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■ロプサン・タシの証言 私は1970年、チベットの首都ラサから時間程離れたロカという村で生まれました。15才のときに再開されたばかりのデプン寺にて出家しました。1987年に捕まるまでの3年間を僧侶として仏法の習得、修業に費やせたことは、自分の人生にとって大変重要な意味を持ちます。振り返ってみると、本当に貴重な時間でした。 両親は農家を営んでいましたが、文化大革命のときに富農という烙印を押されたため、全ての財産、家畜を没収され、一家は村外れの今にも崩れ落ちそうな小さな小屋で暮していました。食べる物にも事欠くありさまだったので、幼いころは常に腹を空かせていました。中国当局が村人にあまり両親とつきあわないようにと命令していたため、家を訪れる客人はほとんどいませんでした。両親は村で行われる批判集会によく呼び出されていたので、夜はほとんど家にいませんでした。身体はそのとき殴られた傷やあざでいっぱいでした。どんなに批判集会に呼び出され、共産主義や革命闘争を支持するように命令されても、それに心から同調するチベット人は誰一人いませんでした。 両親は敬虔な仏教徒で、常に仏への帰依や他者への慈愛、慈悲を忘れない優しい人でした。父は私が刑務所から釈放されるわずか数日前に亡くなりました。今思い出しても胸が詰まります。もちろんこの世は無常で、常に移り変わり行くものであると仏は説いています。そう納得はしても、心の底にぽっかりと穴が空いてしまったような感じがして、寂しくてしかたありません。あと数日、父が生きていてくれさえしたら、再び会うことができたのにと悔やんでも悔やみきれない思いでいっぱいです。 父は学校で教育など受けたことのない人でした。科学や数学も習ったことはありませんでした。心理学や倫理について勉強したこともありません。朴訥な人でした。人間は正直で周りの人と仲良くしなければいけないという信念だけを持っていました。人はまっすぐでなければならないと口癖のように言っていました。 母のことはあまり覚えていません。父が語ってくれた母のイメージだけがおぼろげに私の中に残っています。私がまだ幼いときに亡くなったからです。文化大革命のさなかのことでした。母は何度も批判集会に呼び出され、村の道という道を白い山高帽をかぶって罵声を浴びさせながら行進させられました。殴られ、小突かれ、後ろ手に縛れたまま砂利石の上に跪かされ、ありとあらゆる屈辱を受けました。父ははっきりと言わなかったけれど、母はこうして死んでいったのだと思っています。 父はあまりチベットがどうしてこういう状況になったか直接的には教えてくれませんでした。政治的な話をするとき、父が言い様のない恐怖感におそわれているのがこちらにも伝わってきました。誰もが体がこわばり緊張するのです。人々はものすごい威圧感、恐怖感の下で暮していました。注意深く言葉を選び大人たちが喋るのが子供心にもわかりました。中国が支配を始めた1959年以前がどんな生活だったのか、父は詳しく話してくれはしませんでしたが、それが今よりずっと楽な暮らしであったこと、今がどんなにひどい状況にあるかは、言葉の端々から子供にも容易に理解できました。 16才になると同時に、私は徐々に祖国チベットのことを考えるようになりました。誰が教えてくれたわけではないのですが、チベットはかつて独立国であったと確信していました。書物の紐を解くまでもなく、中国人とチベット人をみていればそれは自ずから理解できたのです。私たちとは全く違う言葉を喋り、習慣や服装まで全く違う。中国とチベットが一つの国であるという主張はどうしても受け入れがたいものだったのです。 1987年、17才になるとよく仲のよい友達と政治の話しをするようになりました。時々話はチベットの独立に及ぶようになりました。私の部屋はいつも誰かしらがいて、話に興じていました。よく先生にもおこられたものです。もちろん、くだらない話もしましたが、話はよく政治的なものになるのでした。