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■ジャンパ・プンツォの証言
私は、やがて70才にならんとする年寄りで、北インドのダラムサラで亡命生活を送っています。1928年にチベットで生まれ、1991年に亡命するまで、一僧侶として、戦士として、そして牢獄の中の囚人として生きてきました。仏さまが諸行無常を説かれたことは、あなた方もご存じだと思います。私の一生を振り返るにつけても、この世は無常なのだとつくづく思わずにはいられません。高地にしか生息しないヤクの乳から作ったバターに灯された灯りのもとで経典の紐を解き、暗唱に明け暮れた幼い日々。中国共産党軍と戦いながら、剣山に馬を馳せ、岩陰を宿とした日々。牢獄の中でひたすら仏とダライ・ラマ法王に祈ることで耐え続けた日々。私は実に二十六年間もの長い時を牢獄で過ごしました。それは本当に途方もない長い長い時間でした。
今はこうしてダラムサラでナムギャル寺のカーラチャクラ堂(時輪法輪堂)の管理人をしていますが、当時は生きて外に出られるとは夢にも思いませんでした。このカーラチャクラ堂の壁画の中で静かに微笑まれている仏様に灯明や供物を捧げたり、棚や床を拭き上げたりするぐらいしか年とった私に出来ることはないけれども、仏さまやこの色鮮やかな曼陀羅(まんだら)に囲まれて、ただひたすらチベットのために祈り続けています。死んでいった同胞のために、虐げられている同胞のために、そして今この瞬間にも狭い牢獄の中で震え続けている友のために。
中国共産党が侵略して来るまでのチベットは、仏教が栄え、信仰深い人々の暮らす平和な国でした。チベット中にたくさんの寺があり、僧侶が修行をし、人々は寄進や布施をすることを徳を積むことであると見なして仏法を宝物のように大切に守って来ました。けれども、私たちが大切にしていた宝は
粉々に壊されてしまいました。中国共産党は6,000にも及ぶ寺院を破壊し、大量の仏像、仏画を略奪し、多くの尊敬してやまなかった高僧たちを殺してしまったのです。何もかもが中国人のせいで変わってしまいました。人々は滅多に笑わなくなり、厳しい圧政の下で打ちひしがれながら、やっとの思いで生きて来ました。
中国共産党は『チベットを遅れた封建主義から解放し、改革を導入し、人民の地位の向上を図らねばならない。』と言いながら、チベットに侵略して来ましたが、私たちは何も『解放』や『改革』などは必要としていなかったのです。仏への信仰ですら『改革すべき旧き悪習』と見なされてしまい、暮らしは中国の侵略で何もかも変わってしまいました。
◆故郷、フンドゥップの村
私の故郷、フンドゥップという村は、チベットの首都ラサから北へ100キロメートル程離れたペンポ地方にあります。ラサからキチュ河を東へ登り、チベット三大寺の一つであるガンデン僧院の一つ手前から北へ美しい谷合を一日程歩いたところです。村人のほとんどは、半農半牧の暮らしを営み、冬の五ヵ月を除いた一年の大半を放牧地で過ごしていました。
四方を5,000メートル級の山々に囲まれた谷間に村はあり、山から流れ込む清流がいくつもの支流を作り、村の設けられた水車の輪を回し続けていました。西の山上には広い牧草地があり、村人は春と夏の間そこにテントを張って家畜を放牧しました。北側には森林地帯がありたくさんの動物がいました。ジャッカル、レパード、狼、狐、バーラルの群れ、そして森の奥深くには雪男がいると言われてました。バーラルは青みがかった灰色をした羊のような動物で太い角を持っています。三十から四十頭の群れでいつも行動し、夏は村の小高い所にある放牧地まで上がって来ました。夕方、放牧地から戻って来た羊の群れに子供のバーラルが交じっていることがよくありましたが、村人たちは決して捕まえたりせずに、そのままにして置いて、翌朝放牧地へ帰すのが常でした。当時、チベットには家畜を襲うハイエナや狼以外の動物を殺してはいけないという法令があったからです。鳥もたくさんいました。コウノトリ、キジ、小さな青いヒタキ、ヒワ、ツグミ、鷲。それらも狩猟が禁止されていました。人々は自然を大切にして暮らしていました。木の伐採や地下資源の乱用は、ダライ・ラマ五世の時代、十八世紀から厳しく制限されており、人々は忠実にそれを守っていたのです。
村には刺草や乾燥させて焚くと芳しい匂のするパマ、パロという草がたくさん生えていました。母はそれを集めては、毎朝仏への香として焚いていました。私も幼いころ、母と一緒に集めたものです。
私の家からわずかの所に、大量のお湯が湧き出す温泉があり、村人の湯治場として賑わっていました。湯治場から流れ出たお湯は、次に家畜のための温泉として使われる岩場に流れ込み、家畜たちを寒さや病から守りました。村に4ヶ所ほどあった水車は、温泉のお陰で寒い冬も止まらずに済みました。川が凍ることは決してなかったからです。
水車は主に大麦を挽くために使われており、絶ゆまず回る石の挽き臼の軸には、直径50cm、高さ1mの筒がかぶせてあります。赤く塗られ、真言が書かれたその筒中には、軸に幾重にも巻き付けられた経典が入っていました。軸が回ると経典も回る仕掛けになっています。チベットでは、経典を回すと、読経と同じ功徳があると信じられており、同じような仕組の円筒がどの僧院にもあります。人々は僧院に巡礼に行くと、必ず経典の入った円筒を幾度も幾度も回します。そうして、字の読めない者でも読経の功徳を積むことができます。マニコロと呼ばれるその円筒は、大きなもので直径二メートル近くあるものもあり、手に持って回す小さいものまであります。人々は巡礼の時は、その小さなマニコロを片時も手を休めず回し続けるのです。
私は1928年に、長男として生まれました。五つ年が離れた姉がおり、下には四人の弟がいました。父、ケルサンはどちらかというとおとなしく、気が弱いタイプで、三つ年上の母に全く頭が上がりませんでした。父から怒られたり、怒鳴られた記憶は全くありません。いつも黙々と仕事をこなしていた後ろ姿が強い印象として残っています。優しい父でした。母の名前はタシ・ラモといい、それはおおらかな人でした。小さな事に全くこだわらず、どんな苦労も笑って吹き飛ばしていました。子供たちのやんちゃも悪戯も大体は大目に見てくれ、限りない愛情を私たちに注いでくれました。
雪が溶け、一斉に生え始めた芽が淡い緑色で山々を覆い、春の到来を告げると、村人たちは山上の放牧地へと家畜たちを追い立て始めます。ヤク、馬、牛、羊や山羊、長い家畜の列とともに、家族ごと移動するのです。大きく獰猛な牧羊犬も欠かせません。犬たちは、家畜が群れから外れないように駆け回り、家畜を狙うジャッカルに目を光らせるのです。私の家にも三匹の犬がいました。
谷合の村から二時間半程登ったところに、牧草地はありました。冬までの8ヶ月間の雨風を防ぐ家の役目をするのはテントです。ヤクの尾を編んだバは、テントとして最適でした。どんな強い雨も決して漏ることはなく、どんなに冷え込む夜でも暖かさを保ちました。四方に木の杭を立ててテントを吊し、ぐるりには風が入ってこないように土が盛ってありました。中に入れば、ヤクのテントから洩れる陽が注ぎ、村の家に負けないくらい居心地が良いのでした。
テントの大きさは八畳ほどもあり、中心の竃を囲むようにして寝床がありました。もちろん、小さな仏壇があり、お釈迦様の仏画も掛けてありました。片隅には、なみなみとミルクを湛えた大きな桶が二つありました。母は、バター茶作りの天才でした。チベットには、お茶にバターと塩を入れて飲む習慣があります。外国人はあまり好きではないようだけれども、チベット人は皆大好きで日に何度も飲みます。乾燥が激しいチベットでは、バターは重要な油分補給源なのです。バター茶の善し悪しは、バターの質にも関係しますが、作る人の腕にも依ります。まず、ミルクを水で薄め、お茶葉を入れて煮立てます。それから一メートル程の長さの細い筒に移し入れ、バター、塩を加えて、先に円形の板を付けた棒で上下に撹拌するのです。母が作るバターがたっぷり入ったまろやかなお茶はとてもおいしく、大好きでした。お茶を入れる母の傍を一時も離れず、今か今かと待ちわびたことを昨日の事のように思い出します。
山での食事は、ヤク肉やマトンを塩で味付けしたスープがほとんどで、村から持ち運んだツァンパをときどき食していました。ツァンパは挽いた大麦を煎った粉で、団子状に丸めて食べるのです。後はヨーグルト。チベット人なら、誰でもヨーグルトが大好きです。ヨーグルトのお祭りもあります。なぜなら、牝ヤクの乳から作るヨーグルトは、牛のとは比べ物にならないほど濃くおいしいのです。
私の家には、ヤク60頭、山羊と羊が合わせて300匹、馬10頭、牛が20頭いました。私の放牧場での仕事は、ビービーと呼ばれる子供のヤクの世話でした。春は、子供が生まれる時期でもあります。冬の間凍っていた土から一斉に吹き出した柔らかい新芽が覆う山上で、ビービーたちは楽しそうに跳ね回っていました。ビービーに草を食ませたり、遠くに行かないように見張ることを言いつけられていましたが、子供の時分、そんなことはおかまいなしで、よく犬に番をまかせ、ビービーをほったらかしては、柔らかい草が生い茂る山の勾配で草滑りを楽しんだり、ピンクや黄色、紫、色とりどりの野花を摘んだりして遊んだものです。山は子供たちにとって遊びの尽きない宝庫でした。ハーブの匂いが立ちこめる野原を駆け回っては弟たちと取っ組み合いをしたり、洞穴を見つけては探検をし、きれいな石を集めては小さな家を作ったりして遊びました。見渡す限りどこまでもなだらかな山の稜線が続き、高地の強い日差しの下で、日中は目が眩むほどまばゆく感じました。そして、陽が沈む頃は、夕日が真っ赤に山肌を染め上げ、時間とともに赤から紫へ変わっていくのでした。
父と母、そして私たち兄弟が山へ行っている間、村の家には祖父母、祖母の兄弟二人、母の二人の兄、母の妹である二人の尼僧たちが残って畑を見ていました。私の家は、十六人の大家族だったのです。いつも賑やかで笑い声の絶えない家でした。朝晩は仏像の置いてある祈祷室で、尼僧たちが経典を唱える声が聞こえ、老人たちも各々の部屋でお経を読んでいました。家族は皆、他のチベット人同様敬虔で信心深く、いつも近くにあるシェー尼寺に布施をするのを怠りませんでした。近くの寺の僧侶を招いては家で大般若経を読んでもらい、仏への供養もしばしば行いました。
チベット歴4月15日は、仏陀釈迦牟尼の生誕の日であり、悟りを開いた日、涅槃に入った日であると言われてます。サカダワと呼ばれるその日には、村人たちは皆、チベットで最大勢力を誇るゲルク派の祖師ツォンカパが修行したと言われる小さな洞窟へお参りに行きました。高僧による法話もありました。この日は、寺や高僧たちに一年分のツァンパを布施し、放牧に行っていた者も必ず村へと降りてきて、法話を聞いて、ミルクやバターを布施しました。
収穫の時期は、村人総出で仕事をしました。一斉に畑に出て、たわわに実った黄金色の大麦を鎌で刈り取るのです。脱穀にはヤクや牛、ロバを使います。畑の中心に杭を立ててヤクたちを一列に繋ぎ、刈り取った大麦の上を追い立てるのです。それは楽しい光景でした。家畜たちはそれぞれ歩幅が違うため、一番小さなものを内側に繋ぎ、だんだん大きな家畜を順番に並べて、最後はヤクといった具合でした。六、七頭の動物が並んで、ぐるぐると畑の上を廻り、その後ろを人が歌を歌いながら追い立てる様子は、一日中見ていても見飽きませんでした。牛などは下に敷かれた大麦を盗み食いし、口元をもぐもぐさせながら歩くといった有様でした。脱穀が終わると、今度は大麦を何箇所かに集めて山を作り、棒や鋤で大麦を振るい上げると、秋風に軽い穂や籾は飛ばされて行きます。残った大麦をさらにふるいにかけてしまうと収穫の仕事は終わりです。いくつかは、すぐに火で煎られて、今年一番の芳ばしいツァンパとなり、或いは正月のための濁酒、チャンが仕込まれるのでした。
収穫が済んでしまうと、村人たちはご馳走を持ちよって恒例のピクニックを始めます。二、三日続くそのピクニックのときには、歌を歌ったり、酒を飲んだりしながら、一日中話しに興じるのでした。
チベット歴9月22日、仏陀釈迦牟尼の天界降臨の日は冬の訪れを意味します。その日が来る前までに、村人たちは家を石灰で白く塗り直し、家畜が冬を越すための餌を貯蔵しなければなりません。
初雪が降りる頃、放牧地ではテントをたたみ、人々は家畜と共に村へ戻り始めます。冬には、大地は凍り付いて雪の下になり、かわいそうな家畜たちの腹に入るのは少なくなってしまいます。家には乾燥させた牧草が蓄えてありましたが、腹一杯になるには程遠く、家畜は冬の間は痩せて、腹をすかしていなければなりませんでした。私たちは、冬の間は乳搾りをしませんでした。冬の間は外での仕事はほとんどありません。母たちは羊の毛を紡いだり、はたを織ったりして過ごしていました。
