チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2008年5月19日

続ラサの監獄の地獄絵を伝える貴重な証言

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b2bb67b5.JPG前回の続きです。

昼間のラサは静だ。
しかし、夜11時過ぎてから、翌朝の5,6時までに毎夜千人近いチベット人が逮捕されて行った。

私が閉じ込められていた部屋では4,5日後に2個の蒸しパンと共に湯が配られた

そこで色んな酷い話を聞いた。
多くの者たちが腕や足を骨折したり、銃弾で負傷していたが病院に連れて行かれる者は稀だった。
彼らは私たちと同じように監獄にほっておかれた。
それは本当に恐ろしいことだった。
私は自分が今21世紀に生きていることが信じられなかった。

例えば一人の男の子は、銃弾を4回浴びた。
一つは左背中から胸の前心臓近くに向けて貫通した。
一つは左肘の内側から手首にかけて、
一つは右肩口から下に向けて貫通したと。

(拷問により)ある人はろっ骨を折られた。
ある人は右目を強く殴られ、蒼黒くはれ上がっていた。
歯を折られた者は多い。
これらはほんの数例だ。
その他沢山のおぞましいことが行われていた。

何よりの苦しみは飢餓だった。みんな飢えていた
弱った人はただ倒れる。
同室の男の子が便器の上に倒れた拍子に顎から頬にかけひどく切る怪我をした。

また多くの囚人が精神異常に見舞われる
そうなったものは倒れやすい。
ツェタン出身の一人の男の子は精神異常を起こし心臓が弱っているようだった。
毎日2,3回は倒れる状態だった。しかし、もちろん監獄側はそんなことは気にも掛けなかった。

ラサには19箇所に監獄がある。最大のものはダプチでチュシュルにも一つある。最悪なことは、この場所はゴンザだがここは普段監獄ではないところだということだ。
中国当局は訪問者に空の監獄を見せ、ほら誰も政治犯などいない、というつもりなのだ。
普段鉄道の駅には監獄はない。
しかし当局はそこの大きな建物を監獄として使っている。
ドュロン デチェンとこのゴンザにもチベット人が収監されている。

夜になると大型バスが大勢の軍人と共にやってくる。
毎日そうやって100人から150人の人がドュロンに連れて行かれた。
彼らは「さあ出発だ。お前らは何も悪いことはしてない。今から家に帰れるんだ」
そう言って彼らは他の二か所に送られて行くのだ」
とにかくむちゃくちゃに者のようにトラックに積み上げられ運ばれるのだ

以下のことは自分が見たことでなく友人から聞いた話だが。
ある日ドゥロンから僧侶たい数名が積み上げられどこかに連れて行かれた。
その後彼らは二度と帰って来なかった。
皆は彼らが処刑されたらしいと思った。

監獄で私は65歳という老人に会った。
彼の両脚は砕かれ、立つことができなかった。
彼は実際死にかけていた。
そこで監獄側は彼を人民病院に連れて行った。
そこでは毎日拷問の末にひとり二人と死んでいく。
そこに連れて行かれる者は、銃弾を浴びたか暴行を受けたもので、そこに行った者たちはまず帰ることはない。そこで死ぬ。

病院に(*)出身のある弟と妹が寝ていた。
突然そこに軍人たちが入ってきて二人を高い階の窓から外に投げ落した。
弟はその場で死んだ。
姉の方は死ぬことはなかったが、横たわることができなくなり座った姿勢しか保てなくなったという。
このことを外の者にしゃべったら容赦しないと脅されているという。
これらはほんの数例だ。
こんな話は幾らでもある。

何もしていないチベット人に対してもいろんな尋問がなされる。
彼らにはただ、我々がチベット人であること自体が罪なのだ

他の場所から大量の軍隊がラサに集められた。
一方囚人たちは目立つラサから遠くのどこかい運ばれて行った。
(*)僧院の僧侶たち、多くの友人、親戚が行方不明のままだ。

