チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2008年5月28日
チベット帰還行進これまでか!?独立派台頭?
RFA,Phayul.com等の伝えるところによれば、5月27日午後1:30、Pithoragarh, Uttarakhand State のBerinathにて、今度の行進を組織した、チベットのNGO5団体の代表5人が逮捕された。
罪状はインド刑法151条「公衆の平安を乱すと見なされる5人以上の集会を開いた」だそうだ。
そんな法律インドにも有ったんですね!中国はもしかして2人以上とか?日本は?
これに先立ち一昨日にはダラムサラからずっとこの行進に参加し、一緒に歩き続けた5人の外人が一週間以内の国外退去を命じられた。
外人とはアメリカ3名、ノルウエー1人、ポーランド1人。
24日にはすでに解放されたというが19人逮捕されている。
ここにきて代表の5人が逮捕され、3台の車両も取り押さえられ、行く手は警官隊に阻まれている。
一時は2,300人の警官隊が押し寄せたという。
インド政府はこれ以上、この300人余りのチベット人を先に進めさせる気はないようだ。
チベット人参加者達は今相当興奮している様子なので、何か不測の事態が起こらないよう祈る。
以下このNGO 5団体の名称、団体名、逮捕された代表者とその携帯番号を記す。
1、Tibetan Youth Congress(チベット青年会議Tsewang Rigjin 0091-9805297259
2、Tibetan Woman’s Association(チベット女性協会)B.Tsering 9418792810
3、Gu-Chu-Sum Association(9-10-3元政治犯の会)Ngawang Woebar 9418102483
4、National Democratic Party of Tibet(チベット国民民主党)Chime Youngdung
9418069179
5、Student for Free Tibet(自由チベット学生会 Tenzin Choeying 9816368335
直接話が聞きたい方は電話されるのも良いかも。もっとも今は拘束状態なので、連絡は当然むずかしでしょうが。
ことろでこの5団体のうち法王の唱える<中道路線>を採用するのは2番目の女性協会のみです。
他の4団体は所謂<独立派>に含まれます。
もちろん今の亡命チベット社会には政府外団体としてこの5団体以外にも、マイナーですが他に5団体あります。
しかし、何といってもこの中最大組織のTYCが断然の代表格オピニオンリーダーです。
亡命チベット人13万人の内2万人以上がTYCの会員です。
これは学生がほぼ自動的にこの組織に加わるからです。
3月10日以降じょじょにこの<独立派>への支持が内外のチベット人の間で増しているなと感じるのです。
このことは昨日ノッチンガムでダライラマ法王自身が<懸念>として指摘されたことでもある。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=21396&article=Tibetans+Losing+Faith+in+Talks%2c+says+Dalai+Lama法王は「中国がチベットの未来に対する対話に真剣な態度を示さないならば、対話に進展がない場合には、ますます私はチベット人からの信頼を失うであろう」
「多くのチベット人たちが(平和路線に対し)明らかな不満の兆候を示している。
平和的手段は効を奏しないではないか」というのだ、
「もしもチベット人がこの私の主義を捨てるようなことがあれば私は法王の地位から引退するしかない」と語られた。
この辺の事情をもっと知りたい方は以下の今日付けのジャミヤン ノルブのエッセイとか読まれると良いでしょう。彼は元TYC議長でもありハッサン ツェリン氏とともに所謂<独立派>理論家の中心的存在です。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=21401&article=KARMAPA+AND+THE+CRANES+%e2%80%93+Jamyang+Norbu
例えば、今度の地震についても「中国はこれはチベットから世界の目をそらすのにちょうどよい出来事とばかり、世界中に報道規制を掛け、うまく最後は募金活動にもっていった。チベット人もこれに乗って世界中で中国のために金を集めてやっている。これを見た第三者的知識人のなかには、チベット問題というのも実態は大したことはないのではないか?チベット人は中国人を助けようというのだから、、、と言った意見も出てきてる。少なくとも中国に寄付する前に、まずはビルマに寄付する方が先ではないか?」と言ったところだ。
政府もこのところTYCへの態度を硬化させているようです。
例えば今までTYCにだけ特権的に許されていた、法王がインドに帰還されるときの出迎えに、以後来てはいけないと最近お達しがあったとか。
この事実からも解るように、以前、発足当時においてはTYCとは政府の青年部のようなものだったのです。どちらももちろん<独立派>と言うより<他国に侵略された祖国を取り戻す>ということは、チベット人全員の自明の目的であったのだ。
それが、80年の胡耀邦の「独立以外の話なら何でも話し合おう」という言葉に乗って、「では独立は諦めよう」と結論した(実際にはその数年前から現実路線に入りつつあったのでした)政府と法王こそ、チベットを捨てたと青年部から非難され始めたのだ。
このとき政府と法王に対し明らかな反旗を示したのが、その時TYC議長だったハッサン ツェリン氏だ。
ちなみにこの二人は後に保守派から賞金を懸けられ
さてこれからどうなるのでしょうか?もっと先の話では法王が、、、、の後、武装闘争の可能性はあるのか?
