◆逮捕

 長かった1959年が終わろうとしていました。中国人たちはとうとう1匹の雌ヤクだけを残して、全ての家畜を取り上げてしまいました。私たちは10人家族だったのです。生活はとても苦しくなり、どうしてよいのか皆途方に暮れてしまいました。
 中国人たちは全てのチベット政府が発行した証書を全て提出するようにと言っていましたが、母はどうしても渡すのを嫌がっていました。村の部落内の世帯数が八世帯になるまでは税金や労働を免除することを証明した紙でした。赤い護法尊がかかれたその紙にはダライ・ラマ法王の印判も押されていました。母は宝のように大切にしていましたが、保管に頭を痛めていました。「法王さまの印が押された大変ありがたいものをどうして中国人たちに渡せるだろうか。どうせ手荒く扱うに違いない。けれども、隠し通せるとは思えないし、誰かに預ても迷惑が掛かるだろうし」ある日親戚の人達が集まって証書をどうするかを話していました。母は「私としては法王さまのものだからぜひとも保管したいのだけれども。でも仕方ありません。みなさんの決めたことに従いますから、良いようにしてください」と言いました。私は母たちの話しを聞きながら、自分の逮捕が近いだろうと覚悟していました。中国は渡すようにと再三催促していたし、私の逮捕の口実になると思っていたからです。私は首から珊瑚とメノウの首飾りを外すと母に上げました。「私はもうすぐ逮捕されるだろうから、お母さんが持っていて下さい。いつか役に立つことがあると思って隠していました。困ったときに使って下さい」
 間もなく中国人たちがやって来ました。「早く証書を出せ。そんなに拒むのならばこっちにもやり方というものがある」中国人たちはそう言うと家の中を滅茶苦茶にひっくり返しました。そして家のほとんどの家具、食器類を没収してしまいました。中国人たちはベッドの下に隠して置いた鎌を見つけるとものすごい剣幕で怒鳴り立てました。
「これは一体どうしたのか!」遊牧民の人から預かったものだったのですが、一番年少の弟ツォニが立ち上がると「私が隠しました」と言いました。私は即座に弟をかばって「いや、隠したのは私です。弟ではありません」と言いました。中国人たちは「どうして黙っていたのか」と詰めよりました。私は「山へ薪をとりに行くときに見つけて持っていました。つい報告を忘れていました」と答えました。「だいたいお前たちのようにバターや肉を食っているものは贅沢者の証拠だ。証書も渡さず、党に反抗している。刑務所に入れるしかないようだな」2人ともすぐに逮捕され、柱に縛られました。やがて仕事から戻って来た弟たち、イシェ・サムテンとニマ・ダクパも捕まりました。家には年老いた両親と姉の幼い子供、尼僧たちだけが残されました。

 私たち兄弟が入れられたのは、村のリンチェンダク寺の御堂でした。僧侶は全くいなくなり、刑務所として使われていました。160人ほどの囚人がいました。ラサから姉も連れて来られて入れられていました。囚人同士での会話は固く禁じられ、少しでも話すと殴られるありさまでした。水と一握りのツァンパが一日二度与えられるだけで、絶え間無い空腹感に苛まれました。まるで餓鬼になったようでした。しばらくするとみな目が窪み、肋骨が浮き出し腹だけが突き出て来ました。仏画にある六道輪廻の餓鬼の絵とそっくりでした。年老いたもの、体の弱っていたものは次々と餓死していきました。無残にも高僧もたくさん死にました。ゲレク・ケルサン、イシェ・ドンデン、シェラプ・ドンデン、ガワン・ラブテン、みな僧侶だったものです。ラディン寺の高僧ツェンデン・リンポチェも死にました。徳の高い僧侶としてみなに尊敬を受けて止まなかった高僧でした。夜中にみなで土に埋葬しました。囚人の半分近くが餓死したのではないでしょうか。ある夜、隣のベッドから寝言が聞こえて来たことをよく今でも思い出します。「三宝よ。どうか私の運命をはっきりとお定め下さい。このままでは耐えていくには辛すぎます。ダライ・ラマ法王よ。どうか助けてください。」
 

 私はポタラ宮での僧侶生活のことを思い出していました。長い勤行にときには必ず退屈して運ばれてくるバター茶を横目で見ながら「ああ、こんなにたくさんのお茶なんかいらないから、外に行きたい。外でのんびり寝転がったりしたいな」と思っていました。勤行の際に配られるお布施のツァンパも少しも嬉しくはありませんでした。今こんなに喉の乾きと空腹感を味わわなければならないとは、その時の業罰が下ったに違いないと思わずにはいられませんでした。そして若い頃の我がままをひどく後悔したのでした。
 私たちには厳しい労働が与えられました。不毛の大地を畑にするために耕し、トイレから糞尿を汲みだし、肥料として畑に蒔かねばなりませんでした。汲みだしの仕事は僧侶だった者の仕事でした。「今まで農民を搾取し、非生産的な事をやり続けていた報いだ。よく味わうがよい。今まで何もせずにぬくぬくとうまいものだけを食べてきた罰だ」私たちは素手でトイレを掃除し、汲み出さねばなりませんでした。僧院にあった仏画で袋を作り、それを用いてトイレと畑の往復をせねばなりませんでした。尋問の際には激しく殴られ、罵られました。「どうして我が共産党と偉大な舵取り毛沢東首席に刃向かったのだ」彼らが言うことはいつも同じでした。私はいつも黙って耐えていました。
 