よくチベットの独立についても論じあったりもしたのですが、それが行為に直接結びついたりするわけではありませんでした。 その頃よくダライラマ法王のテープを聞いたり、政治の本を読んだりしました。ダライラマのカセットはインドから戻ってきたチベット人からもらったり、外国人からもらったりしました。チベット語を話す外国人は少なく、私たちは寺を訪れた外国人を見ると法王の写真やテープを持っているかと片言の英語で聞いていました。 その年の9月27日、私たちは1959年の蜂起以来、初めての独立要求デモをチベットの首都ラサで決行しました。もちろん、デモをすればどんな目にあうかは十分承知の上でした。でもそれ以外に選択の余地はありませんでした。これ以上、チベットの現状に黙っていることはできなかったのです。中国はチベットに信仰の自由があると宣伝しておきながら、僧侶の数を制限していました。大量の中国人移民がチベットに入ってきており、主要な役職をほとんど握っていました。中国人が経営する食堂、商店が増え始めるに連れ、買い物をするにも中国語が必要となり、チベット人は差別の対象となっていました。 1・チベット全土を平和地帯に変える。 法王がこの和平案を提案すると、中国政府は躍起になってダライラマ批判をはじめました。いわく、『分裂主義者のダライが母国を西欧諸国の資本主義帝国、反中国勢力とぐるになって分裂させようとしている』と。『それはチベット人の意志にも利益にも反した考え方であり、チベット人はそんなものを望んでいないどころか、まっこうから反対している。二度とダライラマ法王下の封建時代に戻りたくはないからである』 ダライラマ法王を信仰していないチベット人などいません。あれほどの時間、あれほどの脅威をもってしても、中国はチベット人から法王への信仰をもぎとることなどできませんでした。私は生まれてからダライラマ法王に一度もお逢いしたことはありませんでしたが、法王への信頼、帰依は固く持っていました。法王がなされることの全ては法王の独善ではなく、チベット人すべてのためと思ってなされているということは自明の事実でした。仏教徒である以上、法王への帰依は否めません。なぜなら、チベットの民を救うために遣わされた観音菩薩の化身、その人なのですから。 独立要求デモを行った結果、たとえ命を失ったとしても悔いはありませんでした。中国のプロパガンダに拮抗するためには、命を掛けても、自分たちの思っていることを主張する必要がありました。我々はダライ・ラマ法王を支持するのであって、中国政府を支持するのではないと声を張り上げなければならないのです。デプン寺に戻ってきた老僧たちから1959年の蜂起以来チベットに何が起きたかを聞いたことがあります。老僧たちはみな刑務所や労働キャンプで何十年もの時を過ごし、生き延びて来た者たちでした。どれほどの命が拷問や銃殺、飢餓によって失われていったかを老僧たちは静かに教えてくれました。デモを行えば、その場で撃ち殺されるか、さもなければ監獄で拷問死するに違いありません。しかしそれであったとしても、私たちはデモを敢行せねばならなかったのです。チベットに生きるチベット人たちもダライ・ラマ法王の和平案を支持していると外に伝えるためにも--。 法王のテープの中でとても強く印象に残っている言葉があります。『チベット人ひとりひとりがそれぞれの責任を果たさなければならない。私は私の責任を果たそう。だが、私一人ではどうにもならないこともある。皆がそれぞれの責任を果たすとき、世の中は変わるであろう。』私はこの言葉を何度も何度も自らに問いかけてみました。どの国に生まれようと、きっと人にはそれぞれ果たさなければならない責任があるでしょう。チベット人としての私の責任とは何か?その答えをめぐって悩み続けました。 長い長い論議の末、親友であるガワン・プルチュンと私の2人で独立要求のデモを行うことに決めました。それぞれが何人かの腹心に声を掛けることで人を集めることにしました。 翌朝7時に寺の門のところに全部で21人が集まり、バス停へと向かいました。