私の家は、村の他の家同様、石造りの二階建てでした。一階は、やや低くなっており、台所と食料などの大きな貯蔵庫がありました。二階には、六つの部屋があり、仏像や仏壇がある祈祷室以外は家族の寝室として使われていました。高さ三メートルもある塀が家の周りをぐるっと囲み、中庭に繋がれている家畜たちを泥棒やジャッカルたちから守っていました。畑には、大麦と菜の花、大根、豆、葉野菜等が植えられていました。菜の花からは、油を取り、豆も挽いてツァンパのように食べていました。村では、お金に触る機会は滅多にありませんでした。服は羊毛を紡いで作るか、皮を用いていたし、村に無いお茶や塩などは、ツァンパやバターなどと交換して手に入れてました。電気や自動車といった近代的なものは何一つなかったけれども、皆質素な生活に満足しており、幸せだったと言えます。今日の社会のように、朝から晩まで身を粉にして働くという生活からは程遠い暮らしを営んでおり、全てはゆったりとしたペースで運ばれました。人々は楽しげに歌を歌いながら収穫や馬追いをし、手が空けば、村の寺を幾度となく右饒しました。寺に惜しみなく寄進し、僧侶に尊敬を払い、信仰をとても大事にしていたのです。
◆出家、ラサへ
8才になった年、両親と一緒にラサへ向かいました。両親は、正月にラサ総本山で開かれる大祈祷法会に合わせて巡礼した後、私をセラ僧院にて出家させるつもりでいました。デプン僧院の僧侶である母の弟が、私の後ろ楯をしてくれることになっていました。年が明けたばかりの冷え込んだ冬の早朝、私たちは12頭のヤクを引き連れて、ラサへと出発しました。ヤクの背には、デプン僧院の叔父やセラ僧院に寄進するためのバターやツァンパがどっさり入った袋が積まれており、私もその上にちょこんと乗せられました。すぐ下の6才になったばかりの弟イシェ・サムテンも母に背負われて一緒でした。弟はラサの学校に通うことになっていました。ヤクの背中に揺られながら、私の胸はまだ見ぬラサの街への期待で一杯でした。ラサから来る行商人や、年に数回家を訪れる叔父がラサの街の賑やかな様子をよく聞かせてくれたものです。ダライ・ラマ法王の冬の宮殿である大きなポタラ宮殿。チベットの偉大なる王ソンツェン・ガンポのネパールの妃がもたらしたチベット最古の仏像、釈迦牟尼仏が安置されているジョカン寺。何千もの僧侶を抱えたセラ僧院、デプン僧院。けれども子供にとっては、荘厳な僧院の話しよりも、沢山の商店や露店が並ぶ門前町の話しの方に興味を引かれました。甘いお菓子やパン、干あんずがどっさり積み重ねられている様、インドから運ばれて来たおもちゃの数々、外国製の珍しい品々。人々の往来で賑あう市場を想像するだけで、ラサへの到着が待ち焦がれて仕方無くなるのでした。
私たちは、フンドゥップの村を出てキチュ河にぶつかると、そのまま河沿いをラサへと下っていきました。雪が薄く積もった山間を河に沿って二日程歩き、ガチェン(Ngachen)という最後の峠を越えると、遥か彼方に白く聳え建つポタラ宮殿が見えました。真っ青に澄み渡る空に遠目にもくっきりと浮かび上がったポタラ宮殿が目に飛び込んだ瞬間、私たちは歓声を上げ、大地に平伏して、ポタラ宮に向かって五体投地をしました。ラサに近づくに従って、ポタラ宮殿も一際大きく、高く、私たちに迫って来るように見え、足取りは自然と速まるのでした。
ガチェンラムの道からラサに入り、叔父の家に到着すると私たちは荷物を早々と降ろして早速ラサ見物へと出かけました。街の中心は、ジョカン寺といわれる大きな寺でした。ジョカン寺は、ラサの総本山で、七世期のチベットの偉大なる王ソンチェン・ガンポの王妃がネパールからもたらした釈迦牟尼仏が安置されています。チベットの仏教信仰の中心とも言えるこの寺に、私たちは、まず、この釈迦牟尼仏を参拝しに行きました。溢れんばかりの巡礼者でジョカン寺は一杯で、私はこんなに沢山の人垣は初めてだったので、ほとんど目が回りそうでした。チベットのありとあらゆる地方から来た巡礼者たちは、それぞれ珍しい変わった格好をしていました。腰紐に大きなナイフを差し込み、赤い糸で髪を束ねている東から来た東のカムの男たち。髪に沢山のトルコ石を編込んでいるカムの女たち。細い三つ編みをたくさん垂らし、トルコ石や珊瑚、瑪瑙をつけた東北のアムドの女たち。私も巡礼の列に加わり、父母の真似をして手を合わたり、頭を仏像の台座に付け祈ってみたりしました。
ジョカン寺のすぐ横を巡る右繞道も、たくさんの巡礼者で一杯でした。チベット中から来た巡礼の人並みは、途切れること無く幾度も幾度もジョカン寺を回るのでした。そして、右繞道で店を開く露店の多さ、人の多さ、店頭に並ぶ商品の多さに圧倒され、幼い私はただ目を見張るばかりでした。ロカ地方の羊織物、中国産の絹の反物、仏具、装飾品、薬草等が積み上げられ、商人たちは大きな声で道行く人々を呼び止め、商品をさばいていました。子供が欲しがるようなものもどっさりあり、目移りして仕方ありませんでした。父が私と弟のために氷砂糖をたっぷり買ってくれたことを今でもよく覚えています。
ジョカン寺からポタラ宮殿までは、歩いて二十分ほどです。マルポ丘に建てられたポタラ宮は、全体が一つの山のようで、傍までくるとその大きさと高みに圧倒されてしまいそうでした。十三階の高さを誇る、あのような大きな建築物を見たのは生まれて初めてでした。父の兄がポタラ宮殿の中にあるナムギャル寺にて出家していたので、私たちの案内をしてくれました。息を弾ませてポタラ宮殿への長い階段を登り切ると、そこからはラサの街が一望できました。麓の小さな家が建ち込む、諸官庁があるショル村。左手にはジョカン寺がある中心街の美しく塗られた白い壁の家々が見渡せました。ポタラ宮殿からのラサの景色は、今でも目に焼き付いています。19年もの間、僧侶として住んでいたからです。
私たちが泊まっていた叔父の家は、バナクショーと呼ばれるジョカン寺のすぐ東にありました。叔父は、デプン僧院の僧侶であったけれども、僧院には住まず、ラサで交易を営んでいました。毎年、夏になると北へ出かけては、遊牧民から羊毛を仕入れ、代わりに黒砂糖や茶をさばいていました。叔父は交易で得たお金のほとんどをデプン僧院に寄付していました。叔父は真面目な人で信頼があり、皆にとても好かれていたため、交易は非常にうまくいっていました。
大祈祷法会が終わった後、弟は叔父に家に預られ、私はセラ僧院にて髪を落とし、出家の身となりました。けれども、セラ僧院で出家生活は、子供にとって決して楽しいものではありませんでした。経典を学ぶにはまだ幼すぎた私は、年配の僧侶たちが仏への供養のためにツァンパをこねて作るトルマという円錐状の供物を制作するのを見様見真似で手伝っていました。一週間も経てば、もうトルマ作りにも飽きてしまって、私は家が恋しくて仕方なくなってしまいました。子供のヤクを追って草原を駆け回ったこと、毎朝母が匂の良い草や香木を焚いていたことが思い出され、目の裏にヤクたちや母がちらつくのでした。フンドゥップの田舎の光景がたまらない程懐かしく浮かんできて、「家に帰る」と駄々をこねては回りの僧侶たちを困らせました。
ある日、使いでラサの街のデプン僧院の叔父の家に行くことになりました。叔父の顔を見た途端、私はわっと泣きだして叔父にしがみつき、そのまましゃくり上げてしまいました。
「もう、セラ僧院には戻らない」と言って泣きじゃくる私を叔父は優しくなだめてくれ、セラ僧院には戻らなくてもいいと静かに言いました。夕方、セラ僧院から迎えが来ましたが、叔父が事情を説明してくれ、そのまま叔父の家に居られるように取り計らってくれました。セラ僧院の僧侶が帰った後、叔父は私にこう聞いてきました。
「お前は、経典を勉強したいという思いが少しはあるのか。僧侶が嫌なら止めても構わない。けれども、もし少しでも仏典を学びたいという意志があるのなら、僧衣は脱がない方がいい。今止めてしまうと必ず後悔することになるから」
私はうつむいてしばらく黙っていましたが、決心して顔を上げました。
「お経を勉強します。僧侶が嫌なわけじゃないんだ」
叔父はそれを聞くとにっこりと微笑んで、
「早速、明日からお経の学習を始めようか。セラ僧院には戻りたくないだろうから、この家に先生をセラ僧院から呼ぶことにするか。僧院じゃないからといっても甘くはしないからね。よく勉強するように」と言ってくれました。
叔父は本当に優しい人でした。私が経典を学ぶ機会を失わずに済んだのも、全て叔父のお陰だと思っています。そんなことになっていたら、叔父に言う通り、悔やんでも悔やみ切れなかったでしょうから。
こうして、叔父に家で経典を学ぶ日々が始まりました。週に幾度かわざわざセラ僧院から先生が来てくれ、私に字の読み方から教えてくれました。そのうち短いお経を暗唱するようになりました。ヤクも母も叔父の家には居なかったけれども、私はもう淋しくありませんでした。ラサで学校に通い始めたばかりの弟が一緒だったからです。
叔父は、以前ナムギャル寺の僧侶が街の宿舎に使っていた建物を購入して、自宅にしていました。立派な二階建てで、壁は見事な黄色に塗られていました。叔父と料理人、私と弟の四人には広過ぎる家でした。叔父はとても優しく、親切にしてくれました。決して怒ったりはしませんでしたが、その代わり、私が経を読まず遊んでいると、一言も口をきかなくなるのです。子供心ながら、黙りこくっている叔父には本当に困り果てました。いっそ、叱ってくれた方がどんなに楽だったことか。それでも、一日中勉強しているわけではなく、夕方の決まった時間になると、近所の老人が私をジョカン寺にお参りに連れていってくれました。叔父は私に小銭を持たせるといつも決まってこう言うのでした。「お菓子を買わずに、仏さまにちゃんと差し上げてくるのだよ。後で、仏さまにお尋ねするからね」
幼かった私は本気で信じたものです。ジョカン寺の釈迦牟尼仏の前に行くと、仰々しく小銭を差し上げては、「仏さま、おじさんが来たら、忘れずにお金を差し上げた事をお伝えください」と祈っていました。
叔父は、夏になると交易のために北へ出かけました。その度に私と弟も一緒にフンドゥップの村まで連れていってくれることになっていました。私は、久しぶりに家族に逢えるので、ラサを発つ日をとても楽しみにしていました。叔父は、途中フンドゥップの村に立ち寄ると、私たちを家に帰して、北の遊牧民の地へ赴き、交易を済ました帰りに迎えに立ち寄ってくれていました。久しぶりの母との再会ほど子供にとって嬉しいものはありませんでした。私たちが村に帰ると、母は必ず山の放牧地から村へ帰って来てくれました。私が村にいる夏の間中、居てくれたわけではないけれども、寂しくはありませんでした。私は母と同じくらい祖母のことが大好きだったからです。祖母は村でも評判の信心深い人でした。祖母のあったかい皺だらけの手には、いつも数珠とマニコロが握られていました。マニコロの軸に付いた振り子は、いつも円を描いて祖母の手の中で回り続け、祖母の口から祈りの言葉が跡絶えたことはありませんでした。私が覚えた経を暗唱してみせると、とても喜んで甘い黒砂糖のかたまりを口の中にほおり込んでくれたものです。祖母がくれる黒砂糖のおいしかったこと。「立派なおぼうさんになるんだよ」これが祖母の私に言う口癖でした。
70になろうとする今、祖母のことを思うと、ずっと僧侶の身でいられなかった事が悔やまれます。私には今、僧衣を着る資格はないのです。戦いで中国人を殺したからです。祖国のための戦いとはいえ、殺生は殺生に違いないのですから。
◆ナムギャル寺、ポタラ宮での生活
12歳になった年、ナムギャル寺の僧侶になりたいと思うようになりました。特別の理由があったわけではありません。ラサ近郊の野原でピクニックを楽しむ僧侶たちの様子を見かけたからです。ゲームをしながら笑ったり、友達同士ふざけあっている僧侶たちは、なんだかとても楽しそうでした。私は立ち止まって僧侶たちの様子をしばらく見た後、家に急いで帰ると、叔父にナムギャル寺の僧侶になりたいと打ち明けました。叔父は「そうか、そうか、それは良かった」と喜び、このチャンスを逃してはいけないと思ったのか、すぐにナムギャル寺に掛け合ってくれました。ダライ・ラマ法王直轄のナムギャル寺には、18才以上ではないと入れない事になっていましたが、そこを叔父は「ナムギャル寺の仮面劇には、子供の役が必要だったはずだが、その役にうちの甥を使ってやってくれ」とこじつけて、僧院長に許可を取ってくれました。そして、チベット歴6月16日、ナムギャル寺に入ることになりました。ナムギャル寺の黄色の色が入った真新しい僧衣を一式作ってもらい、それに袖を通すとなんだか偉くなった気がしました。嬉しさで胸を一杯にして、叔父に連れられてポタラ宮殿の長い階段を登って行きました。
ナムギャル寺はポタラ宮殿の中にあります。ポタラ宮殿は単にダライ・ラマ法王の冬の宮殿の役割をするだけではなく、様々な顔を持っていました。政府官庁、集会場、勤行堂、食物の貯蔵庫、武器倉庫、金銀財宝の倉庫、そして百七十人の僧侶を抱えるナムギャル寺。各僧院から優秀な僧侶を集め、政治経済を学ばせる官僚の養成学校。ポタラ宮には迷子になってしまうほどの沢山の部屋があり、千室あると言われていました。ナムギャル寺は、西側の白く塗られた建物の上層部にありました。そこには、僧房、台所、授業や読経のために集まる御堂などがあります。ダライ・ラマ法王の住居は、東側の白宮にありました。歴代のダライ・ラマ法王の霊塔も安置してあり、ソンツエン・ガンポの仏像を始めとして、数多の数の仏像も奉ってありました。優しくしてくれた叔父や弟と離れて暮らさなければならないことはつらかったけれども、直に何ともなくなりました。代わりに私を見てくれることになった父の兄であるナムギャル寺の僧侶も、叔父と同じ様に優しかったからです。伯父、そして私の勉強を見てくれるトプテン・テンダルという四十才くらいの僧侶と私の三人で住むことになる部屋は今までのに比べると小さいものでした。けれども、南に面した陽が一日中よく当たる居心地の良い部屋でした。
◆ダライラマ法王の帰還
