チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2008年8月7日

五輪の囚人

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日本の松原仁議員が昨日ダラムサラでダライラマ法王と会談されました。
松原議員は「いかなる形であっても、政府による自由と人権の抑圧は非難されるべきだ」と述べた、そうです。

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サンフランシスコの中国領事館によじ登っていたチベット人の女性一人が屋上から二階のベランダに向け6mほど落下。
救急車で病院に運ばれた。容態は不明。
この日はおよそ20人ほどのチベット人が中国領事館に侵入しフリーチベット旗等を掲げていたという。
ロープが切られて落下したのか、単なる事故なのかを警察は調べているという。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=22287&article=Woman+Falls+From+SF+Chinese+Consulate

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以下少し古い記事ですが、珍しい朝日の記事を友人のI氏が教えてくださったので転載します。

「五輪の囚人」 中国活動家、人権訴え「国家転覆扇動罪」
http://www2.asahi.com/olympic2008/column/TKY200804280272.html

2008年4月28日

ロシア国境に近い黒竜江省チャムスは「中国で最も早く日が昇る都市」として知られる。ここで生まれ育った元工場労働者が3月、「国家の転覆を扇動した」として懲役5年の判決を受けた。

 楊春林氏(52)。アルミ工場を20年前に解雇され、浴場であかすりの仕事をするなどして生計を立てた。妻(55)は心臓病を患う。長男(17)は専門学校で日本語を学ぶ。

 05年12月。医療過誤を訴えた親族と病院側との交渉に立ち会い、「保安員」と称する二十数人の男に暴力をふるわれた。母親(79)は肋骨(ろっこつ)を折られた。警察は黙殺。楊氏は地元や北京の政府機関に陳情したが、相手にされなかった。この事件をきっかけに法律を独学する。

 チャムスから約200キロ離れた農村では、開発のため耕地を奪われた農民が地元政府に抗議を繰り返していた。楊氏は零下30度まで冷え込む冬場も徒歩で出向き、農民を法律面で支援した。

 そんな楊氏が昨春、「要人権、不要奥運(五輪より人権を)」というスローガンで署名活動を始めた。北京五輪に巨費を投じるより人権状況を改善してほしい。訴えがインターネットで広がり、署名は1万人を突破。楊氏は一躍、著名な活動家となった。

 7月。公安局が楊氏を自宅から連行した。それまでに4度、警告されたが、楊氏は聞かなかった。「国家政権転覆扇動」で逮捕されたと家族が聞いたのは、連行から48日後のことだった。

 判決公判。被告席の楊氏は手錠と足かせをはめられ、振り返ることすら許されなかった。有罪に「中国に民主はない」と嘆いた楊氏は退廷時、両手でドアをつかみ、「息子にしっかり勉強するよう伝えてくれ」と叫んだ。傍聴席の長男に気づいていなかった。係官がスタンガンを楊氏に突きつけて言葉をさえぎる。妻子は泣き崩れた。

 弁護士らによると、楊氏は拘置所で何日間もベッドに手足を鎖で縛りつけられたまま食事や排泄(はいせつ)を強いられた。

 「五輪の囚人」

 海外の人権団体は、楊氏をこう呼んでいる。

密室の「公安」尋問3日間

 書店で法律書を物色してから北京市郊外の団地に帰宅した滕彪氏(34)が駐車場に車を止めて歩き出すと、4人の男が寄ってきた。

 3月6日午後8時40分ごろのことだ。4人はつかみかかった。滕氏は抵抗し、言葉にならない叫び声を上げた。それを団地の住民が何人も聞いている。いずれも大柄な4人は滕氏を車の後部座席に押し込むと、頭に黒い布袋をかぶせて車を発進させた。

 以後3日間、カーテンを閉め切った机といすだけの一室で尋問と説得が続いた。夜は簡易ベッドが持ち込まれ、滕氏は監視役のわきで体を休めた。

 「北京五輪、チベット、胡佳については話すな」

 男たちは入れ代わり立ち代わり迫った。「公安」とだけ名乗り、誰も氏名や肩書を明かさなかった。

 滕氏は北京の中国政法大学法学院で講師を務め、弁護士としても各地の活動家を支援してきた。4月に国家政権転覆扇動罪で有罪判決を受けた活動家・胡佳氏(34)が信頼する同い年の友人だ。胡氏はエイズウイルス感染者の権利擁護から人権擁護へと活動の幅を広げたが、自身の言論などが罪に問われた。

 滕氏が密室で尋問されていた3月8日朝。李和平弁護士(37)は自家用車で長男(7)を小学校へ送り届ける途中、後続車に追突された。しかし、現場に来た警察官は「この案件は処理しない」。後続車を運転していたのは、李氏を尾行中の公安当局者だった。警察官と談笑していた。李氏は腰を強打。後部座席の長男にけがはなかったが、ひどくおびえた。

