チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2008年9月9日
故タクツェル・リンポチェ 2004年のインタビューから
以下Web-Tabに興味深い記事が載っていました。
コピペします。
ダライ・ラマ14世の長兄、故タクツェル・リンポチェ氏死去
-2004年インタビュー 2008-09-09 12:00:05
http://www.web-tab.jp/article/4190
【シカゴ 9月7日 IANS】ダライ・ラマ14世の長兄、タクツェル・リンポチェ氏(本名トゥプテン・ジグメ・ノルブ)が5日、米国で他界した―同氏は2004年のインタビューで「チベットの地位に交渉の余地はなく、チベットはチベットだ」と述べている。
米国にある自宅で5日に息を引き取ったと報じられたリンポチェ氏は、生涯の多くを海外で過ごした。1926年、当時4歳の時にダライ・ラマ13世からタクツェル・リンポチェの生まれ変わりとして認められたが、1950年代以降はチベットを離れ米国を拠点にチベットの独立を訴え続けた。
以下は2004年、インディアナ州ブルーミントンで行われたリンポチェ氏へのインタビューからの一部抜粋。質問者は、1997年にダライ・ラマ14世から伝記の執筆を認められたジャーナリストのMayank Chhaya氏。
Q:(Mayank Chhaya氏)ダライ・ラマ14世を失脚させたあかつきには、あなたをチベット(自治区)の指導者にするという提案が中国側からあったと言われていますが。
A:(タクツェル・リンポチェ氏)ええ、多くの人がわたしを訪ねてきて、そのようなことを話していました。その度にわたしたちは習慣から着ている物まですべてについて批判されました。僧服に使われる布はもったいないとか、上着とズボンを着るようになどと言われました。
Q:ダライ・ラマ失脚に関して、殺害さえ持ちかけられたと聞きましたが?
A:ええ、本当です。彼らはチベット的なものはすべて破壊すると話していました。宗教をはじめ、文化や習慣などすべてです。(ダライ・ラマ14世が)協力しないようであれば、殺してしまえと。
Q:そのことをダライ・ラマ14世に伝えたと言われていますが。
A:はい。とても落ち着いた様子でわたしの言葉に耳を傾けてくださいました。目の前の“悪”を振り払うかのように手を左右に振り、わたしに立ち上がるようにとおっしゃいました。そのときの目は、わたしを心配しておられるように見えました。その直後、わたしはチベットを後にしました。
Q:ダライ・ラマ14世は自分が生きている間に問題は解決すると思っているようですが、あなたはどうお考えですか?
A:現時点では何も答えられません。
Q:この問題について、インドはどのような立場を取るべきでしょうか?
A:チベット亡命政府を承認することがとても大切です。そこからすべては変わるでしょう。
Q:米国は?
A:米国には何もできないでしょう。お金にしか興味がありませんから。
Q:中国に望むことは?
A:チベットの人々の望みに耳を傾けること。チベットの人々は中国に出て行ってほしいと口にすべきです。
Q:ラサを訪問したいですか(帰りたいですか)?
A:いいえ。1980年にラサへ行きましたが、今では後悔しています。中国当局から常に監視されますし、人々が悲しむ姿は見るに堪えない光景です。わたしだって人間です、あまりにもつらすぎます。
Q:ダライ・ラマ14世とはどのようなことを話されるのですか?
A:チベットの地位に交渉の余地はなく、チベットはチベットだということです。
Q:兄弟であるあなたから見たダライ・ラマ14世とは?
A:自己中心的な考えは少しも持ち合わせていません。誰でも平等に扱う人物です。口で言うことはたやすいですが、実行となると、なかなかできることではありません。人類は皆平等だということを分かってはいますが、わたしにはそれを実行することができません。
Q:ダライ・ラマ14世は最後のダライ・ラマとなるのでしょうか?
A:そんなことにはならないでしょう。すべてはチベットのこれからにかかってきます。チベットとチベット人が存在し続ける限り、ダライ・ラマも消えることはありません。
(c)IANS/Mayank Chhaya
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)