ようやく、新しい生活にも慣れ始めた頃、ラサが沸き立つようなニュースが入って来ました。ダライ・ラマ法王の転生者がラサにお戻りになられるというのです。先代法王がお隠れになってからの4年間、人々は法王の転生と発見をひたすら祈り続けていました。誰にとっても心にぽっかりと穴が空いたようで、心もとない淋しい4年間でした。それが、ようやく玉座に戻られるというのです。人々の喜びはひとしおでした。ラサの人々は街や道を掃き清め、北のアムドの寒村に転生した幼い法王のお帰りを、今か今かと首を長くして待ちました。チベット歴の9月5日、ダライ・ラマ法王はラサから5キロほど離れたドゥグタン('dod
gu thang)までいらっしゃり、そこで吉日を待ってラサに入ることになりました。政府の高官、大臣連、ラサ市民たちは、そこへ朝早くからお迎えに上がりました。私も、伯父に連れられてまだ暗いうちにラサを発ってドゥグタンに向かいました。
道を挟んで大臣やナムギャル寺と三大僧院の僧侶たちが立ち並び、政府の役人や市民がそれに続きました。各々手に香や白い絹を持ち、期待と嬉しさで胸を高ならせる人の列はどこまでも長く、はるか遠くまで続いていました。法王の乗った輿が視界に見え始め、だんだん近づいてはっきり見えるようになると、人々の口から歓喜の声や経文が漏れ始めました。僧侶たちは高々に法螺やギャリを吹き鳴らし、シンバルが一斉に鳴らされ、まるで空気が震えるように感じられるほど草原中に響き渡りました。法王の籠の前には、黄色い絹の装束を着た踊り手たちが踊りながら先頭をきって進んできました。踊り手たちは、地面に着くかと思われるほどの金色の刺繍の入った長い袖をまっすぐ左右に伸ばすと、体を傾けて飛び跳ねながらぐるぐると回り踊り、続いてダムネェンという弦楽器に合わせて歌い手たちの歌う長い節が聞こえてきました。法王の乗った輿が目の前を通り、小さな法王の姿を目にした途端、一瞬雷にでも打たれたかのように皆立ちすくみました。年寄りたちは、おいおい泣き出し、手を強く合わせ、腰を低く屈めて体を縮こませ、必死に拝んでいました。中には失神する者もいました。人々のあまりの興奮の様に、私はびっくりしてしまいました。父の兄に促されるまで、われを忘れて呆然と立ちすくんでいたのでした。
ダライ・ラマ法王は、丘に張られた大きなテントの中に入り、人々と逢われ、祝福を与えることになりました。政府の高官と僧侶が謁見を許されていました。私もナムギャル寺の僧侶の列に並んで、静かに順番が来るのを待っていました。法王はラサから運び込まれた玉座の上にお座りになっていました。近づくに従って、その小さな手を人々の頭に置いて、一人一人に祝福を与えているのが見え、自分の順番が待ち遠しく、胸の高なりは押さえられないほどでした。やっと順番が回って来て、法王の柔らかな小さい手が私の頭にそっと置かれた時の感触を今でも覚えています。この方がチベットの王、観音菩薩の化身のダライ・ラマ法王であらせられるのか。近くで初めて謁見できた感激は、12才だった私の胸にもいつまでもいつまでも押し寄せるのでした。法王は、まだわずか4才でいらっしゃいました。
ナムギャル寺の一日は、朝早くから始まります。四時半に起床、五時には皆御堂に集まって読経をしなければなりません。読経は、お茶とツァンパの朝食を挟んで八時半まで続きます。十五分の休憩の後、再び十一時半まで読経。昼食の後は、一時半から三時、四時から五時半の二回の読経があるのでした。それが終わるとようやく部屋に戻れるのですが、ゆっくりする間もなく、今度は同室の僧侶トプテン・テンダル師から経典や声明を習うのでした。僧院では、午後からの食事は戒律で禁じられていたのですが、父の兄は時々パンなどを食べるのを大目に見てくれていました。それでも、遊び盛りの子供にとって僧院生活はつらく、私は何度も黙ってナムギャル寺を飛び出しました。薄暗くなるまで、パルコルの店を覗いて見たり、ジョカン寺の中を巡礼の者の後に着いていってぶらぶらしたりして時間を潰し、夕方になると叔父の家に何食わぬ顔をして帰りました。「今日からお休みなんだ」と言ってみたところで、信じてくれるわけはなく、次の日には叔父に連れられて僧院に戻るはめになるのが常でした。叔父は、いつも私の代わりに僧院長たちに謝ってくれました。同室の父の兄やトプテン・テンダル師に「どうかこの子を怒らないでやって欲しい。罰則としての食事の費用は全部私が払うから」と言って、取りなしてくれました。
許可無しに僧院を出た者は、僧侶全員に食事を振る舞わなければならないという掟があるのです。叔父のお陰で私は決して怒られませんでした。けれども、怒られないのをいいことに、調子に乗った私は監視の目を盗んでは、度々ラサの街へ逃げだしました。一体、幾度叔父が170人もの僧侶の食事の費用を負担せねばならなかったことか。最後には見かねた監視役からひどく叩かれて、ようやく皆を悩ませた逃亡癖が止んだのでした。
1年間、ダライ・ラマ法王はノルブリンカ離宮に滞在された後、ポタラ宮へ住居を移されました。移動の日、ノルブリンカからポタラ宮殿までの道はびっしりと人で埋りました。そしていつ果てるともない兵士、政府の高官、貴族たちの長い行列が続きました。皆それぞれ晴れの日の豪華な衣装を着て、頭には黄色い房がまわりに垂れた丸い帽子をかぶっていました。高官たちは様々な色の絹地に龍や鳳凰といった豪華な刺繍の入ったチュバ(チベットの民族服)を着ており、まばゆいばかりでした。毎年行われた、ノルブリンカ離宮とポタラ宮殿間のダライ・ラマ法王の輿の行列の往復は、ラサの名物でした。
5才にして、法王が他の子供と異なる気品を持つことは誰の目にも明らかでした。お顔立ちからは、知性の聡明さが伺われました。その幼いダライ・ラマ法王と一緒に遊ぶ役目に選ばれたのは、ナムギャル寺で一番幼かった私でした。馬乗りごっこ、おもちゃの兵隊での戦争ごっこ、動物の骨を丸くみがいた玉を指で弾く遊び。法王の3才年上の兄、ロプサン・サムテンも一緒でした。体を激しく動かすような遊び以外は、普通のチベットの子供と同じ様な遊びをして時を過ごしました。けれども、法王の遊びの時間は、厳しく制限されていて、一日の大半は、勉強か修行にあてられていました。他愛無い子供の遊びの中でも、法王の優しさを私は何度も実感しました。一度もかんしゃくを起こしたり、怒ったりしたことはありませんでした。私は、よく馬の役をして法王を背に乗せ、馬の啼き真似をして部屋中を駆け回ったものです。高くいなないては、後ろ足で立ち上がる様をまねると、法王は振り落とされないようにと必死で首にしがみつき、後ろ足で跳ねれば、遊牧民の騎手さながらに法王は重心を取るのでした。そうして、ふざけ合って本当によく笑いました。そして、必ず法王はこう言うのでした。「次は、ぼくが馬になる番だよ。背中に乗って」私の背丈の半分もまだ無いというのに、真顔でおっしゃるのでした。
◆ラサの四季
季節が変わるごとに、祭や法要でラサは溢れんばかりの人で一杯になりました。人々はほがらかで歌うのが大好きで、祭りや祝い事がある時には、歌い踊る人の輪がいくつも出来るのでした。チベット歴の正月は、大変賑やかでした。ナムギャル寺では、元旦の早朝に法要を行います。ダライ・ラマ法王もいらっしゃり、一緒に法要をした後、正月のご馳走が振る舞われます。ヤクの干肉、甘いご飯、豚肉の煮込み、肉饅頭、バター等が配られ、お腹がふくれると、後は自由に外出してもいいことになっていました。私は、ラサの街の叔父の家に行き、元旦を過ごしました。叔父の家では、正月用の小麦粉を揚げたお菓子をたくさん貰えるのが、毎年楽しみでした。
2日には、ダライ・ラマ法王の謁見のために、ラサ中の人々がポタラ宮にやって来ました。政府高官や貴族、地方の高官たちが謁見を済ませると、次はナムギャル寺の僧侶たちの番でした。それから、セラ、デプン僧院、政府の兵士たちが続き、最後にラサ市民たちが謁見をします。僧侶以外は皆、色とりどりの晴れ着を着てポタラ宮に集まるため、大変華やかな雰囲気でした。
5日からは、1年の内で最も盛大な大祈祷法会が始まります。15世紀にツォンカパによって始められたこの法会は、21日間に渡って繰り広げられ、仏法が栄え、国家が安定し、ダライ・ラマ法王が長寿を得られるように祈願するものです。五日の早朝、ギャリと呼ばれるオーボエを先導に、ナムギャル寺の僧侶は一列になって、まだ薄暗い朝靄の中を大祈祷法会が行われるジョカン寺まで歩いて行きます。デプン、セラ、ガンデンのラサ三大寺の僧侶たち、近郊の寺の僧侶たちも集まり、総勢2万5千余の僧侶たちによってジョカン寺は埋め尽くされるのです。小豆色の僧衣を着た溢れんばかりの僧侶たちが集う様子は、息を飲むほど荘厳な感じがしました。法会は朝から夕方まで行われ、終わると僧院ごとの問答大会が開かれました。ゲシェ(善知識)という学位が与えられる問答の試験も行われ、ゲシェの中の最高学位であるラーランパの試験は、ダライ・ラマ法王の御前で行われました。
15日には、染色をしたバターで作ったトルマが、ジョカン寺の正門の前の広場にいくつも置かれました。円錐状をした仏への供物で、様々な装飾が施されていました。花、ヤクや鳳凰などの鳥獣類、吉祥を象徴する紋様。各寺ごとに器用な僧侶たちが腕を振るい、それは見事なトルマが立ち並びました。大きいものは20メートル近くもあるものもあり、日が暮れると夥しい数の灯明で照らし出されました。チベットでは太陰暦を用いているので、15日は満月に当ります。空に満月がぽっかりと浮かび上がると、ダライ・ラマ法王がトルマの鑑賞にジョカン寺より現れました。月夜の下、揺らぐ灯明に映し出された色鮮やかなバターの塔は、きらびやかな宝石のようでもありました。厳かな読経の声とギャリの音が響き渡る中を、法王はいつまでも飽きずにトルマを眺めておられました。
最終日である26日は、彌勒菩薩の勧進が行われます。ジョカン寺から運び出された彌勒菩薩の仏像がパルコル(右繞道)を一周し、再びジョカン寺に戻されると同時に大祈祷法会は終わりを告げます。そして、人々が楽しみにしている一年で最も賑やかなお祭りが始まるのです。歌舞、力比べ、相撲、競馬、マラソン大会、娯楽の少ないチベットではどれも沢山の人垣が出来て、笑い声や野次が盛んに飛び交い、大変な賑いでした。優勝者には賞品が与えられました。競馬は、政府の馬と市民の馬がデプン僧院を出発し、パルコルまで到着する順位を競うもので、これぞという俊馬を持つ者は、馬に自分の名前を書いて出場させました。飼い主たちは、縁起を担ぐために親指で馬の額にバターを塗り、優勝するようにと願を掛けることを忘れませんでした。チベットには、幸運を呼ぶためにバターを塗る習慣が在ります。子供が旅立つ時、額に塗ったり、正月に最初に使う湯飲みの縁に塗ったりするのです。
馬に乗る騎手はいないため、民衆や飼い主が馬を追い立てながら、パルコルへと駆け抜けさせました。砂煙がもうもうと舞い上がり、観衆の中に馬が飛び込んで来たりすれば、大騒ぎとなりました。
27日、正月の行事が全て終わると、ラサに巡礼に来ていた人々は、それぞれの村へ帰る仕度を始めます。この日は、大祈祷法会に合わせて来ていた母も村へ帰る日でした。村からラサまで3日しか掛からないこともあって、母は大祈祷法会に合わせて毎年ラサに巡礼に来ることになっていました。私は、指折り数えて母が来る日を待ち焦がれ、今か今かと首を長くして待っていました。母の顔を久しぶりに見ることのできる時の嬉しさは言いようがありません。1年間の出来事を堰を切ったように母に話し続け、夜遅くなるまで興奮してなかなか寝付けませんでした。本来ならば、大祈祷法会の期間中はラサ市街にあるナムギャル寺の宿舎に泊まることが決められていましたが、特別に母と一緒に叔父の家に泊まることが許されていました。私は母と一緒の床に入り、一年分の空白を埋めるかのように普通の子供に戻って思いっきり甘えていました。当時、ラサには舗装された道はなく、砂利道ばかりでした。石ころを避けて歩く母の足元を見つめながら、その足取り通りに歩いたことを今でもよく思い出します。全ての催し物が終わると、母は私をポタラ宮まで送ってくれました。ポタラ宮は規律が厳しく、一般参賀者が許されている午前中以外は、女性は立ち入り禁止になっていました。母はポタラ宮の手前まで来ると「先生の言うことをよく聞いて、しっかり勉強しなさいね」と言って、私をポタラ宮の方へと促しました。私は唇をぎゅっと噛んで、下を向いたまま何度もうなずくばかりで、もう母の顔を見ることが出来ませんでした。去っていく母の後ろ姿を見送りながら、涙がこぼれて仕方ありませんでした。母が夕暮れのラサの街に消えてしまってから、ようやくポタラ宮へと向きを変え、長い階段をとぼとぼと登っていきました。2、3日は勉強どころではなく、経典を開く気にもなれず、母のことを思い出してばかりいました。