ラサには軍隊は居ないなどと彼らは言う。しかし大勢の私服警官が常にチベット人の身分証明書をチェックしている。

“監獄には多くのソウトの高校生がいた。その中に17歳の男の子がいたが、彼は3月14日のデモには参加していなかった。
彼は全裸にされ両腕を縛られ、失神するまで引き回された
実に様々な拷問の方法があった。
遂に彼はすべての自分に対する濡れ衣を認めさせられた
こんなことが沢山の人に対して行われ、全くしてもないことを認めるよう拷問されるのだ。

私自身は監獄で死人を見たことはない。
しかし、毎日のように監房からは<誰それが死んだ!>と監囚人に知らせる叫び声が聞こえてきた。

ゴンゼには9棟の獄舎があった。一棟に11部屋づつ、一部屋に20人から30人の囚人がいた。
逮捕され行方も知れないデブン、セラ、ラモチェ、ジョカンの僧侶達を除いて、おそらくそのころ1万人ほどのチベット人がラサで逮捕されていたであろう。

私は4月(*)日に釈放された。

以下は私ではなくY女史が訳してくださいました。

私は解放される前、ラモチェから来た僧侶に会った。
僧侶達のことが非常に心配だ。
兵士達は僧侶達をひどく扱っているようだった。
なぜなら、デジェ〔おそらくデルゲ郡を指す〕から来た僧侶の一人は指が折られていて〔と、完全に曲がった指を示しながら〕片目が完全に盲目になっており、視力が完全に失われていたから。
彼は私達よりひどく殴られていた……本当に、なぜ彼らが僧侶達にあれほど
怖ろしいことをするのか、まったく理解できない

私は同じ監獄で*〔郡〕から来た少年に会った。彼はラサに、ラモチェの近くに住んでいた友達が二人いたが、二人とも銃で撃たれたという。
アニチェンコの近くに病院があるが、一人は尼僧院へ連れていかれて、そこで死んだ。
名前は忘れてしまったが、21歳だった。もう一人は20歳で、彼も撃たれて病院へ運ばれたが、おそらく彼も死んでしまうだろう。
ガングッ通りで撃たれたそうだ。

ラサに近いアニシム出身の*という名前の*歳の少年が監獄にいる。
彼の友人二名も撃たれて死んだ。彼と18歳の兄弟はペンポの出身だ。
ゴンゼの監獄にはペンポの人々が大勢入っている。

昼間はとても静かだ。何もかもが夜に起こる……秘密にされていること全てが。
デブン、セラや駅とは電話連絡が途絶えている。
時に連絡をとれることもあるが、大抵は駅まで連絡することはできない。

私はインドに親戚がいる。見聞きしたことをインターネットで送ろうとして、書いた。
少しだけ書いてワードファイルに保存したが、突然それが無くなったので、
非常に怖ろしく感じている。
だから、電子メールも確認していない。
海外に大勢友人がいて、たくさんメールを送ってくれているが、私はそれを開いていない。
(*)

彼ら(当局)は、表向きは人々がすべてうまくやっているように見せかけている。
が、実際は本当にひどい状態だ。彼らは非常に悪いことをして、私達にこういう
問題を起こすよう強制的に仕向けたのだ

ラモチェの人々は何もしていなかったにも関わらず、数千もの兵士達が僧院やすべての寺院を取り囲み、まるで刑務所のように多くの車両で門を塞いでしまった。
私達はこれ以上耐えられなかった、我慢するべきだったのかもしれないが、もうこれ以上は耐え切れなかった。
人権なんて皆無だ。
実態として文化が虐殺され続けていたこと、それこそが大きな問題だ

けれども小さい問題もある。
たとえばラサで、ベイジン・ルー〔ルーとは中国語の「通り」の意味〕で、またはゲンシュ・ルーで、そういった表通りで商売をしているチベット人が、果たして何人いるだろうか? 
ここはチベットのラサだ、中国ではない。 
なのに、チベット人は生きていてはいけないというのか