その時は中国の思うつぼか?
そうなった時は、いよいよ<ちべっと>が<チベット>でなくなる時かも?
あくまで昨今のチベットサポーターのいう<ちべっと>がと言う意味です。
私がダラムサラに来た時ハッサンが計画担当者だったこともあり、この二人とは昔から親交が深かった。集まって話がチベットのことになると「今の世の中、人が死ななきゃニュースにならないのだ。チベット人で死ぬ用意のあるものは沢山いるのだ」
とよく言ってました。
それから私があまりに仏教に凝ったので「チベットは仏教に殉教した国となろう」
と信じる彼ら二人には白い目で見られ始めた。
さらに9-10-3(元政治犯の会)と関わり始めたことでなぜかさらに二人とは疎遠になった。
この二人は若き日、ムスタンゲリラに合流するも間もなく強制解散され、不完全燃焼のままここに至っている、とみるのは単純すぎるかな?
それにしても、二人ともこの社会では、頭は飛びぬけて良いし、演説がうまいのだ。
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韓国の<統一日報>の記事に
この胡耀邦の話が載っていました。
胡耀邦があのまま失脚しないで政権に留まっていれば確かにチベットの運命は大きく変わっていたかも知れないと思わせるところは有ります。
以下転載します。
もう読まれた方はパス。
「党幹部はチベットを去れ」 胡耀邦
少数民族問題直視したただ一人の総書記
少数民族政策の過酷な現実に立ち向かった人がいる。胡耀邦だった。
1980年2月、党総書記に就いた胡耀邦は、その3カ月後にはチベットに入った。現地を目の当たりにした彼は、その惨状に呆然としたという。漢族入植政策によるチベット文化の破壊と、チベット人の貧窮する姿が眼前にあった。胡耀邦は、その日夜、宿所の窓からポタラ宮の方を眺め瞑目したという。
1986年2月、貴州省黔西南(けんせいなん)布依族(プイぞく)・苗族(ミャオぞく)自治州を視察した胡耀邦総書記(当時)。写真中央は、胡錦濤現主席=胡耀邦史料情報ネット
「人知れずチベットに謝罪したのでしょう。共産主義者としての矜持がそうさせたのか。胡耀邦自身の良心がそうさせたのか。おそらく両方でしょう」
95年、吉林省で出会ったある放送局の記者が言った。彼女は、「胡耀邦は延辺に対してもそうだった」と語った。
文革のさなか、江青から「民族主義者」と批判され非業の死を遂げた延辺朝鮮族自治州主席・朱徳海にまつわる話だった。文革後、朝鮮族が朱徳海の死を悼み、延辺市内の公園に記念碑を建てたときのことだ。
「文革の嵐はやんでいたというのに、党は記念碑を取り壊しました。朱徳海の名誉を回復したのは胡耀邦でした。今でもはっきりと覚えています。84年5月12日でした。胡耀邦が延辺大学を視察した際、朱徳海記念館を建設せよと吉林省党幹部たちに命じたのです。彼は記念碑が破壊されたことを朝鮮族に謝罪し、現地党幹部らに対しては烈火のごとく怒ったと言います」
チベットに赴いた胡耀邦が5月29日に共産党幹部らを集めて行った演説が残っている。
「我々の党がチベットの人民の期待を裏切ったのだ」と始まるその演説は、並み居る幹部たちを青ざめさせたという。