ナムギャル寺では毎月のように密教の神々の法要がありました。美しい砂曼陀羅が作られ、法要は伝統的な儀軌に乗っ取り、厳格に行われました。3月には、密教の中でも最も深遠と言われる時輪タントラの法要が行われました。法要は、早朝から夜9時までに至る、延べ10日間続けられました。ダライ・ラマ法王もいらっしゃり、厳格に全てが執り行われる中、御堂はいつもとは違った雰囲気を醸し出しました。初めて法要に参加したとき、言いようの無い感動に包まれたのを覚えています。天井からは、仏の一生を描いた見事な大仏画が下げられ、東側の壁には白多羅菩薩の仏画、西にはシャンバラ、正面には壁を覆うようにして大きな時輪タントラの仏画が掛けられ、四方のぐるりは、金色の刺繍が施された五色の天幕で囲まれていました。その荘厳さ、立派さに圧倒され、経を読み進むうちに仏教徒としての、僧侶としての強い自覚が生じて来るのでした。やがて読経が佳境に入り、クライマックスを向かえると同時に、私は至福感を味わっていました。密呪を唱える声、御堂中に反響する鈴の音、地鳴りのような法螺の響き。極楽とはこのような所なのかもしれないと思わせるほど、全てが神聖に感じられました。法要が終わって幾日か経っても、なお幸福感は冷めやらず、私はその時本気で仏教を勉強しようと決めたのでした。私の師はよくこう言いました。
「国に仏法が栄える祈願をするお経を勉強しなければ、ろくでなしになるぞ。お経を暗記すれば、後に心の平安を得て暮らせる。けれども、時輪タントラを学ばなければ、結局何も勉強しなかったに等しい」
5月は、野外ピクニックを楽しむ月と言ってよい程、チベット中で人々はご馳走を持ちより、気持ちの良い場所にテントを張って、日がな一日お喋りや宴会に明け暮れます。初夏の日差しの下で、のんびりと過ごすことはチベット人の大のお気に入りの一つでした。ナムギャル寺でも12日間のピクニックがありました。おいしいチーズ、バターのたっぷり入ったお茶、モモと呼ばれるヤク肉入りの餃子、干肉などのご馳走が沢山準備され、キチュ河のほとりに大きなテントを張って、ピクニックを楽しみました。この間は無礼講で、僧侶たちは普段は出来ないスポーツやゲームに興じても、長老たちから叱られずに済みました。15日は、世界の平和を祈る日(ザンブリンティサン)の日です。ラサの人々はポタラ宮の前の野原にテントを張って、道祖神や村の守り神たちに灯明を上げ供養しました。そして、そのまま3、4日ピクニックを楽しむのでした。
6月4日は、釈迦が始めて説法をした日です。ラサ市民たちは、その日修行者のいる洞穴へ行き、ツァンパや茶、バター、マッチなどの必需品や食料を布施します。セラ寺の裏山には、沢山の修行者が人里離れて瞑想していましたが、その日だけは外部者を受け入れることになっていました。
7月には、野外オペラが開かれます。ラモと呼ばれる仮面舞踏がチベットでは大変盛んで、テレビや映画といった娯楽は他になかったため、ラモが行われるときには老若男女が集まりました。演目は、破仏をした事で悪名高いランダルマ王を倒す物語といった歴史ものや、密教行者パドマ・サンバヴァの八変化といった宗教ものが多く演じられました。ノルブリンカで5日間に渡って催される野外オペラに、ラサ市民たちは、お茶を入れたポットと敷物を持参して、朝早くから集まりました。ナムギャル寺の僧侶たちも観劇が許されていたので、私も毎年楽しみにしていました。最終日には、ダライ・ラマ法王もいらっしゃいました。中日には多少だれていた役者たちも、最終日にはここぞとばかりに張り切りました。毎回、昼時には食事が振る舞われ、夕方には大きな耳の形をした小麦粉の揚げ菓子(カプセ)が配られました。役者によってはどっと笑いが巻き起こったり、あるいは退屈して眠りこけてしまったり、知り合いとお喋りに花を咲かせたりと、どちらかと言えば緩慢な劇の間を、人々は自由気ままに過ごしていました。この期間は、役所も閉まり、政府の役人たちも皆こぞってノルブリンカにやって来ました。もちろん、市民たちも仕事を休み、店も閉まっていました。チベット人は誰でもラモが大好きだったからです。
10月24日はゲルク派の祖師ツォンカパの命日です。ラサ中の寺々、家という家の戸口や窓には灯明があげられました。ポタラ宮の部屋の窓からは、何万、何十万というバターランプの灯りで、ラサの街全体がぽおっと明るく照らし出されたように、闇の中から浮き上がって見えました。遠い空の彼方から見れば、きっとチベット中がそうだったに違いありません。
毎朝の5時には、霧がたち込めるラサの街に、ラサ中の僧院からの法螺の音が厳かに響き渡ります。僧侶たちは、勤行のために御堂に向かい、人々はマニコロを片手に右繞道を巡礼しに出かけます。ジョカン寺を巡る右繞道、ポタラ宮を巡る右繞道、そしてラサ全体を巡る長い右繞道。もう、二度と手にすることは出来ないであろう幸せで穏やかな日々でした。
私の下には、4人の弟がいましたが、皆12才になった年にそれぞれラサのデプン僧院にて出家しました。家には一番上の姉が残っただけで、他は皆出家をしたのですが、チベットでは女性が家を継ぐことは珍しい事ではないのです。私は成長するに従って仏教に興味を抱き始め、修行に真摯な熱意を傾けました。もう、僧院が嫌で逃げ出そうと思うこともなくなり、時間があれば、自室でいつも経典に向かっていました。
◆中国共産党の侵略
けれども、そんな穏やかで幸せな日々は長くは続きませんでした。1949年、中国共産党が北京の権力を奪回し、中華人民共和国を樹立すると同時にチベットの雲行きも危うくなってきたのです。まさに、いつ果てるとも知れぬチベットの受難の幕開けでした。翌年の1月1日には、中国共産党は「人民共産党軍の義務は台湾、海南島、チベットの解放である」との声明を発表しました。『チベットの解放』が一体何を意味するのか、当時人々は何も解っていませんでした。私は21才になったばかりでした。父の兄が1949年に肺炎を患って亡くなり、私はトプテン・テンダル師と二人で生活をするようになってました。夜は、師より経典の解説を受けることになっていましたが、終わるとどうしても話題は新中国政府に終始してしまうのでした。私も師もチベットの未来がどうなってしまうのか、具体的には何も予測していませんでした。ただ、どうしても不吉な予感を拭い去ることが出来ずにいたのです。重苦しい気持ちを抱えたまま、幾月かが過ぎました。街中で、不吉な兆候が現れ始めました。デプン僧院に今までに見たこともない大蛇が現れたとか、井戸の水が突然枯れたとか、そんな類の話で街は一杯でした。
1950年10月7日、中国人民共産党軍は、東から国境線を越えて、チベットへの侵略を開始しました。人民共産党軍は、東チベット(カム)に進駐していたチベット軍をいとも簡単に破り、10月19日にはカムの首府チャムドを征服したのです。そのぞっとする知らせはすぐにラサに届きました。街中が恐怖に陥り、人々は不安に駆られて、誰も彼もが寺に集まりました。ラサ中でチベットの守護神パルデン・ラモに加持を求める経が読まれました。各僧院では大きな祈祷法会が連日のように行われ、ラサの空には香を焚く煙が立ち込めました。ナムギャル寺でも祈祷に一日の大半を費やしていました。私も朝から晩まで皆と一緒に祈祷をしました。戦争や飢饉を回避し、速やかに平和が訪れるようにと私は心の底から願わずにはいられませんでした。政府は、ラサ中から兵士を募り、すぐに東チベットに派遣しましたが、効果は何も期待できませんでした。私たちは長い間戦争というものを知らなかったのです。それに加えて、中国はチベットの百倍以上の人口を持つのです。私たちにはろくな兵器もなければ、訓練された軍隊もなく、ただ仏や神に祈ることしか術を持ちませんでした。
チベットを侵略しようとしている中国共産党が一体何者なのか、支配下に置かれてしまったならば一体どうなってしまうのか、人々の不安は深まる一方でした。
「共産党は、宗教を敵対視している。法灯を絶えさせてしまうつもりだ」
「共産党は、伝統的な習慣を禁じてしまう。古き良きものを全て破壊してしまうはずだ」
「寺も僧侶も何もかも無くなってしまうだろう」
街中に様々な噂が広がり、人々の不安は高まるばかりでした。人々は、それらが単なる噂でないことに気付くのに多くの時を有しませんでした。実際、はるかに想像を越えた圧政としてチベットに重くのしかかって来たのです。
ラサの街中に、高官たちや摂政を非難し、ダライ・ラマ法王に政権を引き渡すことを要求した貼紙が現れました。人々は、この危機を乗り越えるためにはダライ・ラマ法王を政権の座につける以外にはないと思っていました。法王ならばチベットを救って下さると信じていたのです。官僚たちが隣国に対する危機感を全く持たず、何の対策も講じなかったことが敗因を招いたことは明らかでした。摂政が法王に政権を引き継ぐのは、本来ならば2年先の予定でしたが、人々の頼みは法王だけでした。人々は不安におののき、ヒステリックなまでに興奮し、怒りを政府の無策に向けました。政権交代を要求する声は日増しに強くなるばかりでした。まもなく、就任式が開かれ、法王は政治と宗教の指導者として玉座に着かれたのでした。法王は、その時15歳でいらっしゃいました。そして、新しい首相にロプサン・タシという僧侶とルカンワという俗人が、法王によって任命されました。行方の知れぬチベットの運命は、まだ若い法王の肩に重くのしかかったに違いありません。私は、チベットの未来がどのようになろうとも法王に従って行こうと思っていました。一寸先も分からぬ暗闇を手探りするような状況の中で、法王をただ一つの頼みの綱とし、祈り続ける日々が続きました。大きな戦争へと突入するのだろうか、敗北して何もかも失ってしまうのではないだろうかと色々と思い患い、一睡もできぬまま朝を向かえたことも少なくありませんでした。
1951年5月23日、法王の命により北京に派遣されたチベット代表団が『チベット解放十七箇条協定』に調印したというニュースが入って来ました。その協定は「チベット人民はチベットから帝国主義侵略勢力を駆逐し、中華人民共和国という祖国の大家族に復帰する」と唱えていました。チベット人が納得の上でそんなものに判を押すわけはありません。調印を無理強いされたに違いないと皆考えました。この協定はチベット人から祖国と自由を奪うもの以外の何物でもありませんでした。私は、その晩夜の更けるのも構わず、長い時間、部屋でトプテン・テンダル師とこの調印が持つ意味について話し合いました。二人とも眠れないのは一緒のようでした。「チベットはどうなってしまうのだろう。チベットが中国に復帰するなんて言語道断も甚だしい」トプテン・テンダル師は、そう言って中国人への憎悪をぶつけました。チベット人は昔から中国人を嫌っていました。ラサには何人かの中国人商人がいましたが、好感を持つものは誰もいませんでした。『帝国主義侵略勢力を駆逐』するというのもおかしな話でした。ラサには、当時、インドの捕虜収容所から逃げ出してきた二人のオーストリア人と英国領事館で働く数人のイギリス人しかいなかったのですから。『宗教には手を触れない』という項目もありましたが、どのように考えてみても楽天的な見方は出来ず、中国の支配下に置かれたチベットが平穏な道を辿るとは思えませんでした。
その年の10月26日、ついに中国共産党の大軍がラサに進駐してきました。赤い旗と毛沢東の肖像を掲げ、甲高くラッパを吹き鳴らしながら、共産党軍はラサへと入ってきました。初めて見た額縁の中の毛沢東の顔に、私は今までに味わったことのない忌まわしさを感じるのを押さえることは出来ませんでした。先頭に掲げられた赤い旗には黄色の星が五つ付いてました。そして、その後にいつ果てるとも知れない長い長い兵士の列が続きました。どの兵士も埃だらけで憔悴しきっているように見え、皆同じ様な表情の無い顔をしていました。高々に吹き鳴らすラッパとけたたましいドラムの音は、心の不安に益々拍車を駆け、私は今までの味わったことのない底知れない恐怖感に襲われました。背筋がゾクゾクと震えてきたのです。人々は手を盛んに叩きました。歓迎したのでは決してありません。チベットには、人を賛えて拍手をするという習慣はありませんでした。手を叩くというのは、魔を蹴散らして追い払うという行為だったのです。人々はこの侵略者たちへの憎しみと嫌悪感を隠そうとはせず、目をしかめて、手を叩き続けました。
ほんの数ヵ月の間に、中国共産党軍の数は2万にも達しました。当然のことのように共産党軍の食料が要求され、チベット政府は物資を調達するのに頭を痛めました。すぐにラサの食料事情は悪化し、異常なインフレがおこったのです。穀物の値段は急上昇し、一晩で倍近くに跳ね上がる大麦の値段に人々は驚き、理解しかねました。食料等の物資の不足状態は慢性化し、人々は中国兵たちへの憎しみをますます積のらせました。チベットには、鶏肉を食べる習慣はなかったため、ラサには沢山の鶏がいました。けれども、共産党軍が来てからは、あれほど沢山いた鶏はいつしか一匹もいなくなってしまいました。人々は、この忌まわしい侵略者への反感を隠そうとせず、中国兵を見かけると手を叩いては嘲りの言葉を投げかけました。けれども、増え続ける中国兵の前には私たちは無力で何もなす術を持ちませんでした。やがて、共産党軍はラサの西にある主要都市シガツェ、ギャンツェにまで進駐し始めたのです。
間もなく、東チベットと北のアムド地方からラサに通じる二本の幹線道路建設の計画が持ち上がりました。計画を知ると、ラサの人々は猛烈に反対しました。道路が完成すれば、大量の中国人が流れて来るのは容易に想像出来ました。これ以上の中国人は、一人たりとてチベットの聖なる土地に来て欲しくはありませんでした。車の通る道など必要ない、これがチベット人の考えでした。共産党軍が来てからというもの、全てが急速なスピードで変わり始めました。将校や兵士の宿泊施設として多くの家が奪われ、軍隊を進駐するための広大な土地が占領され、道路整備が始まり、風紀は乱れました。沢山のトラックや軍用車が騒音を立てて走り回り、もうもうと埃が立ち上ってました。それまで、私たちは自動車はおろか車輪の付いたものも見たことがありませんでした。皆、移動の時は馬に乗り、ヤクの背に荷物を乗せていたからです。全てがゆっくりとした牧歌的なペースで動いていたのに、人々は道路工事や宿舎の建設に駆り出されて、休む間も無く働かされました。共産党軍は、チベット政府に絶え間ない干渉を行い、何一つ自由に決めることは出来なくなってしまいました。人々は抵抗運動組織を密かに結成し、共産党軍を非難する声明のビラが街中に現れ始めました。