 1960年10月のある日、セラ僧院の僧侶であったロプサン・トップデンと俗人のタシ・プンツォ、クンガーの三人が死刑を宣告され、大衆の集まる広場の前で殺されました。彼らは紙に赤いインクで掛れたものをぶらさげていました。私は銃声を刑務所の中で聞きました。突然の銃声に私たちは一瞬身を固くし、不安と緊張感で皆青ざめました。その夜、どんなに待っても彼らは戻って来ず、空のベッドだけがありました。中国人たちは「いつまでも刃向かう者は死刑にするぞ」と脅していましたが、みなそれが本当のことだと思い知らされました。次の日、中国人たちがやって来ると「この中にまだ死刑になるべき者がいるはずだ。一人一人いままでやったことを話せ。黙っているとそのものから死刑にするぞ。お前は何をしたか言ってみろ」
と一番年下の弟ツォニを指差しました。弟はただ震えているばかりで、一言も発することが出来ずにいました。冷や汗がしたたり落ちていました。
 「お前を今すぐ殺すかといえば殺さない。しかし死刑にするかといったら死刑にするぞ。まあ、そんなに恐れるな。本当に恐れなければならないときはお前が死刑場に連れて行かれた時だ。党に逆らったらどんなことになるかよく心して置け」
 みな中国人が本当に平気で囚人たちを死刑にするということがわかり怖くなりました。
 

◆18年の懲役

 1961年四月のある日、囚人たちはみな外に出され、整列させられました。中国人たちは椅子に座り一人一人の刑期を言い渡しました。私には政府への反逆罪として18年の懲役とシャモ6年が言い渡されました。シャモとは市民権等の権利が剥奪され、自由に移動することも働くことも出来ないことをいいます。わずかな給料がもらえ、部屋に鍵が掛けられていないというだけで、囚人とほとんど変わり無い状況に置かれるのでした。姉には10年の懲役と10年のシャモ。すぐ下の弟イシェ・サムテンには10年の懲役。次の弟ニマ・ダクパには8年の懲役、シャモ1年。一番下の弟ツォニには私と同じ18年の懲役とシャモ6年がそれぞれ言い渡されました。
 刑期が言い渡されると、私たちはラサの北、セラ僧院とデプン僧院の間に位置するバリリトゥ寺に移されました。そこもやはり刑務所に使われていました。その刑務所には100人程の囚人がいました。私たちは昔僧侶たちが集まる場所として使っていた広いお堂に押し込められました。以前ならば仏像が安置され、沢山の灯明が灯され、仏画が壁中に掛けてあったはずのそのお堂は、今はただ広いだけの倉庫のようなところになっていました。姉たち女性は上の階へ、また60才以上の年寄りも別の部屋に分けられました。姉は私たち弟のことを気づかい、本当にわずかな量のツァンパしか配分されないというのに、毎日のツァンパの中から半分を私たち弟たちのために取っておいてくれて、それを私たちに順番に分けてくれました。
 

 ラサに移されてから間もなくして父が亡くなったという知らせが入って来ました。財産を奪われ、6人の子供全てが刑務所に入れられてしまい、長い刑期を受けたということは耐え難いことだったに違いありません。私たちの刑期が決まると同時に寝付いてしまい、回復することなくそのまま亡くなったと聞きました。無口な父で愚痴をこぼしたりしたことは一度もありませんでした。心の奥ではどんなにか辛かったことでしょうか。私は父の死や18年という途方もなく長い刑期を思い意気消沈してしてしまいました。あんなに仏教が栄えいたチベットはいつの間にか破壊されてしまい、後は中国人の蹂躙の欲しいままになってしまいました。経を唱え、仏を供養して来た僧院はすべて刑務所と化してしましました。母はどのようにして暮らしているのでしょうか。どうしてこんな地獄のような生活の中を生きていけるのでしょうか。私は絶望感で起き上がる気力もなくしていました。栄養失調のため目もよく見えなくなっていました。だが、なんとか生きながらえれば再びダライ・ラマ法王にお会いできる日が来るかも知れない、それだけがこんな状況での生きる希望となりました。法王のことを思えば心が奮い立ちました。ダライ・ラマ法王に再びお会い出来る日まで、その日までなんとかして生き延びよう。そう決めたのでした。
 ラサでも畑仕事をさせられました。絶え間無い空腹感に苛まれ、毎日やっとの思いで働いていました。労働は過酷で倒れる者も続出しました。このままではみな死んでしまう、そう危惧した私たちは次の日の食事の配給の際に量を増やしてもらうように訴えようということになりました。その役は私が引き受けることにしました。中国人たちの冷ややかな反応は予測出来ましたが、何も言わないよりもましだろうと思っていました。次の日、いつものように一握りのツァンパと一杯の茶が配られようとしていました。私は「このままでは飢え死にしてしまいます。どうかもっとツァンパを下さい」と中国人の配給係りに訴えました。配給係りはちらっと私を見ると「上の者に伝えよう」とだけ言いました。
 まもなく私は別室に呼ばれました。「他の者はみな満足しているのに、どうしてお前だけが腹が減るのか」中国人たちは顔に怒りを浮かべていました。「いや皆同じように飢えているのです。このままではみな働けなくなってしまいます」「本当ならば党に報告せねばならない」「本当に飢えているのです。これは皆からの希望なのです」中国人たちは鼻でせせら笑うと「いや、お前だけだろう。お前は昔僧侶だったからだな。あんなにいい食事をしていれば何を食べても満足はできまい。狼が草を食べても腹一杯にならないのと一緒だ。他の者はお腹一杯になっているというのに、お前だけがならないのだ」と言いました。そして私の手足を縛ると押し倒し、何度も足蹴にしたのです。激しい痛みに気を失いそうになりまましたが、その度に立たせられ「共産党に逆らいません」と言わなければなりませんでした。手枷、足枷は2ヵ月もの間外されませんでした。隣のベッドにいたジャンペル・ウーセルがトイレの時や食事の時に手伝ってくれました。手足がままならない状態でも畑仕事はしなければなりませんでした。それでも私はまだ良い方でした。経を唱えた、ダライ・ラマ法王を信仰している、党に逆らったといった理由で何人もが死刑になったからです。
 

