チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2008年4月24日
チベット国旗昔話
左に載せた写真は1988年3月5日ガンデン僧院の僧侶20数人がラサのジョカンの前をチベットの国旗を掲げて行進する様子。
ちょうどモンラムの最中でもあり多くの市民がこのデモに加わり数千人規模のデモとなった。中国側はこれに対し発砲し、多くの死傷者が出た。
詳しくはhttp://www.lung-ta.org/このときチベットの国旗を手作りし掲げて行進したものたちが亡命後9-10-3の会を創始したメインメンバーだった。もっとも彼らの多くはオーストリアやアメリカ、ヨーロッパに政治亡命し今はほとんどダラムサラにはいない。
そこで今もルンタレストランにいて、毎朝おいしいパンを焼き続けるトプチュラにそのころの国旗にまつわる話を聞いてみた。
彼もデモをして逮捕されるまではガンデンの僧侶だった。
93年の春チベット歴1月14日にテンジンという仲間の僧侶と二人だけで大きなチベットの国旗を掲げて始めジョカンに向かって歩き、ジョカンの裏手まで来たところで警官に取り囲まれて逮捕されたという。
この日には外国の使節がラサに来ると聞いていたので、最初はその一団を待っていたが、どの外人がそうなのか分からないまま一時間が過ぎ痺れを切らして走りはじめたという。
ちなみにこのときのチベット国旗は1.5メートルx0.9メートルぐらいの大きさで、両辺りに添え棒を付けて二人で掲げて走ったという。「雪獅子は描いたの?」
「無かったな、、、」
その年の冬、ガンデン僧院のケボチュラ堂の中に仲間が集まって作った大きなチベットの国旗を一か月余りに渡って掲げていたという。
その時国旗の青い部分はインクを使い、黄色い部分は土を使い、赤い部分は自分たちの血を絞って塗りつぶしたという。
「雪獅子2頭は書いたの」と聞くと
「似たようなのは描いたよ。でも前足が下に向いてて、イヌみたいでもあったがね、ハハハ!」
「その後最後には夜中にこっそりガマという自分の出身地までその国旗を持って行って、村で一番大きくて目立つチュテン(仏塔)の先に括りつけて帰ったよ。次の日の朝には取られてたみたいだけどね」
もちろん彼は逮捕された後、毎日ひどい拷問を受けた。背骨が折れたことがある、と言って背中を見せたり、胸に熱湯をかけられた後だと言って胸を見せたり。
「何度も気絶した。でも不思議に水をかけられると意識が戻るもんなのだ。
殴る、蹴る、縛りあげる、手に食い込む手錠をはめられる(これがその跡だよ、とはっきりと痕の残る手首を見せる)電気棒はいつものこと、氷水、熱湯何でもかけられる。生きて帰れるとは思ってなかったよ」
刑期11年が言い渡されていたが、半年後にはすっかり衰弱し、監獄から病院に移された。
「体が良くなればまた監獄に返されると判っていた。そこである日の夜中仲間といっしょに病院を抜け出しそのままヒマラヤを越え亡命したんだよ」
____________________________________
もう一枚の写真は同じく1993年のモンラムの期間中ジョカンの正面に掲げられたチベット国旗。
何と20日ぐらいはそこに有り続けた。
そのころは中国もチベット国旗のことすら知らないことが多かった。
僧侶たちの多くはネパールから入って来る、チベット国旗のバッジを胸に付けてたものだ。
大きな国旗を作るときにもだいたいこの小さなバッジを見て作ることが多かった。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)