1953年の冬、ダライ・ラマ法王は毛沢東より北京の訪問するように招待を受けました。人々はそのことを聞くと、猛烈に反対しました。皆法王が中国人たちに殺されてしまうか、さもなくばそのまま北京に幽閉されてしまい、帰って来れなくなると危惧したからです。この時期に法王がチベットを離れることは、誰にとっても大変心細いことでした。北京への訪問が決定されると、ナムギャル寺では法王の無事の帰還を願う法要が連日行われました。
1954年7月11日、法王は北京へと向かうために、ラサを離れました。ラサの人々は、皆涙とともに見送りました。法王の姿が見えなくなるにつれ、私は言いようのない深い悲しみに包まれて行きました。法王は、チベット人にとってかけがいのない宝でした。法王のためならば、皆喜んで命すら投げ出すでしょう。限りない尊敬と信仰をよせるに価する、善なるもの全ての象徴でした。法王不在の一年間、人々は絶え間ない不安と共産党軍の横行に心底打ちのめされていました。たった一年間のことだったのに、法王の帰還が待ち焦がれて仕方ないのでした。
「いつ戻られるのか、何か聞いた者はいないか」人々が集えば、必ずこう口に出ました。その後、法王がインドに亡命し、チベットから本当にいなくなってしまったあの日から、人々は法王が再びラサに戻られるのをどんなに切望していることか。チベットの人々は、一日千秋の思いで待っているのです。
◆共産党の横暴
ダライ・ラマ法王の北京滞在中の毛沢東との会談も何ら実を結ぶことなく、事態は悪化の一途を辿りました。法王と毛沢東の個別対談の中で毛は「我々はチベットを助けに来たのだ。チベットが我々を必要としなくなったときにはすぐに手を引こう」と述べたということが伝えられました。わずかな期待を感じたものの、言葉通り信じるにはあまりにも中国のやり方は不誠実で、横暴でした。そして、五六年の春、とうとう東チベットで大規模な決起が起きたのです。様々な憶測が飛びかっていましたが、次第に事態が明らかになってきました。東チベットからの行商人、あるいは戦火を逃れてきた難民たちがその様子を伝えたのです。東チベットでの中国人の横行はひどく、人々の我慢も限界に来ていました。決起は時間の問題だったのです。東チベットから伝えれた話は、身の毛のよだつほど恐ろしいものでした。
民主改革として人民公社という組織が導入され、伝統的社会が壊された挙句、人々の暮らしががんじがらめに統制されてしまっていました。深い仏教知識を持つ学僧や高僧、地方の豪族たちは弾劾され、自己批判という中国人の妬みや蔑みを満足させるに過ぎない茶番劇を行わなければなりませんでした。彼らは革命闘争(タムジン)に引きずり出され、集められた村人たちの前で、滅多打ちの目に合わされました。散々打擲され、木から逆さ吊りにされ、張り付けにされました。中には、殺されてしまう者もいたのです。学僧や高僧として皆の尊敬を受けて止まなかった師たちは、タムジンの中で侮辱を味わうはめになっていました。虫を叩きつぶすことを強いられ、唾を吐き付けられ、頭上から放尿が浴びせられました。チベット人は殺生することを極端に嫌がります。なぜなら、例え小さな虫であろうとも、前世で限りない愛を受けた母の生まれ変わりかも知れないからです。全ての有情は、皆同じように生命の尊さを持つのです。特に、僧侶は戒律で殺生を禁じられています。中国人たちは、その戒を高僧に破らせたのです。それだけでは押し止まりませんでした。売春婦や尼僧との性交までも強制したのです。人々は、この恐ろしい風景を震えながら傍観するだけでは許されませんでした。中国人たちは銃口を村人に向け、彼らに石を投げつけるように、或いは殴るように強制したのです。弟子は尊敬する師を打擲するように命令され、子供は親を打擲せねばなりませんでした。
共産主義思想が至るところで声高に説かれ、連日政治学習集会が開かれました。そこでは、宗教は敵対視され、代わりに毛沢東の『改革』が賛えられ、延々と説かれるのでした。『封建主義の解体』という名目のもと、富豪民、農奴主と決め付けられた者は、私有財産を没収されました。家畜、穀物、調度品、女性の装飾品までもが、中国人の手により持ち去られたのです。人々は、次に植え付ける種どころか、明日の食料すらままならない状態に陥っていたのです。さらに追い打ちを掛けるように、家、土地、家畜等に対する課税がなされ、強制的に徴収されました。そして、中国兵たちは村々を回り、武器の提出をせまったのでした。逆らう者は容赦なくその場で射殺されたのです。
我慢は限界まで来ていました。彼らは武器を取り、中国兵たちに捨て身でぶつかっていきました。東チベットに住むカム族は、誇り高く勇敢なことで有名です。馬を自由自在に操り、中国軍のキャンプや部隊に奇襲を掛けては、さっと山に逃げ込むカム族たちは、最初中国兵たちに強い打撃を与えました。けれども、中国は大量の兵を更に東チベットに送り込むと、カム族を徹底的に弾圧し支配力をある程度取り戻すことに成功しました。カム族はさらに奥深い山中に逃げ込むとそこでゲリラ活動を開始したのです。ゲリラ活動に加わるものは、次第に数を増してきました。ゲリラ組織と関係を持った者、食料や武器を提供した者、そしてゲリラ組織へ参加した者の家族、妻や子供までにも容赦ない仕打ちが待っていました。殴り殺されるか、或いは銃殺されるか、そうでなければ、強制労働キャンプに送られて餓死するかのいずれかが、そうした者たちへの残された道でした。例え、女性や子供でも免れることは出来ませんでした。ゲリラ活動は広範囲に広がり、多数の死者、逮捕者がでました。ゲリラに協力したということで、寺院は破壊され、僧侶たちは強制労働キャンプに送られました。東チベットは完全な騒乱状態に入っていました。ラサへの難民は日増に増えていくばかりでした。
ラサの人々は震撼しました。チベットは、どうなってしまうのだろう。このまま、深い暗黒の闇の中へと一気に吸い込まれてしまう気がしました。そうなったら、私たちはどうやって生きていけばよいのだろうか。ダライ・ラマ法王の御身の上はどうなってしまうのか。不安がさらなる不安を呼び、全てを飲み込んでしまうような底知れない恐怖に駆られるのでした。ラサ近郊に集まった難民たちは、その後周囲に散らばり、男たちはいくつかの『護法義勇団』と呼ばれる反中国ゲリラを組織しました。その中で一番大きかった組織は、東チベット(カム)と北チベット(アムド)を意味する『四つの河六つの山脈』という名前で呼ばれていました。
ラサでも、人々に間にいくつかの反中国組織が出来ました。街の壁には、あからさまに中国のカムでの数々の蛮行の様を語った貼紙が現れ、壁の落書きには『中国人は中国にさっさと帰れ』と書かれていました。東チベットでの戦火は大きくなるばかりで、人々の緊張と不安も高まるばかりでした。一九五八年には『四つの河六つの山脈』は、ラサから百キロメートル程離れた中国軍の主要陣地を包囲するまでになっていました。
◆蜂起
そして、とうとうラサでも中国兵との衝突が勃発したのです。1959年、チベット歴の新年が明けて間も無くのことでした。新年の大祈祷法会が終わった頃、ダライ・ラマ法王が誘拐されようとしているという噂が流れました。中国軍司令部にて行われる舞踏の観劇に法王は招待されていました。けれども、中国側は護衛の兵士すら付くことを許さず、ごく少数で来ることを強制したのです。普通、法王がどこかにお出ましになるときには、官僚や高官、貴族たちが何十人もお供することが習わしになっていました。「中国は何か良からぬことを計画している筈だ」「法王はそのまま、中国軍に拉致されてしまうに違いない」人々の疑いは、当日司令部への道路を交通規制することが決まると同時に一層高まりました。法王の安否を気づかうがために、ヒステリックな雰囲気が街中を漂いました。法王の観劇は3月10日の予定でした。
「法王を決して司令部へ行かせてはならない、我々の手で法王をお守りするのだ」人々はそう言って、命を掛けても法王を中国人の手からお守りするつもりでした。皆考えは同じでした。法王はその時、ポタラ宮ではなく、ノルブリンカ離宮に建てられた法王の新しい住居にいらしゃいました。
10日の朝には、人々はノルブリンカ離宮の前に集まり出しました。法王の司令部への観劇を断固阻止するつもりだったのです。私が離宮に到着したときには既に離宮前の広場には何万もの人々がひしめき合い、口々に中国への恨みと怒りを叫んでいました。中国人の今までの蕃行に対する憎悪は計り知れなく、何年にも渡る中国の支配に人々の我慢の糸は完全に切れてしまっていました。人々は集会を開くと中国と結んだ十七ヵ条協定の失効宣言をしました。
「中国人は速やかにチベットから出て行け。もう中国の指図は一切受けない。チベットは私たちチベット人のものなのだ」
民衆は拳を高く降り上げて歓声を上げました。そして、パレーという倉庫係りが立ち上がり、激しい口調で熱弁を奮い始めました。
「私たちは今まで我慢に我慢を重ねて来た。元来、チベット人は中国人を好ましく思っていない。そもそも言葉も違えば、風習や文化も全く違う民族をだいたい一つの国にしようという考え自体が間違っている。中国のせいでチベットは何もかも滅茶苦茶になってしまった。一刻も早く中国人たちを追い出さなければ、私たちは全てを失ってしまうだろう。法王もいなくなってしまうだろう」パレーはそう言って全面闘争に突入するしかないと民衆に促しました。そして、ノルブリンカの周囲にピケを張り、人垣のバリケードを作って、法王を中国軍の手から守ることに決まったのです。
12日には、ポタラ宮の麓のショル村でも、女性たちによる大規模なデモが起きました。私はノルブリンカでのデモには加わらず、ポタラ宮に残っていました。ナムギャル寺では午前中4時間、危機を回避するための特別な法要が行われていました。私は不安ともどかしさで落ち着けず、法要の間中、集中出来ないままでした。窓から覗くと、何千、何万もの女性たちがポタラ宮の麓にひしめきあっているのが見えました。夕刻には、中国兵を満載した6、70台のトラックがラサの街へと走って行きました。
ラサの緊張は日増しに高まり、ノルブリンカに集まる人々の数も、中国に対する罵倒の声もエスカレートするばかりでした。もう、市民の怒りを押さえる術は何もありませんでした。この十年間でたまりにたまった鬱憤が、一度に噴き出し、それは「中国人は中国に帰れ」と叫ぶ声に表われていました。中国軍の反応を伺いながら、緊迫した何日かが過ぎました。皆の気掛かりは自分たちの命や生活などではなく、ダライ・ラマ法王のことだけでした。
◆法王の亡命
3月18日のことでした。普段はノルブリンカ離宮にある御堂に勤めているジャンペル・クンケンという僧侶が、ひっそりと私の部屋に入って来ました。ジャンペルの顔は上気していて、非常に興奮していました。
「どうしたんだ」
私はただ事ではないと直感しました。
「もう安心していいぞ。ダライ・ラマ法王はインドに向かわれた」
思いがけない彼の言葉に私は驚きました。
「本当だとも。昨夜、法王は密かにノルブリンカ離宮を脱出した。さあ、戦いが始まるぞ。やろう。我々も何かしなければ」
「その通りだ」
私は即座に友たちを自室に集めました。戦闘についての話し合いを始めると、皆異議なく賛成してくれました。法王の護衛には『四つの河六つの山脈』の戦士が付き、インドまでの道乗りを守るということでした。中国の追手に加え、ヒマラヤ山脈の峠を越えねばならない厳しい道乗りです。どうか中国人の手に落ちることなく、無事にインドに辿り着いて欲しい。それだけが心配で、仏にダライ・ラマ法王の無事を祈らずにはいられませんでした。
次の日の早朝、皆で僧院長の部屋へ行くと中国軍と戦うことを決意したことを伝え、許しを請いました。「戦闘が始まれば、中国軍はポタラ宮へも攻めてくるに違いありません。ポタラ宮が中国人に荒されるのだけは何とかして避けたい。どうか、銃を持つことも許してください」
年老いた僧院長は静かに頷くと静かに言いました。「戦闘の際には、殺生は免れないだろう。出家の身には、固く戒律で禁じられていることだ。しかし、僧衣を脱ぐのはあくまで本人の意志だ。お前たちの自由だ。私はもう戦うには年を取りすぎてしまっている」
僧院長の気持ちは、そのつらそうな表情から伝わってきました。殺生は決して許されないことです。けれども、私たちが戦わずして、どうしてポタラ宮を守ることができるでしょうか。
日が暮れてしまうと、地鳴りのような鈍い爆音が辺りに響き渡り始めました。とうとう中国軍の攻撃が始まったのです。まもなく、ノルブリンカ離宮に居たセラ僧院の僧侶たちがやって来ました。ポタラ宮を守るために来てくれたのでした。ノルブリンカ離宮はすでに火の海になっていました。中国兵たちは逃げ惑う民衆に向かって、無差別に機関銃の一斉射撃をしたことがセラ僧院の僧侶の口から聞かされました。沢山の人が銃火に倒れ、昔ラサの人々が日曜毎にピクニックを楽しんだノルブリンカ宮殿の庭園は、夥しい血でぬかるむほど赤くなってしまったというのです。一番恐れていたことが、現実のものとなってしまいました。私は震えが止まりませんでした。熱病に襲われたかのように、体の芯がガタガタと震え、絶え難い程の不安が胸に渦巻いていました。今こそ、立ち上がらなければならない。そう、私は何度も自分に言い聞かせました。銃を手にする時はすぐ目の前に迫っていました。