 約1年後、私たち兄弟はイシェ・サムテンを除いて再びペンポへ戻されました。イシェ・サムテンはコンポ地方へと移されました。コンポはあまり人の住まない森林地帯でした。そこに送られた者は開墾や伐採の仕事をせねばならず、飢えと激しい労働のため多くの死者が出ると聞いていました。弟も1年を経ずして餓死してしまいました。
 ペンポではゲトゥ僧院が刑務所代わりに使われていました。100人の囚人がいました。やはり畑仕事をしなければならず、食事の量も増えたりはしませんでした。
 

◆文化大革命

 1964年文化大革命が起こりました。最初に中国で始まった文化大革命の波はすぐにチベットに押し寄せ、わずかに残っていた寺、仏像をことごとく破壊してしまいました。中国人たちは批判集会を連日のように開き、ヒステリックに叫びまくりました。
「四つの悪い習慣をなくせ。古い思想、文化、習慣、風俗をなくせ。仏教の在家修行者の着る赤い服、僧衣にすべて火をつけろ。香を焚くな。仏壇、仏像はもってのほかだ。お経は全て火に燃やせ。寺の飾りも仏像も全部叩き壊せ。仏教などは信じるに値しない。来世、前世の話しなどは言語道断だ。業果としての地獄の話し、極楽の話も決してしてはならない。首飾り、トルコ石、珊瑚などの贅沢品を捨てよ。古い習慣である木のおわん、茶をつくるドンモ、ポットを壊せ。髪の長い者は切れ。僧侶の丸頭もいけない。尊敬語を使うな。我々は皆平等である。正月や昔ながらの祝日を祝うな。今からそんなものはないのだ。古い習慣、風俗は全てやめるように。文字は全て中国語のみだ」
 ペンポには大きな仏像が三つありましたが、全て民衆の手で壊さなければなりませんでした。私たち囚人も駆り出され、怒鳴りまくる中国人の命令するがままに仏像を叩き壊さねばなりませんでした。経典の入ったマニコロ、護法尊、供養塔、長い時を掛けてチベット人たちが築き上げて来た大切なものが一瞬にうちに見るも無残な瓦礫の山に変わってしまいました。私はチベットの守護神パルデン・ラモの仏像を壊さねばなりませんでした。恐ろしさで一杯で、心の中で経を唱えながらパルデン・ラモに謝り続けていました。中国人たちは寺からお金やバターを奪いました。刑務所に使っていなかった寺は壊されるか、さもなくば家畜小屋や肥料置き場にされました。こうしてペンポにあった寺も仏像も消えてしまいました。それから僧侶だった者に対する批判集会が始まりました。思い出すにも辛い、悲しい光景でした。人間に対する思い付く限りの屈辱と拷問が連日行われました。本当に恐ろしい、おぞましい日々でした。縛り上げられ、殴られ、蹴られ、糾弾を受けた者はいつも血だらけでした。ある者は目をくりぬかれ、ある者は舌を引き抜かれました。そうやってリンチにあい、一晩中木につり下げられました。批判集会の最中であまりの拷問に狂う者もいました。私も二度糾弾されました。ツェリン・ペンジョルが糾弾されたとき「ああ頼むから殺して欲しい。苦しい」と頼みました。中国人たちは「まあそうあせるな。ゆっくり殺すから」と笑っていました。
 親友のロプサン・ゲンツェンが糾弾されていたことがあります。木から吊り下げられたままひどく殴られていました。中国人たちは「お前はどうしようもなく古い考えの持ち主だな。お前の友達は誰だ。そいつも同じように古い考えに縛られている者だろう。糾弾せねばならぬ」とロプサン・ゲンツェンに何度も尋問しました。どんなことをされても彼は決して答えようとしませんでした。私は「自分です」と叫ぼうと思いましたが、体が震えるばかりでどうしても口に出来ませんでした。ただ立ちすくむばかりでした。今でも心が強く痛む思い出です。
 

 ある日、村から人が訪ねて来て、母が死んだということを知らされました。村からこの刑務所までは同じペンポと言っても山を越えねばならず、半日程掛かりましたが、訃報を伝えにわざわざ来てくれたのでした。母は批判集会の中で死にました。反逆分子の親ということで糾弾を受け、殴り殺されたのです。一番下の弟ツォニはそれを聞くと声を上げて泣き出しました。私は弟を慰めようにも言葉が全く浮かんで来ず、呆然としていました。母は一度だけこの刑務所にいるときに訪ねてきてくれたことがあります。年と心労のため足腰はここ数年の間にめっきり弱くなっていたのに、体の無理を押して逢いに来てくれたのでした。母が最後にこう言っていました。「あと少しの辛抱だよ。ダライ・ラマ法王がもうじき助けて下さる。それまで希望を捨ててはいけない」
 