ガワン・プルチュンはもし拷問に耐えきれなくなったら、このデモの首謀者は自分だといってくれ、かばうことなんかないと言いました。私も同じことを皆に言いました。拷問に耐えきれなくなったら、まよわず私の名前を言って欲しいと。他にも、何人かが同じことを言いました。早朝でバスが無かったため、2台のトラクターに分乗してラサへと向かいました。トラクターの荷台で、たとえ中国人が手をあげても我々は決してやり返したりしまいと話しました。デモはあくまで非暴力的なものでなければいけない。法王は非暴力を説いています。暴力では勝者をもたらさない。両方が負者なのであると。暴力はさらなる暴力を産み、その結果終りのない苦しみだけが続く。たとえどんなに時間が掛かろうが、非暴力で我々はチベットの自由を勝ち取らねばならないのだと確認しあったのでした。 ラサに着くと、早すぎたためバルコルは人もまばらでした。少し待とうということになって、私たちはお茶を飲むため、食堂に入りました。不思議に怖くはありませんでした。とても落ち着いていました。最後のチベットのバター茶になるかもしれないと、お腹いっぱい悔いの残らぬように味うべきだとふだんより何杯も多めに飲んでしまいました。 11時になるのを待って、バルコルに飛び出すとデモを始めました。ジョカン寺の正面からチベット国旗を高く掲げて、右回りにスローガンを叫びながらバルコルを周りました。「チベットに独立を!ダライラマ法王万歳!中国人は中国へ帰れ!」と叫びながら歩く私たちを、最初人々は呆気にとられて見ていました。バルコルをまわるうちに人垣はどんどん大きくなり、一緒にまわる者もでてきました。たくさんの人が泣いていました。ある老婆は、近づいてくると「お坊さんたち、本当にありがとう。ずっとずっと言いたかったことを言ってくれて」と涙を流しながら手を合わせるのでした。警官がちらほら出てきましたが、逮捕するのでもなく、ただ遠巻きに眺めているだけでした。 バルコルを周まわると今度はチベット自治区役所に向かいました。警官の数が目立ってくるようになりました。区役所の門の前までくると、突然警官たちが私たちに突撃し、あっという間に逮捕され、グツァ拘置所に連行されました。そこでまず身体検査を受けると一人づつ部屋に入れられました。次の日から尋問が始まりました。もちろん殴られましたが、私はそれほどではありませんでした。仲間の二人はひどく殴られたようでした。食事はひどく、一日に二度程床の上に食事が投げ込まれるような有り様でした。私たちがデモをした四日後の10月1日、今度はセラ寺の僧侶たちがデモを行いました。今回は市民も巻き込み、大きなデモになり死亡者も人でました。1人の僧侶と2人の市民が銃で撃たれて即死したのです。市民たちは警察署に連行された僧侶たちをみると、警察署に投石を始め、そして火をつけると僧侶たちを助け出さんと警察署に飛び込んだのです。全ての外国人が国外退去を言い渡され、ラサは外の世界から全く孤立してしまいました。そして4カ月の拘留の後、パンチェン・ラマが仲裁してくれたおかげで私を含めた全員の政治囚が釈放されることになりました。パンチェン・ラマは、翌年の1988年に突然亡くなってしまうのですが、それまでは私たち政治囚のためにできる限りの便宜を図ってくれました。 政治活動を始めて約1年が経った1989年3月5日、突然寺に公安警察がやってきて、私たちは皆逮捕されました。グツァ拘置所に数ヶ月拘留されたあと、懲役6年の判決をを受け、ダプチ刑務所で服役しました。拷問は二度目の逮捕のときの方が激しかったといえます。どんなふうに拷問されたかを一つ一つ語ることはできません。拷問は監獄生活の一部でしたから。めずらしいことではありませんでした。電気棒による電気ショックの拷問も幾度も受けました。そのうち一度は数珠を隠しもっていることが見つかったときでした。あのときは、口に電気棒を押し込まれて、10分くらい電気ショックを受けました。痛いどころではありません。そのまま気を失ってしまいました。