私は、法要が行われるいつもの御堂へ行き、既にその主を失った法王の玉座に向かって三度五体投地をしました。僧侶であることを止めるつもりでした。いつもは百人もの僧侶が集うその広い部屋に、私一人で空っぽの台座とお釈迦さまの仏像に向き合っていました。ヤクのバターのランプの揺らぐ灯りのもとで私は、静かに僧衣を脱ぐと俗人の服に着替えました。僧は、殺生することを固く禁じられています。けれども、私は戦いに行かねばならないのです。殺生は避けられない。たとえ、殺生の果として地獄に落ちようとも構わない。チベットのために戦うことに何の後悔もありませんでした。私は僧衣とともに戒律も返上し、出家の身であることを止めたのです。法燈の炎が静かに揺らぎ、お釈迦さまのその柔和なお顔を照らしていました。私は堪らなくなり、涙が溢れるのを止めることが出来ませんでした。涙を拭い、意を決して、御堂を出るとポタラ宮殿の屋上に上がりました。あちらこちらから、大きな火の手が上がっているのが見えました。火の粉が降り注ぐ中を、絶え間無く大砲の音が鳴り響いていました。
◆闘い
私たちは、銃や弾丸がポタラ宮殿のどこにあるのかを知りませんでした。ポタラ宮殿を守りに来たセラ僧院の僧侶たちも棒やナイフなどを手にしているだけで、誰一人として銃を持っているものはいませんでした。「どうして、あらかじめ銃を準備して置かないんだ」セラ僧院の僧侶たちは、何も準備をしていなかった私たちに呆れたようでした。ポタラ宮殿には武器倉庫があったけれども、私たちは場所を知らされていなかったのです。どうにかして、地下倉庫にある銃を探し出すことが出来ましたが、肝心の弾丸の場所は依然わかりませんでした。銃は何十年も使われたことが無いのではと思えるほど、埃をかぶっていました。銃の使い方を知っている僧侶は誰もいませんでしたが、ポタラ宮殿を守りに来たチベット兵士たちが手ほどきをしてくれました。けれども弾丸がなければ、ただの棒切れと同じです。弾丸をどうしても手に入れなければなりませんでした。
倉庫の管理人に連絡を取り、ポタラ宮殿の東側にある別楝に弾丸があることが分かりました。取りに別楝まで行くのは大変危険な状態でした。ポタラ宮殿自体はまだ砲撃されていませんでしたが、東側の別楝や民家は絶え間無く砲弾が打ち込まれ、半壊状態だったのです。砲弾の雨の中を別楝まで行くのを多くの者は危ぶみました。命を危険に晒すのを躊躇するのはあたりまえのことでした。「私が行こう。殺されても構わない。覚悟は決めてある」私は自ら率先して、弾丸を取りに行く役を買って出ました。他に十人程の僧侶が名乗り出ました。
私たちはポタラ宮殿を出ると一目散に別楝の方へ走りました。砲弾が耳をつんざくような音を立てて、すぐ後ろで、或いは行く手を阻むかのように、目前で炸裂しました。私は無我夢中でした。ひたすら経文を大声で唱えながら、弾丸の置いてある倉庫の中へと駆けこみました。暗闇の中で鍵をこじ開け、弾丸を二箱抱え上げると、再びポタラ宮殿へと大急ぎで戻りました。息が切れ、箱の重みによろめきながらも、必死に走り続けました。その時、後ろの方で砲弾が炸裂し、一人の僧侶が横腹を押さえて倒れ込みました。あっと思った瞬間、数メートル先の地面で再び砲弾が破裂し、強い爆風を肌に感じました。どれくらいの時間がたったでしょうか。わずか数秒程のことだったであろうに、随分長い時間だったように感じました。我に返った時には、二人の僧侶の無残な死体が目の前に転がっていました。彼らをどうすることも出来ないまま、弾丸の箱を抱えて、再びポタラ宮殿へと走り出しました。悔し涙が後から後からこぼれて頬を濡らすのを拭うことも出来ず、砲弾が降り注ぐ中をひたすらポタラ宮殿へと急ぐしかありませんでした。
合わせて三人の僧侶が亡くなりました。私が助かったのは偶然のことでした。彼らが私の身代わりに亡くなった気がして、胸が強く痛みました。運び込んだ弾丸を皆に分け与えると、ポタラ宮殿を守りに来たチベット兵士たちから手ほどきを受けました。おぼつかない手で銃に弾丸を詰め、射撃の仕方を習うと、それぞれの配置を決めました。盛んに大砲を発射する音が聞こえるというのに、中国兵の姿は全く見えませんでした。どこから発射しているのかも皆目わからない状態だったのです。砲車は5、60台もあったでしょうか。中国の攻撃に対して私たちは何も為す術がありませんでした。「中国兵の姿はどこにもない。しかし、ポタラ宮殿を落とす時には、必ず兵士は歩いて登ってくるだろう。その時は狙い撃つことが出来る」そう言う僧侶もいました。
中国共産党軍がポタラ宮殿を攻撃するのは時間の問題でした。中国軍の攻撃は日を経つにつれ、激しさを増してきました。ラサの街は戦火に包まれ、煙が空を厚く覆っていました。セラ僧院、デプン僧院が大砲の攻撃を受け、多くが破壊されたという知らせが入って来ました。僧院が破壊されたということを聞くと皆打ちひしがれました。デプン僧院にて出家生活をしていた弟たちの安否も心配でした。このままでは聖なるラサの街、全てが無くなってしまうだろう。私たちは、武器、兵士ともに数において中国軍に圧倒的に負けていました。中国軍には戦車まであったのです。チベット軍は中国軍の前ではあまりにも無力でした。そして、ついにポタラ宮殿の向かいのチャクポリ丘にあるチベット医学院が陥落したのです。大砲を雨のように浴びた医学院は、跡形も残っていませんでした。
私たちもこのままポタラ宮殿に籠城し、戦闘を続けていると、中国軍はポタラ宮殿にも大砲を向けるでしょう。ポタラ宮殿には代々のダライ・ラマ法王の遺体が安置されている霊塔があるのです。それらが壊されてしまうということは想像にも耐えられませんでした。
22日の夜、私たちは今後の行動についての集会を開きました。このままポタラ宮殿に残り、戦闘を続けようという派、ポタラ宮殿を守るためにもここから出ようという派の二つに意見は分かれました。
「宮殿には、一年間戦えるだけの食料もあれば、水もある。ダライ・ラマ法王が無事にインドに辿り着けば必ず外国からの援軍と共に戻ってこられるだろう。それまで、戦い抜くのが我々の義務ではないか」
一部の者は最後まで戦い続けようと強く主張しました。けれども、厭戦的意見の方が強かったのです。「ここにこのままいても状況は好転しないだろう。籠城し、戦闘が激しくなれば、ポタラ宮殿は破壊され、焼き尽くされてしまうだろう。けれども、我々が去れば、これ以上の大砲での攻撃はなくなるに違いない。歴代ダライ・ラマ法王の遺骨を守るためにも、今はそれしか方法はない」
私もそう思っていました。最後には、ポタラ宮殿を出ることで意見が一致し、長い間修行を積み、住み慣れた宮殿を後にすることになりました。
◆ポタラ宮を後に
その夜、私たちは抱えられだけの銃と弾薬を持つと、密かにポタラ宮殿を抜け出し、馬に乗ってサムツァムゾンへと向かいました。私はトプテン・テンダル師を気づかいながら馬を走らせました。師はすでに60才を越えており、他に身よりの無い師を最後までお世話しなければと思っていました。丸一日掛けてサムツァムゾンに辿り着くと、そこには他の僧院からも沢山の僧侶たちが到着していました。デプン僧院にて修行していた二人の弟、ニマ・ダクパとツォニたちも来ており、互いの無事を確認しては喜びました。五人兄弟の真ん中の弟、ソナム・ペンパは『四つの河六つの山脈』に入ったと聞きました。そこに集まった僧侶たちは皆ダライ・ラマ法王の後を追ってインドに行こうと考えていました。インドで武器を補充し、再びチベットに戻り、戦うつもりでした。何人かの僧侶は既にインドに向けて出発していました。ヒマラヤを越えることは、大変なことでしたが、法王と行動を共に出来ると思うと力が湧いて来るのを感じました。私も弟たちや師と一緒に次の日には、インドへ向かうつもりでいましたが、同じ村の知り合いより母がとても逢いたがっているという事を耳にしました。それを聞くと、私も母にインドに行く前に一目逢いたいという思いに強く駆られました。母が私たちの安否を心配していることは痛いほどよく分かりました。弟たちも思いは一緒でした。次の日、私はインドに行くのを止め、母に逢うためにフンドゥップの実家へと馬を走らせました。二人の弟、トプテン・テンダル師、それと14人のナムギャル寺の僧侶も一緒でした。
丸一日馬を走らせ、家へ辿り着くと、母は私たちの無事を知って涙を流して喜んでくれました。ラサでの戦闘のことを村人より聞き、もう生きてはいないと覚悟さえしたと話してくれました。「ラサは死体で溢れて、街は瓦礫の山だらけだと聞いたもんで、本当に生きた心地がしなかったよ。ダライ・ラマ法王が中国人の手に落ちる前にインドへ向かったということだけが、唯一の救いだったが。どうか無事にインドに辿りつけばいいのだけれど」母はそう泣きながら言うのでした。
母は私たち息子がこのままフンドゥップの村に残ってくれるとばかり思っていたので、インドに行く計画を知ると強く反対し始めました。再びチベットに戻って来て戦えるかどうかも定かではなく、もう、二度と逢えなくなってしまうと思ったのでしょう。私も母と今生の別れになるかも知れないと思うとさすがに、母を残してインドに行くのが渋られるのでした。
次の日、中国共産党の使いが家にやって来ました。ラサでの戦闘が終わったこと、兵士や僧侶たちは全員降伏したこと等を伝えると、私たちもナムギャル寺に戻るようにと言われました。「何も心配しなくてもいい。銃を取って戦闘したことについては、何の咎めもない。中国共産党は心が広いのだ。僧侶は再び元のように僧院生活に戻れるから」彼は甘い言葉で巧みに誘いました。私はどうしてもその言葉への猜疑心を拭さることが出来ずにいましたが、他の僧侶たちは戻ることに決めたようでした。翌日、12人の僧侶がラサへと戻りました。師も他の僧侶と一緒にラサに戻りました。私は不安な気持ちで彼らを見送りました。まもなく、彼らが皆捕まったことを知りました。中国共産党は、ラサの僧侶のほとんどを労働キャンプに送り、空になったデプン僧院やセラ僧院を兵士の宿舎に使ったのでした。ポタラ宮殿の全ての財宝、仏画、仏像の類は略奪され、後は鍵を閉められ、廃虚同然に打ち捨てられて置かれました。長い階段を上がらねばならないポタラ宮殿は倉庫代わりにも使えないと中国人たちは思ったのです。
◆再び、闘いへ
私は、最後まで中国人と戦う覚悟でいました。体を張ってでも彼らの北上を少しでも食い止めるつもりでした。手元には、ポタラ宮殿から持ち出したライフル17挺、それと家にあった日本製のライフル2挺と短銃2挺がありました。遊牧民はジャッカルや泥棒から家畜を守るために銃を保持しているのが常でした。けれども、私の他に弟2人とアヌーとダムチュウというナムギャル寺の2人の僧侶しか残った者はなく、一体5人だけでどうしたものかと思案に暮れていました。
ある日、40才くらいの大柄ながっしりとした体躯の男が家を訪れました。髪は腰まで届くほど長く、三つ編みをして頭に巻つけてありました。彼は、ペンポ地方を散々荒し捲った盗賊の首領である身の上を明かすと、祖国のために協力したいと言ってきたのです。
「私はもともとはセラ僧院の僧侶であったのだが、いつしか20人を率いる盗賊の身に落ちぶれてしまった。私の為した悪業は計り知れない。今まで、旅人を襲っては身衣も剥ぎ、村を襲っては農作物をごっそり頂戴してきた。その罪の業果を思うと恐ろしくて仕方が無いのだ。来世で地獄に落ちるのは必定に違いない。せめてもの罪ほろぼしに祖国チベットのために戦いたいのだ。協力してはくれないか。聞けば、銃や弾薬等の武器があるらしいではないか。我々のために分けてくれないか」サンペルというその男は鋭い目つきをしており、険しい容貌から彼の言うことが嘘ではないと私は感じました。祖国のために何かをしたいという切羽詰まった強い思いが伺われました。私は彼に協力することに応じ、武器を分けることを約束しました。そして、私も一緒に戦いたいと申し出たのです。弟たちやナムギャル寺の僧侶たちも同じ気持ちでした。サンペルは喜んで受け入れてくれ、私たちは共に戦うことになったのです。
サンペルは既にいろんな所に声を掛けて300人程の兵士を集めていました。チベット政府の兵士たち、東チベットから流れて来た者たち、僧侶も多くいました。渡したライフルは、受け取った者の名前を全部控えました。ライフルはポタラ宮殿から持ち出したものです。戦争が終わった時には、チベット政府に返すつもりでした。私たちはチベットが勝利を収めて、めでたくライフルをポタラ宮殿に返す日が必ずやって来ると信じていました。「ダライ・ラマ法王がすぐに外国の軍隊と一緒に帰ってくるだろう。ラサの南には『四つの河六つの山脈』がいる。我々は北から中国を打ち破って『四つの河六つの山脈』に合流しよう。中国軍を挟み打ちにするのだ」サンペルと私たちはこう話していました。
サンペルは私の家に住み、他の者たちは家から15分ほど離れたレティンにテントを張って野営していました。レティンは周りを険しい山に囲まれた谷間にあるわずかな平地で、村から道が一本通じているだけでした。入ってしまえば、丁度行き止まりになっており、野営するには持ってこいの場所でした。道を塞いでさえいれば、どこからも攻められる心配はなかったからです。食料は還俗して家に帰っていたすぐ下の弟、イシェ・サムテンが調達してくれることになっていました。