◆コンポへ

 1964年5月、ペンポから遠く離れた森林地帯コンポ地方に移されました。12台のトラックに250人程の囚人が乗せられ、朝早くペンポを出発しました。姉は残され、男たちだけが移動することになりました。弟たちも一緒でした。トラックには白い垂れ幕が掛かっており、チベット語で毛沢東の言葉が書いてありました。「民衆が立ち上がる」そう読めました。一昼夜過ぎると、コンポ地方に入り、トラックは鬱蒼とした森の中を走るようになりました。昼間でも生い茂る木に遮られて陽が届かず、薄暗く不気味な景色がいつまでも続きました。しばらく進むと煉瓦を作る作業場に着き、そこで食事を取りました。その作業場には200人程の囚人が働いていましたが、私の知り合いの僧侶が何人かいました。経典の先生だったタシ・ゲンツェン師も作業をしていましたが、お互いちらっと目を合わせただけで、話すことはできませんでした。
 

 さらに半日程奥に進み、スムゾン寺に着くと、私たちはお堂の中に入れられました。すべての仏像や仏画は略奪されてしまった後で、空っぽのお堂の床に私たちは寝ました。次の日からは早速労働が課せられました。私たちの仕事は兵舎を作るために切り出した材木を運ぶことでした。伐採地から建設現場までは優に2キロはあり、途中危なげな吊り橋を渡らねばなりませんでした。2人で5、6本の長い材木を担ぎ、肩に食い込む重みに耐えながら、1日に5往復もして、夜はくたくたになって冷たいお堂の床に体を横たえました。水を下の谷まで汲みにいくのも囚人の仕事でした。兵舎ができあがり、兵士の数が増えるとそれだけ私たちの仕事も増えました。台所の水や生活用水はもちろんのこと、兵士や高官たちが体を洗う水まで、遠い谷の下まで汲みに行かなければなりませんでした。辺りは陽を遮るほどの大木が茂る森林地帯で、熊、レパード、ヒョウがいると言われていました。チベットではこのコンポ地方のことを魑魅魍魎が跋扈する不気味な森だと思って恐れていました。ここに送られるというのは人里から遠く離れた辺鄙な山奥に打ち捨てられたも同然でした。夜更けになるとどこからか獣の吠える声が聞こえて来て、みんなを震え上がらせました。
 毎夜のように共産思想の学習会が開かれ、毛沢東や党がいかに偉大であるか、勤労の大切さ、いかに労働すべきか等を夜遅くまで聞かされました。居眠りでもしようならば、次の日の批判集会での格好の的になるので、みんな身動きひとつせずに冷たい床に座っていました。
 兵舎を造るための木材を運び終えると、今度は土地の開墾の仕事をせねばなりませんでした。木を伐採し、根本を掘り出し、土地をならすのです。木を切るのは初めての経験で本当に骨が折れました。ある程度までノコギリを引き、後はロープを巻き付けて5、6人で引っ張って木を切り倒しました。両手は豆がつぶれ、足腰を痛めながらも一日の決められた本数をこなすために、みんな必死で働いていました。乏しい食事と重労働のため、半分気を失ったようにしてただ作業をしていました。逃げ遅れて、倒れてくる木の下敷きになったものも少なくはありません。若い者たちは木を切り倒し、根元を掘り上げ、老人たちはその後を鍬で耕してならし、1年近くが経つと木一つない広い畑が出来ていました。監視に追い立てられながらただ体を動かし続けた日々でした。皆痩せこけ、目が窪み、まるで餓鬼のような様相で作業をしていました。人間らしい思考力は皆無になり、激痛が走ったときだけふと我に返りました。長い労働から解放され、道具を片付けて帰路に着くと体中の節々に鋭い痛みを覚えました。私たちに与えられる食事は、一杯のお茶と一握りのツァンパだけしかなく、到底空腹と疲れを癒すのに足りる量ではありませんでした。
 

 作業期間中は近くにテントを張って寝ていましたが、ある寒い夜、デプン寺の高僧がテントの脇に置いてあったトイレ用のバケツを持って、辺りを憚ったのか、少し先の茂みの方へと用を足しに行こうとしていました。中国人の監視がそれを見咎めると、棍棒で高僧を叩きのめしたのです。そして服をはぎ取ると寒空の下に立って置くようにと命令したのでした。2月の凍えるような夜のことでした。悲鳴に目が覚めたツェダン寺の僧院長ジャンパ・テンジンは、毛布をそっと彼の方に投げましたが、運悪く監視に見つかってしまいました。ジャンパ・テンジン師も殴られた上、服をはぎ取られ、朝まで外に立っていなければなりませんでした。そして翌朝は早速、批判集会が開かれて、二人が対象になったのでした。私たちは二人の高僧が批判されるのをいたたまれない思いで見ていました。
 