中国人は大都市で学んできており、才覚がある。彼らは経験も豊かで、
ビジネスをする十分なお金もある。
けれどもチベット人は村の出身で、農民や遊牧民だ。
お金だってない、どうやってラサで働いていけばいいのか?
必要なことは何なのか? 地元の人々がラサで仕事をすること? それとも
中国人がラサで儲けることか? なぜ中国の警察は、チベット人が通りの片側で
仕事をして、もう片側で中国人が商売する……といったことを許してくれないの
か?
その方が公平ではないか? チベット人にも有能で知的な人は大勢いる、だが彼らには十分なお金がない。
中国人は北京や上海に住んでいるので金を持っている。
でも、こうしたことは、どちらかといえば小さな問題だ。

私は多くを目撃してきたが大丈夫だ、まだ何でもできる。
けれども私は大勢のチベット人を、彼らの生活を、そして中国人の暮らしぶりを見ている
……
これがチベットだ。地元の人々は中国人より優れていてはいけない、とされている
でも、バランスがあっていいはずだ。政府から年金を受け取りながら、
チベット人の悪口を宣伝するような年寄りのチベット人も、中にはいる。
彼らがテレビに出演しているのを見るが、笑うしかない。

欧米にはチベットの人権のために闘ってくれている人々が大勢いる。
そうした人々が闘ってくれているのを、非常にありがたく感じている

私も家でもっと勉強したいのだが、できない。
テレビを見る度に、何もかもが嘘とわかってしまう。
だから心が痛む〔と言って胸を指す〕、とても悪いことだ。
通りを歩いていると、兵士達が私の身分証明書を確認しにやってくる。
彼らは私のカードを見て詰問する、『生年月日は?』 そこでもし何かほんの少
しでも間違えたら、それでお終いだ。
彼らは写真とあなたの顔を見比べる。
ところが中国人であれば〔身分証明書なしで〕パスする、それで許されるのだ。

(*)昔はここが最高の場所だったが、今は刑務所みたいで、まるでラサらしくない。
刑務所では、チベット人の警官に『ここに跪け!』と命令された。私は両手の親指を
背中で結ばれていた。
彼は〔私の前にある椅子に〕座って、その足を私の頭の上に乗せ、私の額を蹴って頭を後ろに押しやり、私の顔を何度も何度も平手で打ち据えた。
この男を見ていて、私はとても悲しかった。彼はチベット人で、今、私は彼を毎
日のように見かける。
〔それ以来〕彼に何度も会っている。
大勢の中国人とチベット人が私の背中に飛びかかり、足蹴にし、頭から打ち据え
た。
私の顔をねじって、私に顔を見られないようにして。けれども、顔を相手に見せ
ながら、そういった悪を為すこと――それこそが最も忌まわしいことだ。

これは一つの経験に過ぎない。
私はそれから多くを学ぶことができた。
刑務所では時々、食べ物を夢想したり、家で作った食べ物を思い出したりした。
母や姉たちの料理を思い出し、その匂いを感じ、そしてその時、私は本当に、家での食事がどんなに美味しいものであるか、深く感謝した。
ふだん私はあれこれすっかり食べてから『あれはそんなにうまくなかった』などと言ったりしていた。
だが今や、とてもとても美味しいものであることが、よくわかった。

これら(投獄されたこと)は人生でも最悪の出来事だったが、そのおかげで私はいかに良い人間であるべきか、学んだと思う。
時々、私の(*)の子供たちがここにいて、宿題をしなかった時などに、彼らをどなったり叩いたりする。
けれども今は、どなろうとすると、時に苦しみを感じる。
私は実に多くを学んだ

チベット人の人口が少ないことが気がかりだ。
今日では大勢が亡くなったり、腕や脚を折られて不具になっている。
とてもよくないことだ。そして大勢の人々が、私と同様に、刑務所に入れられている。
私は刑務所に入れられている人々のことを常に考えてしまう、彼らが置かれている恐ろしい状況について。
ずっと泣き叫び続けている、16歳や17歳ぐらいの若者達――本当に悲しくなる。
手足を折られた人々や銃で撃たれた人々を見てきた――彼らの青ざめた顔を
見ることは、それはそれは悲しいことだ

以上

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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