チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2008年7月11日
ソナムの新証言、ラルン・ガル僧院、カンゼ僧院
昨日例の3月14日にラサのデモに参加し、亡命できた唯一の証言者ソナムに詳しい話を再び聞いてみました。
新証言に付いてのみ記します。
まずラモチェ僧院前、この衝突の時、僧侶と老婆が刺し殺されたところを見たと言っています。
「どれぐらい近いところで見たの?」
「5~6mぐらいかな」
「最前列にいたグループに自分も彼らもいた。盾を持った武装警官隊と押し合っていた。彼らは棍棒で殴りかかってきた。自分も随分殴られた。でも怒ってたので痛みは感じなかった。その中で二人は刺された。彼らがいつも持ってるナイフだ。」
「二人が死んだってどうして判るの?」
「その少しあと一旦彼らは引き揚げた」
「その後ラモチェの僧侶たちが倒れた僧侶を僧院の中に運んで行った。もう死んでいた。もう一人の老婆は誰かが死んだと叫んでたが、死体は中国が持って行ってしまった」
これが朝9時ごろ。
それからツクラカンの裏手にあるカチェラカン(モスク)に30~40人といっしょに向かった。
このときの軍隊の発砲で6,7人が倒れるのを見た。
友人のニマが胸に銃弾を浴び死亡した、と以前から言ってる。
「どのくらいの距離からニマは撃たれたの?」
窓の外の水タンクを示して「あの黒いタンクあたりからかな?」
(目測20m)
「撃ってきた奴らはどんな格好してた?盾を持ってた?」
「盾をもった奴らとは全く違う。防弾チョッキを着てて機関銃を持ってるやつらだよ」
「倒れたニマはすぐ死んだの?」
「倒れたのを見てすぐに腕に抱えた。胸から血が溢れ、口からも血を吐いていた。
近くの店から布を取って来て彼の胸に巻き付けた。その時彼は<俺はチベットのために声を上げてこうして撃たれた。だからもう死んでもいい。俺を置いてデモに行け>と言ってた。もう一人の友人のタシといっしょに露地に彼を引きずり入れ、中国軍が去るのを持っていた。路上に倒れ残されたチベット人を集めてトラックに積み込み、去って行った。ニマを脊中にかついで南に下がり広い通り(江蘇路)に向かったでももう担いでるニマは途中で死んだようだった。通りにはすでに沢山の軍隊がいた。チベット人のデモ隊と衝突していた。死んだニマを担いでいたタシは目立ったのですぐに逮捕された。ニマもその時持って行かれた」
そこを逃れて今度はカルマ・ケルサンに通じる路の電信局の近くでまた300~400人のチベット人と武装警官隊が衝突しているところに来た。
相手は撃ってきたそこでは二人倒れたのを見た。
みんなばらばらに散って行った。
もうその日は一日中いたるところでデモがあった。
スローガンを叫び続け、盾で行く手を塞ぐ武装警官には石を投げた。
公安の車はひっくり返して火を点けた。
でも戦車や装甲車と一緒に大勢の銃殺隊が来ると石投げても仕方ない。
みんな撃たれながら逃げるだけだ。
午後になってツクラカンの方に行った。
トムシカンでも大勢といっしょに声を上げた。
ツクラカンの前には二体の死体が並べられでおり、大勢が周りで叫んでいた。
近くで殺されたらしい。
ツクラカンの広場のツクラカン寄りにはチベット人が1000人以上いた。
でも広場の向こう側には数十台の軍隊のトラック、タンク、装甲車が沢山集まっていて、軍隊の数も同じぐらいいただろう」
4時頃には北のチンヤンルー路に行った。チベット人が600~700人ほど集まっていた。
そこにも戦車、装甲車が来て蹴散らされた。発砲もあったが殺されたかどうかは判らない。
それからもいろんなところで同じようなことが繰り返された。
夜9時頃疲れ果てセラ僧院の近くの部屋に帰った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この日だけでラサでは約100人が殺されたと私は思う。
政府は確か80人と言ってたかな?
それにしてもソナム、銃弾がビュービュー頭の上を飛んで行ったり、道に当たってシュルシュルという音がする、と言ってましたが、本当に弾に当たらなくて良かったです。
嘗てソナムは二度逮捕されているの、1988年3月のラサのデモに18歳の時加わり7が月刑務所に居た。この時もひどい拷問を受けたという。
1999年には故郷のカンゼでデモをして4年7か月の刑を受けた。
写真はこのときに銃尻で頭を強く殴られ傷を負った跡。
骨が少し陥没してるようだった。
長い間毛が生えなかったのに最近そこから毛が生え出した、でも白髪ばかりだったそうだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
7月10日付緊急委員会リリース。
Y女史訳
http://www.stoptibetcrisis.net/pr100708.htmlJuly 10, 2008
確認された情報筋によると、四川省カンゼ・チベット自治区セルタ郡にあるラル
ン・ガル僧院に所属する3名の僧侶が、7月8日、成都で逮捕された。彼らの逮捕事由は現在のところ不明。
3名の僧侶の名前は、タプン(別名タシ・プンツォク、44歳)、ガチュン(37歳
)とグダク(年齢不明)で、彼らはセルタ郡ラルン・ガル僧院の僧侶だ
った。情報提供者によると、彼らは様々な学問的才能で僧院に貢献していた。
逮捕された3名のうち、タブンとガチュンは兄弟であり、タプンは2003年にも他
の僧侶2名と共に逮捕されている。タプンとガチュンは、ラルン・ガル僧院の創設者である故ケンポ・ジグメ・プンツォクの甥である。また、グダクの義理姉妹であるジェツンマ・イェシ・ツォモは、亡くなったケンポの姪である。
ガチュンとグダクは、僧院における共同の台所を管理していて、食糧その
他の台所用品を調達するために成都を訪れていた。タブンは運転手として2人に同
行し、研究所が最近購入したばかりの新しいトラックを運転していた。
7月8日の夜、タプンとガチュンはレストランで夕食をとっているところを、私
服を着た当該地域の公安省職員に突然逮捕された。続いて、グダクも3人が泊ま
っていたホテルで逮捕された。彼ら僧侶3名の行方はわかっていない。
ーーーー
カンゼでは、当局がカンゼ僧院の年長の僧侶であるグダップ・プンツォクの地位
を剥奪した。彼は、とりわけチベット全域に抗議運動が広がった後、当局による
チベット人への弾圧が強化されたことにより負傷した数千人および殺された数百
人ものチベット人との連帯を示し、また僧侶達に彼らのために祈りを捧げるよう
訴えており、そのための寄付を募ったり祈りの集会を執り行ううえで、指導的立
場にあった。このため、彼は教師の地位から放逐されたのである。
グダップはまた、中国当局に対して僧院の上に五星紅旗を掲げることに抵抗し、
ダライ・ラマ法王を非難する文書への署名を拒否していた。署名を強制されてい
た期間中、彼は当局に「僧院内にはダライ・ラマ法王を信仰しない僧侶は一名も
いない」と告げていた。さらに、「当局の行動は広く紛争の種をもたらすではあ
ろうし、もし五星紅旗の掲揚やダライ・ラマ法王非難文書への署名を強制すれば
、カンゼのチベット人達は最後の一人に至るまで抵抗するだろう」と、当局に警
告していた。
こうした行動により、グダップは教師としての地位から放逐されたのである。僧
侶長達でさえ、新しい教師がグダップにとって替わるまで、彼が放逐されたこと
を知らなかった。
(以下、いつもの六か条要求)
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)