 1年が過ぎ、春が来ると私たちは再び移動させられることになりました。事故や餓死のため、250人程いた囚人は半数近くに減っていました。行き先を告げられないまま、私たちはトラックに乗せられたため、さらに奥地へと行くのではないかと不安で一杯でした。けれども、車がUターンし、下り始めたのを知ると皆安堵感で胸を撫でおろしました。ここ以上にひどい所には行かないとわかったからです。半日程走るとぐるりを竹の柵に囲まれたたくさんのテントが見えてきました。コンポ地方ネェティという場所でした。そこで1983年に釈放されるまでの17年間を過ごしたのです。
 そこには七百人ほどの囚人がいました。囚人は六つのグループに年齢や健康状態によって分けられており、それぞれ建設現場での仕事、畑仕事、水路工事、木の伐採などの仕事が割り当てられていました。私は最初建設作業、木の伐採などのグループに入れられ、七十五年からは台所での調理の仕事をしました。テントの中には溢れるほどの囚人がいましたが、それも徐々に減っていきました。釈放されていったわけではありません。死んでいったのです。私の隣に寝ていたセラ寺の僧侶も亡くなりました。息を引き取る前に彼は私にこう言いました。
「今世ではもうダライラマ法王に御逢いすることはもう叶わないだろう。せめて来世で再び逢えるようにどうか一緒に祈ってはくれないか」
私は彼の手を握ったまま、何度も何度もうなずきました。胸がきつく締めつけられて泣き叫びたいほどの思いで胸は一杯でしたが、私は小さな声で静かに彼の耳元に短い祈祷を唱えました。翌朝、彼は冷たくなっていました。この刑務所で実に300人近くの人が亡くなりました。
 
 

◆毛沢東語録

 一日は朝の集会で始まりました。テントから出て点呼を掛け合い、朝食を摂ると広場に集合して所長の話を聞かねばなりません。そして毛沢東語録や毛沢東賛歌「東方紅」を大きな声で唱え終わると、一列になり兵士に連れられて作業場へと向かいました。仕事へ取り掛かる前にも毛沢東語録、食事の前にも毛沢東語録、何かする前にはおきまりのように唱えなければなりませんでした。
「毛沢東首席に従わないものは我々の敵である」
そう嫌になるほど言われ続けていました。建設現場では石を砕いては、ロバのように背中に石を乗せて運び、畑仕事では地の上を這いずり回り、そうして夜は共産主義の勉強会が行われました。日中の作業でくたくたに疲れている上に、様々な質問に答えたり、たくさんのスローガンを暗唱してみせなければならず、大変苦痛な長く感じられる時間でした。スローガンはチベット語に訳されたものもありましたが、大抵は中国語でした。
「我々の秘められた力を信じよう。民衆こそが国の担い手」
「我々労働者の導き手、偉大なる舵取り、輝ける指導者毛沢東首席」
「人民の力を見よ。真なる力は人民にある」
「過ちを犯した者を打ちのめせ。党に従わない者を打ちのめせ」
上手く暗唱できないものは、必ず次回の批判集会でやり玉に挙げられるのでした。批判集会は週に一度行われ、作業中の態度の良くないもの、不満を漏らしたものなど党に逆らったと見なされた者が対象となるのでした。
 

 ある夜、クンデリン寺の僧侶ウーセル・ダクパは台所の隅にある小さな水路を伝わって脱出し、私たちに希望を与えましたが、一週間後には見つけ出されて捕まってしまいました。すぐに例のごとく集会が開かれ、拷問により傷だらけになったウーセル・ダクパが皆の前に引きずりだされました。すぐには彼だとわからない程、顔は腫れ上がっていました。ウーセル・ダクパは60近い年寄りで、どうしても死ぬ前にダライラマ法王に逢いたくてインドまで行くつもりだったのです。
 「どうしてインドに行こうとしていたのか」所長はウーセル・ダクパに強い口調で詰問しました。
 「ここには食料もなければ、信仰の自由もない。あるのは過酷な強制労働だけだ。インドに辿り着きさえすれば、ダライ・ラマ法王にお逢いすることができる。お逢いしてこの悲惨な状況、皆が味わっている地獄の苦しみを申し上げようと思ったのだ。そうすれば必ずダライ・ラマ法王は助けてくれる」ウーセル・ダクパは決して怯むことなく堂々とした口調で答えました。
 「ダライ・ラマ法王がお前のような者に逢うわけがないではないか。特権階級の者がお前のような薄汚い一労働者に逢って話を聞くとでも思っているのか」「必ず逢って下さるとも。私のような苦しみを味わった者には必ず逢って下さる。法王はそういう御人だ。この世の誰よりも苦しみを私たちは味わっているのだ」中国人たちはウーセル・ダクパを袋だたきにし、起き上がれなくなったのを確認すると、体を引きずり近くの木に紐で結び付けました。3日間そうやって晒し者にされ、暇を持て余す中国人監視たちに散々なぶられた挙句、刑期が延ばされました。
 あれほどの森林がいつの間にか消えてしまい、見晴らしの良い広大な畑になってしまっていました。伐採した木はトラックに満載されて連日のように中国に運ばれて行きました。その数が一日30台を下ることは稀でした。
 

