌いながら元気よく働くツェリン・テンパ30才に話を聞いた。
彼もかつてラサでデモを行い、逮捕され、拷問を受けている。
以下は同席したT女史がまとめて下さったものです。
彼女のブログにはこれから逐次様々なインタビューの記録が掲載されることでしょう。
http://newborder.exblog.jp/
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私は幼い頃、村の周りで遊牧民の手伝いをしていました。田舎の学校へ2、3年しか通わず、12歳の頃僧侶になりました。
ラサ近郊にあるゲルク派のラトゥ僧院で、お経を唱えたり沢山の仏事を催したりしながら、7,8年間勉強しました。
88年3月3日、ジャンパ・プンツオク氏がジョカン寺の大祈祷法会で一人立ち上がり、集まっている他の僧院の僧侶たちを鼓舞するべく、勇気あるデモを行ないました。それから二日後の大祈祷法会の最終日に、ようやくガンデン僧院の僧侶たちが独立要求の声を上げ、私も一緒にデモに加わりました。
すると、すぐにジョカン寺へ中国の公安局がやって来て、次々に僧侶たちは逮捕され、手荒に連行されていったのです。私は境内の物陰に隠れ、隙間からその禍々しい光景を、じっと息を潜めて見ていました。公安は、そこらじゅうの金品や金を平然と横取りし、一時間ほど物色したのち引き上げて行きました。
私は、辺りが静かになったのを確認し、恐る恐る物陰から出てきて2階の窓から通りの様子を伺いました。二人のチベット人が通りかかったので助けを求めると、長い木の棒を持ってきてくれました。それを梯子のようにして下へ降りたとき、木の棘が手足に刺さって怪我をしましたが、なんとか無事に逃げ切ることができたのです。
その後、ラサのアマラ(お母さん)と呼ばれている方の所へ行き、世話をしてもらいました。数日後、ラサのラトゥ僧院の宿泊所へ戻ったら、ほとんど僧侶の姿はなく、みんな捕まっていたのです。やりきれない思いでラサを後にし、ラトウ僧院へ帰ってきました。
そして89年、6人の僧侶と共に再び立ち上がり、3日間デモを行いました。すぐに逃げられるようにと僧衣を脱ぎ、動きやすい服装で挑みました。公安は、一日目、二日目は様子を伺っているだけでした。ところが3日目になって、突然殴る蹴るの暴力に加え発砲しだしたのです。私は必死に逃げ、親戚の家に身を隠しました。
その頃、町から町へ行くには移動許可書を公安に届け、パスを取得しなければなりませんでした。私はパスを持っていなかったので、偽物のパスを作ってもらう間の一週間、親戚の家で待機していました。窓の外には公安が大勢ウロウロしていて、いつ見つかってもおかしくない状況に、ただひたすら耐えていました。
偽造パスでラトウ僧院へ戻ることは出来ましたが、15日後、トラック5,6台が突然僧院へやってきて、デモに参加した6人と共に連行されました。デモの最中に写真を撮られていたようで、見つかってしまったのです。「殺すぞ!」と、銃口を額に突き付けられ流血しました。投獄されてからは、ひどく殴られたり電気棒で拷問されたり、そんな手荒な暴行が半年もの間続きました。食事はゴミや砂の入った薄いスープに、虫が湧いているティンモ(小さな蒸しパン)など、それはひどいものでした。それでも、生きる伸びるために私たちはその食事を黙って口にしました。
半年で一時釈放されたのは、当時、まだパンチェン・リンポチェが中国に対して影響力があったため、88年、89年に逮捕された多くの僧侶たちが、彼のお陰で刑期短くして釈放されたのです。
そんな時、ひどい話を耳にしました。
ネタンのドルマラカンという寺の鍵を管理している61歳の僧侶が、寺院の屋上にチベット国旗を掲げたことが公安に見つかりました。そして、木にくくりつけられ、ひどく殴打された後に連行されました。彼は、半年もの間ひどい拷問を受け続け、瀕死の状態に陥ってからようやく釈放されたのだそうです。彼の身体はぼろぼろで、それは無残な姿だったと聞いています。監獄で死なれては困るので、死のギリギリまで痛めつけて釈放するということはよくある話なのです。彼はお金をかけて治療をしたけれど、結局すぐに亡くなってしまったそうです。ただ国旗を掲げただけだというのに・・とても胸が痛みました。
私は、その後6人の仲間と共に僧院を追放されました。釈放されてからすぐの出来事です。寺の周りを公安が包囲し、私たちの先生がはじめに呼ばれました。そして、「デモを行った例の6名をただちに追放せよ!」と命ぜられたのです。このままでは僧院に迷惑がかかるので、私は僧院を出て3人の兄の仕事を手伝いました。両親はすでに亡くなっていました。兄弟たちと一緒でも、公安が度々見回りにやってくるので、心休まることはありませんでした。
それから一年して、私は亡命を決意しました。大勢でトラックに乗り合わせ、警備の比較的緩いカイラスまで、北周りで一週間かけて行き、その後22日間歩き続けました。逃げている間、一人の尼僧が力尽きて倒れてしまい、私たちは、木の棒と布で作った担架の上に乗せて進みました。ところが数日後、気がつくと彼女は亡くなっていました。私たちはどうすることもできず、お経を上げて遺体を川に流しました。とても辛い出来事でした。
ガイドはネパールとチベットの間にいるロンパ族の男でした。言葉が通じないため、身振り手振りで会話をしました。ガイド代として一人1000ルピー支払い、ポケットには500元ほどしかありませんでした。
マナサロワ湖の近くの寺に、一か月お世話になったこともありました。プランという大きな国境の街を経由した時は、全員のお金も尽き食料も枯渇してしまいました。私は歌をうたってお金を集め、食料を買い、みんなと一緒に空腹をしのぎました。私以外は恥ずかしがってそんなことはできませんでしたが、私は歌うことが好きだし恥しいという気持ちはありませんでした。
インドに到着すると、南インドにある同じラトウ僧院に一時期お世話になりました。
4年間そこで勉強したのち95年にダラムサラへやってきて、現在はここ、ルンタレストランで料理人として働いています。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)