チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2008年5月4日

無差別発砲に友人倒れた 騒乱ラサ、自由求め脱出

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2008年05月03日22時49分

 【ダラムサラ(インド北部)=武石英史郎】発砲に逃げまどい、血を流して力尽きた友人。命がけでくぐりぬけた検問。3月に起きた中国チベット自治区ラサでのデモに加わり、4月末にチベット亡命政府があるインド・ダラムサラへ逃れて来た最初のチベット人がいる。四川省の遊牧民出身、出稼ぎでラサにいた露天商クンサン・ソナムさん(38)。朝日新聞の取材に当時の様子を語った。
 (写真説明:ラサでの騒乱後、インドへ脱出したクンサン・ソナムさん=ダラムサラの難民センター、武石写す)

 3月10日にラサ郊外の寺院で起きたデモのうわさが広がっていた。14日午前10時ごろ、中心部で約30人がデモを始めていた。ソナムさんも加わり叫んだ。「自由を、権利を、独立を、ダライ・ラマ万歳」。誰かがイスラム教徒の肉店に石を投げた。チベット人が大切にするロバや馬の肉を売る店だったからだ。店主はナイフで抵抗、騒ぎが大きくなった。
 千人近くに膨れ上がっただろうか。治安当局の車をひっくり返して気勢を上げると、遠巻きにしていた警官隊が発砲を始めた。すぐ近くにいた友人が胸を撃たれて倒れた。布を巻いてやり、逃げようとしたが、2~3歩で動けなくなった。混乱の中で友人の消息は分からなくなった。「恐怖というより、怒りと憎しみでいっぱいだった」
 デモは場所を変えて続いた。漢族は逃げ、姿が見えなかった。午後3時ごろ、装甲車が3台来て催涙弾を発射。装甲車から兵士が自動小銃で無差別発砲を始めた。デモ隊は散り散りになった。幌(ほろ)付きの軍用トラックが倒れた人たちを荷台に載せて運び去った。火災による煙が充満する中、兵士の数がどんどん増え、怖くなり住まいへ戻った。午後9時ごろだった。
 ソナムさんは、建設作業員の同郷者6~7人と寺院近くの空き地でテント暮らしをしていた。15日以降、兵士が毎日やって来た。騒乱当時、何をしていたのか、逃げた者はいないか。ソナムさんは自分のことは黙っていた。
 露天商仲間が連行された。ソナムさんもデモに参加して投獄された経験がある。「捕まれば殺される。同じ死ぬなら逃げた方がましだ」。数日後、テントを抜け出した。行商に行こうと取得したパスポートとネパールの査証があった。ネパール国境行き乗り合いタクシーの座席が手に入ったのは3月26日だった。
 検問は10カ所近くあった。乗客はほかに漢族が3人。身分証を盗み見たら、2人はネパール国境へ配属される兵士。恐ろしくなった。ただ、これが検問官の警戒心を緩めたかもしれない。途中の街で食事をとったとき、「ネパールでも騒乱で大変らしい。気をつけなよ」。漢族の言葉に黙ってうなずいた。
 国境には翌朝到着。往来する商人に紛れ込んだが、真新しいパスポートが怪しまれた。尋問は2時間半。「暴動なんてあったんですか」。しらを切り通した。
 ダラムサラへ向かう途中、カトマンズの難民センターから初めて故郷の父に電話した。「脱出した。元気だ」。盗聴のおそれがあり、一言二言だけ。遊牧に出た妻子と話すことはできなかった。
 命がけでつかんだ自由とは何か。ソナムさんは言う。「外出しても、何を叫んでも、殺されないこと」
 亡命政府によると、年間2千人を超えていたチベット難民は中国側の移動制限で激減。騒乱後はソナムさんと学齢期の児童3人だけという。
(朝日新聞5月3日朝刊)
>http://www.asahi.com/international/update/
0503/TKY200805020351.html

以下はうらるんたのコメント。

 「国境警備が厳しくなり、越境亡命者がまったくいなくなってしまった」「カトマンズの難民センターががらがら」……と聞いていた話のはほぼその通りのようです。この人も、たまたまパスポートとネパールビザを取得済みで、もともと予定していた出国だったからなんとか国境を越えられた幸運な方だったのでしょう。記事中も「脱出」とある通り、闇に紛れてヒマラヤを越えたケースではないですもんね。
 ……ところでフルネームも写真もバッチリでてるんだけど、大丈夫!?

___________________________________

私はこんな人がダラムサラに辿り着いていることを今日まで知りませんでした。
特派員失格ですね!でもなぜチベットのメディアが彼のことを未だに発表していないのか?いや、ただ私が見てないだけでしょう。

近いうちに会いに行きます。ネルレンカンにはもう今は誰もいないと思い込み行かなかったから。子供もいるなら会いに行きます。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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