◆ダライラマ法王の兄との再会

 毛沢東が死去しトウ小平が政権に就くと1978年から徐々に変化が見られるようになりました。その年、私と弟ツォニは18年の刑期を終えて釈放されました。けれども自由にどこでも行けたわけではありませんでした。弟は4年と私は6年のシャモの期間があったからです。部屋に鍵が付いていないだけで、囚人の頃とほとんど変わりませんでした。同じように集会には参加せねばならず、労働もしなければなりませんでした。常に監視の下に置かれ、自由に移動することなどは問題外でした。私に与えられた仕事は70頭の豚の飼育でした。豚小屋の脇の小さな部屋が私の部屋でした。毎朝、豚を外に出して小屋を掃除し、ツァンパを炒ったときに出来る籾殻に残飯を混ぜて餌を与えました。1月にわずか24元(約260円)の給料を手にすることができましたが、食費を払い石鹸等の日用品を買うと手元には5元も残りませんでした。弟のニマ・ダクパは8年の刑期だったので1968年に釈放されていました。一年間のシャモを経た後ラサへと戻って行きました。
 

 1979年9月、ダライラマ法王の兄ロプサン・サムテン率いる視察団がコンポ地方に来ることを集会で知らされました。私は踊りださんばかりに喜びました。中国とダライラマ法王との対話が進んでいる証拠でした。何の音沙汰もなかった亡命の地インドからの20年ぶりの知らせでした。ロプサン.サムテンとダライラマ法王と一緒にポタラ宮殿で遊んだことが昨日のことのように思い出され、胸が強く締めつけられました。あの頃と今の暮らしの違いは何と大きいことだろう。さぞかし、ロプサン・サムテンはチベットを20年ぶりに見て驚くに違いありません。一目でいいからロプサン・サムテンに逢いたいと思いました。勝手に移動したことが分かったら酷い仕打ちに逢うことは覚悟していました。それでも逢いたくて仕方ありませんでした。私はパルデン・ラモに祈りました。
「今世ではダライラマ法王にもう逢えないかも知れません。どうか、せめて法王の兄ロプサン・サムテンに逢えますように。後の私の身に何が起きても構いません。どうか逢わせて下さい」
 早速、弟ツォニにどんなことがあってもロプサン・サムテンに逢いにいくと打ち明けました。そして当日どこに監視がいるかを調べて教えてくれるように頼みました。弟は喜んで承知してくれました。けれども、せっかく20年ぶりにロプサン・サムテンに逢えるかも知れないというのに、私には今着ているボロ服以外何も持っていませんでした。差し上げられるようなものも何も持っていませんでした。近くにリンゴの木がありましたが、中国人たちがいつも全部食べてしまって、私たちが口にするのは稀でした。私は秘かに毎日一個づつもぎ取っては、ロプサン・サムテンに差し上げるために大事に取って置きました。当日、弟の助けを借りて刑務所を脱け出し、まだ真っ暗な中を村の方へと降りて行きました。
 

 村はまだ暗いうちから、ロプサン・サムテン率いる視察団の到着を待つ人が道の両側にぎっしりと並んでいました。村人の話から視察団が昼食を取る予定になっている役所を知るとそこへ向かいました。中国人たちは「ダライラマの兄が来たからと言って決して石などを投げないように」などと言っていました。中国人たちはこの20年に渡る共産党教育が成果を収め、私たちが洗脳されたとでも思っているようでした。共産党員の彼らにチベット人の信仰心が金剛石のように固いということを知る由はありませんでした。
 私は役所の建物へと密かに忍び込むと、トイレの中に隠れて待っていました。昔の楽しかった思い出の一つ一つが克明によみがえって来ました。ロプサン・サムテンは全く屈託のない、よく笑う子供でした。私が怖い先生の真似をして笑わせたものです。3人で追い掛けっこをしたこと、小石を弾く遊びをしたこと、そんなことを思い出しながら、ここ20年もの長い間全く味わうことがなかった心が暖まるような感覚に包まれていました。
 正午近くになると車が入ってくる音が聞こえ、人々の喧騒の声が次第に近づくのが分かりました。無謀なこととはよくわかっていました。殺されるのも覚悟していました。私はトイレから出るとこちらへ歩いて来るロプサン・サムテン目がけて走り込みました。彼は僧服を着ていず、髭をたくわえていましたがすぐに分かりました。幼い頃の面影がそのまま残っていました。私は側まで行くと跪き「ナムギャル寺のジャンパ・プンツォです」と申し上げました。ロプサン・サムテンはすぐに嬉しそうな声を上げました。「私が不徳なばかりにダライ・ラマ法王にお会いすることが出来ずにいますが、皆さん元気でいらっしゃいますか」まわりの中国人が私を追い払おうとしましたが、ロプサン・サムテンはそれを止めて「私たちは兄弟のようにして育ったのだ」と言いました。私がリンゴを差し上げるとロプサン・サムテンは辛そうな顔をしていました。私の服を見てどんな生活をしているのかがわかったのでしょう。ロプサン・サムテンは袂からお金を出して「何かに使ってください」と言って渡そうとしましたが、私はそれを丁重にお断りしました。私たちにそれ以上語りあう時間は全くありませんでした。ロプサン・サムテンは「ぜひ手紙を下さい」と言うと周りの者にせかされてホールの方へと去っていきました。
 

