チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2008年6月15日
3/10のデモに参加し逃げ来った子供たち
3月10日にラサで何があったのか?
昨日私はこの日ラサにいて、かつケンブ(デモ、抗議活動)に自らの参加し、ダラムサラまで逃げて来た、三人の子供に会ってきた。
彼らは今ダラムサラから数時間ところにある、TCVの学校で寄宿舎生活をしながら勉強に励んでいる。
以下本人の希望により仮名とする。
16歳の女の子ガワン、13歳の男の子ソナムそれに9歳の女の子ヤンチェンは同じカム、チャムドの出身だ。みんな親がインドに亡命し、法王に会い、勉強をすようにと送り出した子供たちだ。
三人はラサで出会い、ラサからダラムサラまで逃避行を供にした。
年長のガワンに話を聞いた。
「ネパールの一時収容所にいたときにはオフィスから、外の人にラサのことなど話してはいけないよ、と言われてた。だからネパールでは何も話さなかった。
でもここに来ると、みんなが、話さなければいけない、皆に知ってもらうために話さないといけない、という。」
と言って、恥ずかしさもあるのか始めはあまり話したがらなかった。
こちらにきて間もないからか、長い緊張の日々を経た痕跡が少し感じられる子供だった。
でも話始めると、だんだん大きな目をしっかりこちらに向け一気にしっかり話を聞かせてくれた。
数少ない貴重な証言である。
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ガワンは故郷から三月初めに送りだされ、ラサのラモチェにいる伯父さんのところに身を寄せながら、インド行きを待っていた。
3月10日、彼女は丁度その日、現像した写真を受け取るためにパルコルに行った。
写真を受けっとった後パルコルを廻っていた。
そのうちあたりの人々が騒ぎはじめた、「セラの僧侶二人が<チベット独立>を叫んで、捕まった!殺されるぞ!」
と誰かが叫んでた。
みんながその僧侶が連れて行かれたという派出所に向かった。
みんなが<チベットに独立を!><ダライラマ法王に長寿を!>と叫び始めた。
どんどんチベット人が集まってきた。
ものすごい人がいて、みんなが<チベット独立!(プーランツェン)>と叫んでた。
しばらくすると、30~40台の軍隊のトラックがジョカンの前に現れて、大勢の軍隊がデモ隊に迫ってきた。
小競り合いはあったが、蹴散らされ、徐々にチベット人は減り始めた。
顔が血だらけになった女の人を見た。かなりの人たちが軍隊に殴られていた。
自分たちも2時ぐらいにはラモチェの家に帰った。でもその時にもまだ半分ぐらいのチベット人はそこで叫んでた。
その日も次の日も伯父さんから外に出ないようにと言われたので外のことは全く知らない。
12日の朝国境行きのトラックに乗った。
途中夜に山の中を何時間か歩かされた。
検問を抜けるためだと言われた。
14日、夜国境の手前で下ろされ、山を歩き、川にかけられたロープを伝ってネパール側に渡った。
カトマンドゥの一時収容所に着いた時には安心し嬉しかったという。
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彼女は話終わり、しばらくして、私の目を見ながら「本当にチベットは独立できるのですか?」と聞いてきた。
私は一瞬言葉を失った。
この子は本気に知りたがってる。
何と答えるべきか?
「大丈夫きっと時間がかかるかも知れないけど、自由になる日は来るよ。
本当には中国が変わらないとね。民主主義にならないとね、、、
でもダライラマ法王も世界を回って皆に助けてくれるように訴えてるし、EU アメリカ 日本も応援してる、、、」
とまで言って急に胸がつまってきて声が続かなくなってしまった。
その子の心からの望みに答えられない、、、
「本当はほんとに難しい話なんだよ、、、」とは言えない、、
絶望的状況。
何かを察して彼女も涙ぐんだ。
写真は3月10日に受け取った<ジョカン前に立つガワン>
この子はいったいいつ再びチベットに帰れるのだろう。
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昨日はさらに同じ学校にいる子供たちにも話を聞いた。
その中で、最近U-tubeにも流れた2006年9月、尼僧一人が銃殺されたナンパラ峠事件の当事者6人の子供に会った話を次回お伝えします。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)