そして確か1991年の10月のことだったと思います。独房に入れられた仲間を出してくれるように嘆願したところ、動けなくなるまで殴られたことがあります。そして同じように独房へ約一ヶ月入れられました。窓ひとつない小さな独房で、人がやっと横になれるだけのスペースしかありませんでした。寝具も何ひとつなく、むきだしのコンクリートの上で寒さにひたすら耐え続けたことを昨日のことのように覚えています。。 ロープで天井からつり下げられたまま、何時間も殴られたこともあります。彼らは手に握れるものは何でも使って殴るのでした。棍棒、ロープ、ベルト、鉄のパイプ。気を失う度に頭から水を掛けられました。銃床で目の脇を激しく打ち据えられたこともあります。一月ほど腫れがひかず、目もよく見えませんでした。 私に割り当てられた仕事は、ビニールハウス内での野菜作りでした。日中はどんどん温度があがる上に肥料として人糞を使うので、耐え難い臭いが充満していました。一人一人ノルマがきめられており、それを達成できなければ、拷問を受けたり、刑期が延ばされるのです。夏はあまりの暑さと肥料として使う人糞の臭いと農薬の臭いで貧血を起す者も少なくありませんでした。看守たちはそんなときでも休ませたりはさせず、無理やり叩き起すのが常でした。 仕事の少なくなる冬場には運動と称して、刑務所内をランニングさせられたり、軍隊訓練のようなものをさせられました。直立不動の姿勢で何時間も立たされたり、腕立て伏せや地面を這う練習までさせられました。そういった訓練は労働よりも肉体的にこたえました。夜は学習と称した共産思想を学ぶ集会がありました。自分たちが行った独立要求のデモは誤りであったこと、祖国中国とチベットは昔から一つの国であること、分裂しようという試みは封建主義の支配に戻ること以外の何ものでもないと散々説明されました。解放し、祖国中国への復帰を助けてくれた人民軍と中国政府に感謝しなければならない。ダライラマは何代にも渡って搾取し続けていた分裂主義者であると。テキストは人民日報の記事などが使われ、黙って聞いているだけでは許されず、討論などもしなければなりませんでした。それでも、あんなに学習会に出席させられたにも関わらず、『教化』された者は一人もいませんでした。 6年の懲役を終えて釈放されましたが、寺に戻ることは許されませんでした。しかたなく、ラサで仕事を探してみましたが、店舗を構えるような商店のほとんどは中国人よって経営されており、私を雇ってくれそうなところはまったくありませんでした。もちろん、政府関係の仕事に就くことはできません。私はバルコルに露店を構え、ツァンパ(麦こがし)や小麦粉を売ったりするようになりました。 しばらくすると、インドに行ってダライラマ法王に一目お逢いしたいという思いに駆られるようになりました。出家して以来の夢だったのですが、法王の存在は刑務所の中での唯一の救いでした。痛みや寒さで眠れない夜、重労働の日々の中で、法王だけが心のよりどころでした。一体幾度、法王へ祈ることで乗りきることができたことか。法王に逢いたいという思いは、日増しに強くなり、とうとう2000年の冬にこっそりとラサを脱出し、インドへと向かいました。標高5700メートルの峠を越え、雪に腰まで埋まりながらヒマラヤを歩き、3週間後にネパールの首都カトマンドゥを越えました。刑務所での仲間人も一緒でした。 ダラムサラで初めてお逢いした法王は本当に素晴らしい方でした。私たちは刑務所での様子を伝えようとしたのですが、涙が止まらず、言葉も途切れ途切れになってしまいました。それでも、法王はじっと耳を傾けて下さいました。謁見は二時間にも及びました。 チベットはどうなるのでしょうか。殺されてしまった仲間たち、まだ監獄にいる仲間たちが酬われる日が来るのでしょうか。このまま彼らの存在が闇の中へと消されてしまったら、彼らの痛み、悲しみは一体何のためだったのでしょうか。
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