 ロプサン・サムテンと話すことが出来たのはほんの一瞬だけだったけれども、私は十分に満足していました。同時に中国が侵略してくる前の古き良きチベットへの押さえがたい郷愁が、胸に溢れてくるのをどうしようも出来ずにいました。私は刑務所への道をとぼとぼと歩きながら、いろんなことを思い出していました。母のこと、放牧地でヤクたちと過ごした子供時代のこと、ポタラ宮殿、ラサでの祭りの数々、楽しかったことばかりが心に去来し、悲しくなってしまいました。今はダライ・ラマ法王もいなければ、母も、ヤクも無く、中国共産党が来てからというもの何もかもが幻となって消えていってしまいました。私は重苦しい気持ちで豚小屋の隣の小さな私の部屋へと帰り着きました。
 次の日の朝、所長に呼ばれて散々叱りを受けた後、批判集会で自己批判をせねばなりませんでした。
「今までの学習の効果が全くないようだな。再教育の必要がまだまだある。どうも悪しき封建主義の思想から脱けきれないようだ」その年の終わりに全てのシャモが釈放されましたが、私だけは刑務所にそのまま残らなければなりませんでした。
 

◆再び、故郷のペンポへ

 1983年5月、全ての囚人が釈放になりました。多くは1959年からいるものばかりで、すでに20年以上の歳月が過ぎていました。その多くは年を取り、釈放と言われても行くところがありませんでした。両親は死んでしまい、財産も奪われてしまい、残された者たちは耐え難い貧困の中にいるに違いありません。私が帰ったところで食いぶちに困るだけです。所長や役職者たちは「私たちの仕事は終わった。この20年間で十分過ぎるほど発展を助けたからな。チベット解放の任務は成し遂げた」と言って去って行きました。彼らは帰るときにトラック一台分の良質の木材を持ち帰ることを忘れませんでした。
 私はコンポ地方のある村に行ってこまずかいや下男をして暮らしていましたが、1984年の暮れにラサに住む病気の叔母の看病をして欲しいとの連絡が入りました。そして実に久しぶりにラサに戻ったのです。何もかもが変わっていました。皆人民服を着て、スピーカーから耳を割らんばかりに流れ出る共産党のスローガンの中を行き来していました。寺の復興は始まったばかりで、どの寺も共産党員たちが狼藉の限りを尽くした跡を痛々しく留めていました。
 
 叔母が看病の甲斐無く2カ月後に亡くなると、私は故郷ペンポを訪れました。ここがあのペンポなのかと目を疑うほど全く様子が変わっていました。あの森が跡形も無く消えてしまっていました。あんなにたくさんいた鳥たちもほとんど見掛けなくなってしまいました。家には10年の懲役と10年のシャモを生き抜いた姉がいました。大きくなった子供たちが土地を借りて小作をすることでなんとか生活をしていました。家のありさまは、目を覆うようなものでした。馬小屋のようなちいさなボロの小屋で家族がほそぼそと暮らしていたのです。共産党は、チベットに富と発展をもたらしたのではなかったか。いや、共産党は私たちから全てを奪った。父を、母を。そして財産を。2人の弟が餓死した挙句、残った弟たちもラサの食堂で働いたり、掃除夫などをしたりしてなんとか生計を立てているあり様ではないか。
 

◆ラサへ

 生き残った僧侶たちがラサに戻り始め、トウ小平の「開放政策」の下で寺の再建が始まりました。1959年に僧侶だったもので、インドに亡命した者以外に、あの時代刑務所での労働キャンプでの苦しみを味わずに済んだものが一体どれ程いるのでしょうか。ラサに戻って来た僧侶たちは、寺の復興に力を入れ、あの信仰の日々を取り戻すために努力を惜しみませんでした。弟もデプン寺に戻りました。私はセラ寺の裏山の中腹にあるタシチョリ寺に入りました。チベットに少しずつ失われていた信仰が戻って来ました。宗教の自由は完全とは言えませんでしたが、それでも誰にも憚らずにお経を唱えることが出来るということが私は嬉しくてたまりませんでした。どんな目にあっても、どんなに共産党教育を受けても仏への信仰を疑ったことは一度もありませんでした。それどころかますます堅固になって行きました。信仰はあの長い監獄生活を耐えさせてくれました。苦しみや痛みを味あう度に、地獄で苦しみを味わう者たちのことを思いました。この世で同じような目にあっている者たちのことを思いました。生きとし生けるもの、全ての命あるものの苦しみが無くなりますように。そう願わずにはいられません。
 

 1987年9月と10月にデプン寺、セラ寺の若い僧侶たちが続けて独立要求のデモを起こしました。若い世代もチベットのことを忘れてはいないのだ。そう思うと嬉しくて仕方ありませんでした。もちろん彼らは全員逮捕されましたが、その勇気ある行動を讚えずにはいられませんでした。若い人たちもチベットに対する愛国心を失ったわけではない。中国のいかなる画策を持ってもチベット人から独立の思いを完全に奪い去れなかったのです。1988年の大祈祷法会にはデプン寺、セラ寺とともにラサ三大寺に入るガンデン寺の若い僧侶たちが立ち上がるのは間違いないと思いました。だが彼らが先頭に立つとなると重い刑を受けてしまう。私はもう歳だ。刑務所の中で一生を終えようが構わない。彼らの代わりに私がその役を引き受けよう。ダライラマ法王は人それぞれ果たさねばならない責任があると説かれている。若い僧侶たちが、あの中国がラサを牛耳った日から、そして法王がチベットを去った日から、長い沈黙を押し破って自由を求める声をあげたのだ。私も声を上げなければならない。
 次の日、ラサに下りて、知り合いの家に行きました。大祈祷法会にデモをする計画を打ち明けると、彼は驚いて、私を止めようとしました。「そんなことをしたら、また刑務所行きだ。下手をすれば殺される。どんな拷問を受けるかぐらいわかっているだろう。お願いだから、そんなことはしないでくれ」
私は彼の繰り返しの頼みに耳を貸しませんでした。「もしかしたら、ここにも公安がやってくるかもしれない。そしたら、私とは何の関係もないと言って欲しい。そうでなければ、巻き込まれるかもしれないから」私は彼の身だけが心配でした。それだけ言うと、私は足早にタシリョリン寺に戻りました。
 大祈祷法会が始まるまでの間、タシチョリン寺の洞窟の自室の中で、静かに祈祷を続けていました。どうか、私に勇気を下さいますように。デモが成功しますように。堅固な決意と勇気を与えるという密教の行と瞑想も約2カ月に渡って行いました。準備は全て整いました。チベット歴の正月にラサの総本山(ツクラカン)にて10日間に渡って開催される大祈祷法会大祈祷法会の日を待つばかりです。
 