チベット歴4月10日、ペンポ地方の役人、高官、豪族たちは全て中国共産党の集会に召集されました。新政策に関する集会かと思いきや、集会とは名ばかりで、実は皆そのまま逮捕され、連行されていったのです。中国共産党はチベット人の役人たちを全て粛正して、新しい中国人の役人に代えるつもりでした。私の村の近くに住むドルジェ・ナムギャルだけは、集会に召集されたものの拒んだまま家にいました。再三の命令にも応じないドルジェ・ナムギャルに痺れを切らした中国共産党の将校は、中国兵16人を引き連れてドルジェ・ナムギャルを呼びに、ペンカ峠までやって来ました。高地で疲れたのか、峠で中国人たちは一休みし、代わりに地元のチベット人をドルジェ・ナムギャルを呼びに行かせたのです。使いのチベット人は、道の途中に牛追いの子供がいるのを見つけると私たちの所へ中国人が来ているのを伝えるように言いました。そして、ドルジェ・ナムギャルの村へと向かいました。
牛追いの子供は必死で山道を駆け抜け、私の家に走り込んでくると息を切らして「中国人がペンカ峠にやって来た!」と叫びました。それを聞くと私たちはすばやく武器を取ると急いでペンカ峠に向かいました。峠までは馬で20分ほどのところでした。サンペル、セラ僧院の僧侶5人、サンペルの二人の息子、私と全部で九人で、馬を走らせました。サンペルの息子はわずか14歳と11歳でした。
ペンカ峠に差し掛かり、中国人が目に入るや否や、ライフルを立て続けに発射しました。向こうも慌てて銃を手にし、応戦して来ましたが、奇襲が効いたのか、私たちはすぐに優勢に出ました。中国人たちは徐々に押されて、ゲトゥ・カワまで後退し、やがて一軒の民家に立て篭りました。私たちは4人づつ二手に分かれて家の両側から周り込み、一人は家の背後にある裏山から狙うことにしました。裏山から狙う役目は私がすることになりました。サンペルは「武器を捨てて降参するなら、ダライ・ラマ法王の御慈悲により命は助けよう」と中国人たちに呼びかけましたが、逆に機関銃を乱射してきました。私たちもすぐにライフルを構えて撃ち始めました。銃弾が飛び交い、激しい銃撃戦がしばらく続きました。無我夢中で引き金を引き続け、休む間もなく弾丸を詰め替えました。銃声が鳴り止み、気がつくと7人の中国兵が死んでいましたが、私たちは皆無事で傷すら負っていませんでした。残った中国兵たちはなお篭城を続けました。私たちは村人からスコップを借りると屋根の上に登り、家の持ち主の了解を得ると屋根に大きな穴を掘りました。チベットでは壁はもちろんのこと屋根も泥で作るのです。穴を掘り終わると、火を付けた枯れ草を投げ込みました。一人の中国兵が逃げ出した他は皆焼け死んでしまいました。
この勝利にチベット人たちは大喜びで、村人が草原に羊毛の色鮮やかなじゅうたんを引いて、ご馳走をこしらえてもてなしてくれました。焼けてしまった家の持ち主には
、お詫びにヤクが与えられることになりました。サンペルは、村人たちに家の持ち主を助けるように命じて、「チベットが勝利を収めた暁には、必ずや再び家を作ろう」と約束しました。
村人の話しから、村より馬で3時間ほどのペティンには300人程の中国兵が駐屯しているということが分かりました。フンドゥップの家に戻って仲間と共にすぐに攻撃をしようと思いましたが、村に戻ると香が焚かれており、同じようにご馳走が用意されていたのでした。村人たちは私たち9人を英雄であるかのように扱ってくれ、腹一杯になるまで食事を勧めるのでした。「こんなに嬉しいことは久しぶりだ。いくらでも応援するから、頑張って中国を倒してくれ。」食料も沢山調達してくれており、私たちは村人の協力を大変心強く感じました。300人の義勇団の食料をどうするかが、当座の一番の問題だったからです。
次の日の早朝、私たちは300人の仲間と共に、奇襲を掛けるためにペティンへ馬を走らせました。ところが、中国兵は既に移動した後で喪抜けの空だったのです。地元のチベット人の話しによると、ペティンよりさらに2時間ほどのカツェに夜のうちに移動したということでした。私たちの攻撃を察知して200人程の中国軍が駐屯しているカツェへ援軍を求めに行ったのは間違いないようでした。「どうして私たちの行動がこんなにも早く敵に知られてしまったのだろうか。誰かスパイをしている者がいるに違いない。そいつを探さなければだめだ」とサンペルは言い、早速幾人かがペティンの村人に尋ねに行きました。スパイをしている者は簡単に見つかりました。ペティンから15分程離れたサナという村にそのスパイの家を突き止めると、家の近くを張ってスパイの帰りを待ちました。しばらくして、スパイが戻ってきたところを拘束し、そのまま何日か外と接触出来ないように自宅に軟禁状態にして置いたのです。
何日も連絡の取れないことを不審に思ったのか、或いは用事があったのか、ある日、15人の中国兵がサナのスパイに家へとやって来ました。私たちは近くの家々の陰に隠れて待ち伏せしており、中国兵が近づいてくるのを知ると、サンペルの合図に従って、中国兵に一斉射撃を浴びせました。幾人かはもんどりを打って倒れ、地面に転がりました。中国兵は不意を突かれて右往左往するばかりで、私たちが家陰から飛び出すと、わっと逃げ帰りました。カツェに援軍を求めに行ったと見当を付けた私たちは、戦闘に有利な場所に移動し、迎かえ撃とうということになりました。私たちは兵士の数や武器の質や量では遥かに中国共産党軍に劣っていましたが、土地に詳しかったため、中国に大きな打撃を与えることができたのです。山が両側から押し迫った渓谷に義勇団全員で移ると、山の両斜面に仲間を配置して、迎かえ撃つことにしました。谷は少し手前で大きくカーブしており、入り込んでしまうまでは、敵に私たちの姿は目に付かず、さらに谷間には渓流があり、中国兵にとっては足場が悪い上、私たちは楽に標的を狙えるという絶好の場所でした。
3時間ほどが過ぎると、見張りが戻ってきて、200人程の中国兵がこちらへ向かってくると伝えました。緊張した小時間が過ぎると、やがて眼下に中国兵が現れました。サンペルのライフルがまず最初に火を吹いて、一人の中国兵が河に倒れ込み、飛沫が上がるのを見ると、私も夢中でライフルを撃ち捲りました。中国兵も盛んに撃ち返し激しい銃撃戦が開始されました。何時間続いたのでしょうか。短かったような気もするし、とても長かったような気もします。初めての大きな戦闘で、私はとても緊張していました。銃声が鳴り止み、再び静かな谷に戻った辺りの様子に気が付くと、中国兵のほとんどは河に倒れ込んで、息絶えていました。他の者たちは皆逃げ去ったいました。私たちの方は、4人が肩を撃たれただけでした。河に下りると死んだ兵から銃と弾薬を取りました。
フンドゥップの村へ戻る途中、先のゲトゥカワの戦闘で全滅した中国兵たちが駐屯していた宿舎に立ち寄りました。中国兵はツォモリン僧院から土地を奪って宿舎を建てていたのです。宿舎の中にはチベット人たちから没収した日縄銃が50挺ありました。私たちはそれも手にすると村へと戻りました。戦闘にも勝利を収め、大量の武器も手に入った私たちは、喜びに溢れて村へと凱旋しました。チベットを我々の手に取り戻す日も遠くはない。再び、自由でのどかな生活が戻ってくるだろう。私は疲れも感じないほど高揚していました。
家に帰ると勝利の報告に村人が喜んでくれました。母も顔を上気させて喜んでくれ「私は今日ほど息子を産んだことを嬉しく思ったことはないよ。お前たちは私の誇りだよ」と言ってくれました。やはり盛大な宴が設けられ、兵士たちも皆勝利に酔いしれて、中には歌い出す者もいました。馬も草原に放して、たっぷり休ませました。
私の馬は、ダークブルーの雄馬でした。とても良い駿馬で、ユドップという名前でした。ポニーも1頭いました。焦茶いろの雌で目と口の周りが白くギャモという名前で呼んでいました。ポニーといっても馬の大きさほどあり、この後、北のナム湖に行くときに乗っていました。
何日かが嵐が過ぎ去った後のように平穏の内に過ぎました。私たちは見晴らしの良い丘に何人かの見張りをいつも立てていましたが、ある日、こちらへ沢山の中国人が向かっているという情報が入りました。「沢山の中国兵だ。少なくとも2万はいる」皆それを聞くと青ざめ、どうしたものかとざわめきました。サンペルだけは冷静さを保ったままで「まあ、あわてるな。奴らは歩いて来ているのだから、到着まで優に半日はある」と諭しました。ペンポには当時車が通れるような道はなかったのです。「二万もの兵に対抗出来るような人数もなければ、武器も弾薬もないじゃないか」誰かがこう言うと、サンペルは笑いながら「なに、石を使えばいい」と言いました。サンペルの考えはこうでした。前と同じように両側が狭まった渓谷の上に大きな石を準備して待ち伏せして、ちょうど中国兵が下にやってきた時に、石を落とすのです。原始的な方法ではあったけれども、皆賛成して、馬で谷へと向かい、大急ぎで渓谷から大きな石をいくつも山の斜面へと運び上げました。
中国兵は日が暮れてしまってから、その渓谷へと足を踏み入れました。私たちはタイミングを見計らうと、一斉に石を転がしました。何百もの石は大きな音を立てて、ものすごいスピードで下の渓谷を歩く中国兵目がけて転がり落ちました。一瞬にして彼らはパニックに陥り、方角も分からず乱射する機関銃の音や悲鳴が谷中に響き渡りました。サンペルの作戦は大成功で、私たちは少しの被害も被らず、中国兵を退散させることが出来たのでした。
しかし、またもや次の日の早朝には、3万人もの大軍がやってくると見張りに立った者が慌てふためいて村に戻ってきました。今度のサンペルの考えはこうでした。
「まず、我々の全部の馬を山に上げよう。それを見た敵は我々が逃げたと油断するだろう。そのまま奴らを野営地のレティンまで追い詰めるのだ。レティンに入ってしまえば、行き詰まりで、どこにも行くところがない。そして背後から奇襲を掛けるのだ」
サンペルは盗賊の頭だけあって、危機の時には色々と機転が効くのでした。皆サンペルのアイディアに感心し、準備を始めました。次の日の早朝、400匹の馬を一頭ずつ縄で繋ぐと三人の村人に引かせて山の放牧地へと登らせました。その様は遠くから見れば、まるで私たちが移動しているようでした。
果たして、中国兵たちは義勇団が野営していたレティンまでやって来ました。私たちは民家や岩陰に息をひそめて彼らが全て入ってしまうのを待ちました。そして、後ろから一気に攻め入ったのです。油断していた中国兵は中国軍は戸惑って狭い土地で右往左往しました。漸く体制を立て直した時には既に遅く、私たちは大方を殺して、回りを包囲していました。戦闘は朝11時から夜中まで続きました。私たちは勇敢に戦い、中国共産党軍に大きな被害を与え、残った者は皆逃げていきました。この戦闘で、サンペルが負傷してしまいました。大砲の弾薬で砕けた石が左肩を直撃したのです。傷は思ったより深く、サンペルはそれから二度と銃を握れませんでした。サンペルは普段から恐れるということを知りませんでした。岩陰に隠れて身を守るということをせずに、勇敢に敵に向かって行きました。首に掛けた仏様の入った銀の箱が守ってくれると強く信じていたかです。仲間で同じお守りを持つものに「霊験あらたかなお守りがあるというのに、どうして隠れる必要があるのか」といつも言っていました。石が当たった時ですら、仏の御加護で本物の弾薬でなく石で済んだのだと信じていました。私たちは戦闘が終わると馬を上げていた山に登り、そこで食事を取りました。疲れ果てていた私は、横になるとそのまま
眠りについてしまいました。
次の日、私たちはそこから一時間ほど先のコークッパに移りました。サンペルは、昔強盗をやっていた経験から駐屯するのに都合の良い場所を沢山知っていました。コークッパは谷合にある平らな野原で、馬に草を食ませるのにもってこいの場所でした。谷には湧き水もありました。私たちはそこにテントを張りました。
次の日の朝、見張りがまた中国がやってきたと慌てて戻ってきました。敵はやはり大軍だと知り、私たちは馬に飛び乗り、中国兵をチュブン峠で迎かえ撃ちました。夕方まで戦闘は続き、かなりの被害を与え、中国兵はまもなく退散しました。こちらは何の被害もありませんでした。私たちは疲れ果ててコークッパのテントに戻ると、食事を取り、そのまま眠りに落ちました。またすぐに中国軍が攻めてくるとの不安で夜はいつもより多い見張りを立てました。
次の日の朝、また中国兵がやって来たという見張りの叫びに目を覚まし、ライフルを抱えて馬に飛び乗りました。情勢は悪く、今度は私たちが押されて、退散しなければなりませんでした。私たちは4時間ほど離れた北のパクサに移ることを決めると、馬にテントを積み、大急ぎで移動しました。
◆ナム湖
弾薬はほとんど底を尽き掛けていました。連日の戦いでの疲れと中国兵の攻撃が頻繁になってきたことの心細さから、様々な思いに胸は揺れていました。『四つの河六つの山脈』はどうしているのだろう。私たちは『四つの河六つの山脈』が中国に負け、インドに逃れたことを知りませんでした。ダライ・ラマ法王はどうしたのだろう。無事にインドに着かれただろうか。外国の援軍はどうなったのだろうか。いや、それとも中国に捕まってしまったのだろうか。村はどうなっているだろう。母たちはどうしているのだろう。中国に捕まってしまったのだろうか。戦闘と移動で疲れているはずなのに、その晩なかなか寝付けず、様々な不安が胸をよぎるのでした。姉はその時すでに捕まっていたことを私は知る余地もありませんでした。