 李和平氏は昨年9月、勤務先の駐車場から男たちに黒い布袋をかぶせられて拉致されたことがある。地下室らしき部屋で男たちは身分も明かさず、「北京はあなたを歓迎していない」と転居を求めた。車に押し込められたときに殴られ、左耳の鼓膜が破れた。ノートパソコンも、携帯電話のメモリーカードも、手帳も奪われた。

「支援」続ける

 共産党独裁政権の弾圧を恐れずに人権や民主、法治、言論や信教の自由などを訴えているのは活動家だけではない。彼らを支援する弁護士も、身の危険にさらされながら闘う。「五輪の囚人」と呼ばれる楊春林氏の代理人を手弁当で務める李方平弁護士(33)も、その一人だ。

 彼の「顧客」に、人口抑制の「一人っ子政策」が強制中絶を助長していると批判した盲目の活動家、陳光誠氏(36)がいる。法律を独学し、強制中絶の被害者の法律相談を受けた。06年8月、交通秩序攪乱(かくらん)罪などで懲役4年3カ月の判決を受け、同年に米タイム誌から「世界を形づくる100人」に選ばれた。07年、アジアのノーベル賞と呼ばれるマグサイサイ賞を授与された。

 陳氏に面会するため李方平氏が同僚の弁護士3人と山東省に出向いた06年12月。長距離バスが目的地に着くと、待ち受けた男たち数人が乗り込んできた。李方平氏は彼らに鉄の棒で頭を殴られ、全治3カ月の重傷を負った。暴漢の逃走後、通報で駆けつけた警察官は事件として受理することを拒んだ。

 それ以前にも2度にわたって公安当局に拘束され、陳氏の弁護をやめるよう説得された。山東省に着いた途端、公安車両で北京に連れ戻されたこともあった。

 それでも活動家の弁護をやめるつもりはない。「法律家としての理念と責任感」からだと李方平氏は言う。「法治は必ず実現されなければならない。人権は必ず保障されなければならない。そのために法律家として貢献できれば本望だ」

 ただ、中国では弁護士が毎年一度、「道徳」や「規律」を守っているかどうかの審査を受け、業務証を更新することが義務づけられている。

 活動家の弁護を引き受ければ当局に目をつけられる。非公認の地下教会のカトリック教徒や中国政府が「邪教」と断じた気功集団・法輪功のメンバー、民主活動家らを支援した高智晟氏(43)は、05年に自身の弁護士事務所が業務停止処分を受けた。

 高氏が06年8月に拘束されると、米国務省は抗議。米議会の上下両院も高氏を支持する決議を採択し、ノーベル平和賞候補に挙げられるなど、国際社会にも広く知られた存在だった。06年12月に国家政権転覆扇動罪で執行猶予付きの有罪判決を受け、昨年9月以降は行方不明だ。

メディア沈黙

 共産党中央宣伝部が統制する報道機関は、こうした事件を報じない。大衆の知らない社会の裏側で弁護士が苦闘する。ただ、中国の弁護士約14万人のうち、危険を顧みず活動家を支えているのは「20人足らず」と李方平氏は語る。

 倪玉蘭氏(48)は、北京五輪施設の建設に伴う住民の強制立ち退きに反対。02年に北京市内で住宅の強制撤去現場をビデオで撮影したことが「公共秩序の阻害」にあたるとして75日間拘束され、弁護士資格を剥奪(はくだつ)された。

 拘束中の暴行で左足に重い障害を負い、松葉づえなしに歩けない。弁護士でなくなってからも地方からの陳情者を支えた。今月15日、再開発のため自宅を取り壊そうとした建設業者に「暴力をふるった」として逮捕され、勾留(こうりゅう)されたままだ。

 地方の政府や裁判所の対応に納得のいかない人々が上級機関に訴える陳情を、中国で「上訪」という。胡錦濤(フー・チン・タオ)国家主席が庶民の声を大切にする「親民政治」を掲げた結果、期待感から北京の中央政府機関には地方からの「上訪人」が長い列を作った。楊春林氏も2年前、その中にいた。

 しかし、そうした陳情の解決率は「0.2%」と、中国社会科学院農村発展研究所の于建ロン(「ロン」は山へんに、つくりが栄の旧漢字)教授は指摘する。

 3月の記者会見で、北京五輪を前に活動家への弾圧が相次いでいると指摘された温家宝(ウェン・チアパオ)首相は「中国は法治国家で、そうした問題は法に従って処理する」と明言した。だが、党の決定がすべてに優先する中国に「法の支配」は確立されていない。

 「人権の尊重と保障」が憲法に盛り込まれたのは04年になってから。それまでは「人民の衣食の問題が先決」(江沢民前国家主席)とされた。しかも、憲法は前文で「中国の各民族の人民」は「党の指導下」にあると定める。

 権力は党に集中する。その幹部に不正がはびこる。メディアは沈黙する。大衆が不満を募らせても、党批判は断罪されかねない。罪に問われた被告を守ろうとすれば、弁護士にも身の危険が迫る。

 これが中国の現実だ。(北京=坂尻信義)

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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