 

◆デモ、再び刑務所へ

 2月、ラサの総本山(ツクラカン)で大祈祷法会が始まりました。タシチョリン寺から降りて、ラサに入るとあふれんばかりの僧侶や市民でジョカン寺のまわりは一杯でした。私は機会を狙っていました。チベットの自由を求める声を上げる機会を。ガンデン寺の僧侶たちが声を上げるならば、この時をおいてほかにはないはずなのに何日経っても何も起きませんでした。やはり私が先頭を切って声をあげるしかないと決意しました。

 3月3日のことです。私は読経の最中に立ち上がると「チベットに自由を!チベットは中国ではない。中国人たちよ。速やかにチベットより去れ!ダライラマ法王万歳!」と叫びました。広場は一瞬水を打ったように静まり、みなが一斉に私の方を見ましたが、後に続いて叫ぶ者は誰もいませんでした。たくさんの中国人兵士が警備をしていましたが、彼らも私を捕まえようとはしませんでした。余生がいくばくも残っていない私にとって再び刑務所に入ることはさほど重大なことではありませんでした。その場で銃弾に倒れても構わないと決心していました。でも、何も起きませんでした。中国人も私を捕まえようとはしませんでした。誰も私の後の続かなかったけれど、私は充足感に満たされていました。ダライラマ法王は人はそれぞれ果たさねばならぬことがあると言っています。少なくとも私は私の責任を果たした。その満足感で私は本当に胸が一杯でした。
 その日の夜、夢を見ました。ポタラ宮の階段のところで法王が微笑みながら手招きをしています。私は法王に誘われるまま、屋上へとあがりました。そして法王はにっこり笑うと、大きな白い美しい布を広げました。そして、私の手を取ってくれたのでした。目が覚めてからも、幸せな思いに包まれていました。今まで犯した罪の数々、法王を批判せねばならなかったこと、仏や三宝を侮辱せねばならなかったことなど、ずっと私の胸に重くのしかかっていた罪の数々が清められ、許されたような気がしました。
 次の日から大祈祷法会には行きませんでした。寺の自室にこもって読経したり、境内を掃除したりして何日かを過ごしました。ところが大祈祷法会の最終日にガンデン寺の僧侶たちが独立要求の声を上げたのです。デモは市民までを巻き込み、大規模なものになったと知ると私は嬉しくてなんだか酬われたような気がしました。中国の制裁はすさまじく、逮捕者が続出し、死者までもがでました。
 

 2日後に寺に警察がやってきました。彼らが瞑想場になっているこの寺まで、のぼってくるのがよくみえました。私は逃げようとは思いませんでした。それまで、いますぐ逃げたほうがいいと言ってくれる人もいましたが、その度に私が捕まらなければ、他の人に迷惑がかかるといってどこにもいきませんでした。覚悟は決まっていました。警察はようやく寺まで崖を上ってくると、私が立ち上がってスローガンを叫んでいる写真をみせ、「これが誰か知っているか。」と聞きました。「私です。」と躊躇なく答えると彼らは面食らったようでしたが、私を縛りあげ、連行しました。部屋の中を捜索しようとしましたが、あいにく私の洞窟のような部屋には、寝所とナベしかありませんでした。
 
 3年の懲役が下され、ラサのシトゥ刑務所に2年、ダプチ刑務所で4カ月、サンイップ刑務所で8カ月を過ごしました。釈放後、ダラムサラに亡命しました。1991年10月のことです。私のような年寄りがダラムサラに行ったとて、亡命政府に迷惑を掛けるばかりで何の役にも立たないと亡命するつもりはなかったのですが、みんなが勧めるのと、やはりどうしてもダライラマ法王に死ぬ前にお逢いしたくてヒマラヤを越えて来ました。ダライラマ法王との再会の日のことを私は死ぬまで忘れないでしょう。謁見は4時間にも及び、幼少の頃に遊んだことから、1988年のデモのことまで、子細に渡って法王と話すことができました。法王は前のようにナムギャル寺で生活できるように工面して下さり、今こうしてカラチャクラ堂の管理人の仕事をしています。私のような年寄りでも多少でも役にたつことができて、こんなに嬉しいことはありません。今は法王のご健康とチベットが再び自由になれる日がくることを祈るばかりです。


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