「チベット人民の生活に明らかな向上が見られないことに、我々は責任を負うべきだ。…まず、自治権の完全な行使が認められるべきだということだ。自治権とは自己決定の権利である。その自治権がなければ、現地の状況に合った政策を実施することはできない。生産工作隊が自己決定の権利を有していることを、我々は今しがた確認したではないか。われわれは皆、自己決定の権利を持っている。われわれは皆、個人的な趣味に耽る権利を有しているのだ」
愕然とうなだれる党幹部たちに、胡耀邦はさらに、「多数の党幹部はチベットから引き上げよ」と促した。
少数民族地域に「自治権の完全なる行使」を認める法は胡耀邦の手によって1984年5月に成立した。胡耀邦が真っ先に打った手は、チベット自治区書記に、チベット系のイ族(涼山彝)伍華精を任命したことだった。伍華精はチベットの宗教と自由を理解し重視した。「ラマ書記」と人々から呼ばれた。
周知のように、胡耀邦は1987年1月、総書記を解任される。政治的致命傷を負ったことの一つに「少数民族政策の誤り」があったとされた。
胡耀邦の失脚でチベットの時間の針は激しく逆回りした。胡耀邦解任に怒る僧侶たちの漢民族支配への抗議行動が波状的に起こる中、伍華精もまた更迭され、替わって書記に就いた胡錦濤が、89年の「ラサ暴動」へと発展する抗議行動を全力で鎮圧し、これを功績として総書記、国家主席の地位へと上りつめていく。
チベットの人々に限らず、多くの少数民族は今も、事あるごとに胡耀邦を親しみと敬愛をこめ思い出す。「彼の言葉と涙にだけはうそはなかった」と。
中国の指導者で少数民族問題を直視したのは胡耀邦をおいてほかにいない。
今も、12億人の漢族の中で、チベットへの同情の声をあげる人はほとんどない。伝えられる限りで言えば、中国政府に抗議を表明したのは評論家の劉暁波や作家の王力ら30人ほどだけだ。
89年のラサ暴動直後にチベットを取材したジャーナリストの竹内正右は次のように書いた。
「ラサの寺院内を手をつないで見学する兵士たちはあの文革下、先輩の兵士たちがチベットの寺院や仏像を破壊したことなど微塵も知らぬ気である。文革後に生まれた若い人民軍兵士たちにとって、このチベットは生まれた時から自分たちのもの、としか映らないのかも知れない」
竹内が毎日新聞(90年6月30日)に寄せたこの短いルポは、おそらくそれまでのどの記事より多くの人の目を惹いた。末文にはこう書かれた。
「民主化運動を担ってきた中国人学生の口からは、チベット独立擁護の積極的な言葉は聴けなかった。中国の矛盾は衝けてもチベット人の痛みは分からない、と言うのだろうか。中国人青年に広い心を期待する私が悠長なのか」
民主化を目指したはずの中国人学生の多くが、チベット騒乱のさなか、「民主化は愛国的行動で、チベット支持は祖国分裂行為」だと叫んだ。このことこそが中国の危機的状況なのかもしれない。問われているのはチベット人の「暴動」ではないことは確かだ。
中国政府はダライ・ラマとの対話に応じるという。北京五輪を無事乗り切るための方便なのか。中国の意図は五輪閉幕後に分かるはずだ。(了)
(編集委員 梁基述)
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)