私たちは更に北上を続けました。中国が作ったアムドからラサへの幹線道路に夜中に出て、ネンチェンタンラ山脈の標高5200メートルのチャンム峠を越え、さらに一晩掛けてナム湖に出ました。チベットで二番目に大きいと言われるナム湖は、底まで透き通った真っ青な水を湛えていました。果てしなく広く、視界は見渡す限り遥か彼方まで青い湖に占められ、どこにも湖の端は認められませんでした。周りは柔らかい草が生い茂り、ヤクの群れが静かに草を食んでいました。完全に遊牧民の土地に来ていました。農作物は一切取れない土地です。サンペルは「ここでは、ツァンパはない。羊、ヤクの肉、チーズなどを食べるしかない。」と言い、私たちは遊牧民から食料を調達せねばなりませんでした。
私たちは草原に12のテントを張り、1つのテントには約25人が寝起きしていました。2つのテントから1人の代表を選び、全部で6人が食料の調達をすることになりました。私もその中の1人でした。水はナム湖にふんだんにあるため、問題はありませんでしたが、食料はどうしようもありませんでした。遊牧民のテントに行って事情を話しては羊を分けてもらい、時々ヤクも貰うことができました。けれども、家畜を屠殺することに強い抵抗を感じ、嫌で嫌で堪りませんでした。自分の腹を満たすためだけに殺生をするという思いが日々積もり、次第に食料調達係をすることがひどく憂鬱になってきました。初夏のチベットの空はどこまでも青く、寝転がって空を度々眺めては、空から食料や弾薬が落ちてきたらどんなにいいだろうと思っていました。
偵察機が上空を飛ぶのを何度か見ました。このままナム湖にいるのは危険でした。武器の不足は深刻な問題で、今攻撃されたらひとたまりもありませんでした。ある夜サンペルは皆を集めてこう言いました。
「常に食料問題に悩まされ、武器もとっくに枯渇してしまっている。このままでは、全滅してしまうだろう。アムドのアタ・ツァマにパルデンという強盗がいる。昔からの知り合いだ。数百人を引き連れてゲリラ闘争をしていると聞く。武器もふんだんに在るはずだ。合流して一緒に戦おうと思うがどうだ」皆賛成しました。「その前に、タクポチュシに政府の武器倉庫がある。そこを襲って武器を手に入れてアムドに向おう。アムドまでの小競り合いがあるだろうから」
サンペルは、まずアムドのパルデンのところに使いをやることにしました。私たちはタクポチュシに移り、夜中に忍び込み、武器を捕獲しました。一足違いで、そこに中国共産党軍がやって来るとの情報が入り、5時間ほど離れたニンチェンタングラ山脈のラナンという山に移りました。テントを張り、幾日か野営していたのですが、やがて、中国軍の斥侯隊がやってきたのです。17人程の斥侯隊をすぐに撃ち倒して、ほっとしているのも束の間、すぐに大勢の中国共産党軍がやってきました。暗くなるまで戦闘は続きました。苦しい情勢の中、何とかしのぎ、殺した兵士から弾薬と機関銃を手に入れました。けれども、カム出身の男が死に、セラ僧院の僧侶ガワン・プンツォクと政府の兵士ツルティムが負傷しました。
ネンチェン・タングラ山脈とナム湖の間は、広々とした草原が広がっていました。私たちはタシドと呼ばれる湖のほとりに出ると、そこにはセンパ・テージクマという部族の遊牧民が沢山いました。彼らは私たちの到来を大変喜んでくれました。遊牧民の長である老人はなかなか意気盛んで、「私たちの部族も一緒に戦いたい。武器も沢山もっておる」と申し出ました。彼らが加わることで私たちは1000人程の部隊になりました。食料も武器の問題も解消し、部隊の士気は上がりました。
私たちは守り易い土地にいました。東側には険しいニィンチェン・タングラ山脈、西側にはナム湖があり、中国兵が攻めてくるところは限られていました。私たちは草原の北側と南側を二手に分かれて守ろうということになりました。
一週間後の早朝、大勢の中国兵が南北側から攻めて来ました。あの広い草原が人で一杯になる程の数の中国兵でした。東側を守っていた遊牧民たちは、数時間しか持ちこたえることが出来ず、昼前には全滅したという知らせが入って来ました。私たちの方も苦戦していました。チベット人一人に中国兵15人という割合です。やがて反対側からも遊牧民を倒した中国兵たちが攻めてきました。挟み撃ちされては、どうしようもありませんでした。仲間たちが撃たれては、湖に投げ込まれました。馬やヤクも殺されて湖に落とされ、遊牧民の女性たちは子供を抱いて湖に飛び込みました。美しい深い青色を湛えていた湖は、いつしか血で真っ赤に染まっていました。サンペルは、大きな声で「山へ逃げるぞ」と皆に声を掛けると、ネンチェン・タングラ山脈へ向けてすごい勢いで馬を駆けさせました。私も急いでポニーに飛び乗ると、一目散にサンペルの後を追いました。中国兵の目につかない谷間の窪みに入り込むと、上から湧き水が流れ落ちてくる崖をポニーを引き上げながら登らねばなりませんでした。水が絶えまず流れ落ち、足場は不安定で少し這い上がってはずり落ち、それを何度も繰り返しては登り続けました。ようやく山上に辿り着いた時には、手の指は血だらけで、ほうほうの態でした。仲間は100人ほどに減っていました。ナムギャル寺がらずっと一緒だったダムチュウがいませんでした。彼は捕えられ、その後刑務所で1962年に亡くなりました。
食料は全くありませんでした。皆取るものも取り合えず、逃げるしかなかったからです。夜になるのを待ち、チャンモ峠に戻ることになりました。途中で遊牧民に逢い、食料を分けてもらい、その場をしのぎました。夜中、馬に乗り、とぼとぼと峠を目指しました。翌朝、中国の偵察機が上空を飛ぶのが見えました。飛び去る偵察機を見ながら、とても悲しい気持ちになりました。私たちの居場所を突き止めて、すぐに中国はやってくるでしょう。けれども、私たちには銃に詰める弾薬どころか今晩の胃に入れる食料すらないのです。皆憔悴しきっており、これからどうしたらいいか皆目分からない状態でした。誰かが再びペンポに戻ろうと言いました。「ペンポのミキカというところに『四つの河六つの山脈』が野営していると遊牧民から聞いた。確かなことはよくわからないが、行ってみようではないか。彼らと合流して戦おう」多くの者からそうしようという声が上がりましたが、サンペルは賛成しませんでした。サンペルの肩の具合は益々悪化しており、化膿しひどく膿んでいました。
「私はもうまったく役にたたない。ただのお荷物だ。私は降参し、中国軍に自首するよ。皆も解散しよう」一瞬、水を打ったように静まり返りました。皆言葉を失っているところへ、カム出身のラワン・タルがまず最初に口を開きました。「そんな悲しいことを言わないでくれ。私は、祖国チベットのために、妻や子供を残して村を出たんだ。生半可な覚悟ではない。チベットのために殉死するつもりですらいる。それを今さら国に戻れとは、そんな悲しいことを言わないでくれ。俺はあくまで最後まで戦う」私も同じ意見でした。「私も最後までチベットのために戦う覚悟だ。一緒にペンポに戻ろう」
意見は二つに分かれ、サンペルとサンペルの子供たち、他に二三人の兵士が抜けることになり、私たちは全部で75人ほどの義勇団として戦っていくことになりました。
◆ペンポを目指して
私たちは、次の日、サンペルたちと別れました。それっきり、サンペルと二度と逢うことはありませんでした。サンペルは北上し、中国に見つかった場合は降参するつもりだと言っていました。私たちは『四つの河六つの山脈』との合流にわずかな希望を抱いて、ペンポを目指すことになりました。地元の遊牧民を道案内に雇い、夜中に幹線道路を渡るつもりでした。今、見つかってしまったら元も子もありません。弾薬はほとんどなかったのです。
闇に紛れて少しづつ、馬を進めていきました。私のポニーにはセラ僧院のチャンパ・ユンテンとアユの二人の僧侶が一緒に乗っていました。3人の重みでポニーは疲れたのか、とぼとぼと足を運んでいました。幹線道路までは後少しの道乗りの筈でした。
ところが、遊牧民は道を誤ってしまい、中国共産党軍の空港へと迷い込んでしまったのです。突然の警備兵の放つ銃声に驚いたときには後の祭でした。私たちは四方八方に逃げ去りました。照明弾が背後で打ち上げられて、辺りは突然明るく照らし出され、私は必死でポニーを走らせ、ニィンチェン・タングラ山脈へと戻りました。中国兵の追跡をなんとか巻き、しばらく進むと遠く山間に小さな明りがポツンと灯っているのが目に入りました。私たちは遊牧民の焚く火だと思い、そちらに必死でポニーを飛ばしました。やがてテントに近づくと、ポニーから降りて中に入って行きました。中には5人の家族が住んでいました。私たちが昨日から何も食べてないことを知ると、遊牧民の家族はツァンパと熱いミルクを一杯差し出してくれました。けれども、のんびりしているわけには行かず、中国共産党軍の追手を恐れてすぐに出発しました。しかし、この暗闇の中を一体どこに行けばいいのか全く見当がつきません。心細い思いをしながら、ニィンチェン・タングラ山脈を彷徨っていました。
しばらくいくと、仲間に出会うことができました。ガンデン・チュユル寺の僧侶2人でした。互いの無事を確かめ合い、一緒に山の奥へと入って行きました。遠くに遊牧民のテントから洩れる灯りがあるのを認めると、私たちはそちらの方へ進みました。テントの側まで近づくと、犬が私たちに気付いて盛んに吠えてきました。中から人が出て来て、私たちは誘われるままにテントの中へと入りました。熱いバター茶を碗に注いでくれ、勧めると、遊牧民は「この山を一時間程上に登ると大きなテントがあるという話しだ。チベット人ゲリラが野営しているらしい。400人ぐらいいると言っていた」と教えてくれました。『400人のゲリラがいる』この話を聞いて私たちは飛び上がらんばかりに喜びました。『四つの河六つの山脈』に違いない。希望が見えて来たように思いました。私たちはテントを後にすると急いでその方向へ登って行きました。期待に胸が熱くなり、嬉しくて仕方ありませんでした。
小一時間ポニーとともに勾配を登り、大きな焚火を目にすると私たちは『四つの河六つの山脈』に間違いないと確信し、喜び勇んで火の方へと進んでいきました。けれども、そこにいたのは『四つの河六つの山脈』の兵士ではなく、疲れきった私たちの仲間が50人程いるだけでした。私は落胆しましたが、それでも仲間との再会は嬉しいものでした。75人いた仲間は、55人に減っていました。
「ここにこのままいては危険だ。いつ中国兵がやってくるかわからないぞ。やはり早く幹線道路を越えて、向こう側のバガダムの山へ逃れよう」そう決めると交代で見張りに立つことにして、私は疲れのせいかすぐに眠りに落ちてしまいました。
次の日の早朝5時には出発の準備に取り掛かりました。ちょうどその時「中国人がやってくるぞ」と遊牧民が声を張り上げました。もう絶望的でした。私たちにはほとんど弾薬は残っていませんでした。逃げようにも敵はすぐそこまで迫って来ており、どう進路を取ったところで直に捕まってしまうでしょう。私たちは腹を括って、最後の最後まで戦おうと決め、馬を安全なところに移すと、大きな岩陰に身を潜めてじっとしていました。心臓が高なり、息苦しさを覚えながらも、ただじっと岩に背を持たれて遠くの山を見ていました。これが最後の戦いになるだろうと思うと祈らずにはいられませんでした。どうか来世も再び人として生まれて、悟りへの道を少しでも究めることが出来ますように。人をより多く助ける人に生まれますようにと祈願し、仏を賛える経を静かに唱えていました。山の天候は変わりやすく、そうしているうちに雨雲が立ちこめ、やがて大粒の雨が降り出しました。雨はすぐに雹に変わり、辺りはすぐ真っ白になってしまいました。幸いなことに、その後、霧が出始め、何も見えない状態になってしまったのです。私たちは、今だとばかりに馬の手綱を取ると、中国軍が足止めをくらっている間に急いでバガダムへと馬を走らせました。
バガダムへ行くためには、どうしても幹線道路を横切らなければなりません。真夜中になるまで身を潜め、辺りを注意して、道路を渡り始めました。けれども、道の途中まで差し掛かった時に、運悪く中国共産党軍の車に見つかってしまったのです。私たちは軍用車のライトに照らし出され、機関銃の一斉射撃を浴びました。私はポニーを夢中で走らせ、そのまま道路を突っ切り、山へと掛け上がりました。どれくらい走ったでしょうか。ポニーが疲れ果てて足を止めてしまうと、私はポニーから降りて、手綱を引いて山を登りました。とうとう、私とポニーだけになってしまいました。私もポニーもくたくたで、憔悴しきっていました。重い足を引きずりながら、山の頂上付近まで来ると、ポニーはもう一歩も歩かなくなりました。私は座り込むと、ポニーの首に紐を結び付け、紐の端を自分の腕に巻つけて、そのままポニーに体を預けて深い眠りに落ちて行きました。
翌朝目が覚めると、ポニーはすでに立ち上がって周りの草をゆっくりと食んでいました。仲間の安否が胸をかすめました。昨夜のあの激しい機関銃の前に一体何人が生きのびることができたでしょうか。弟たち、仲間の一人一人の顔が浮かびました。悲しみと疲れ、空腹感で私は起き上がることも出来ずにいました。一握りのツァンパすら残っていませんでした。私にあるものと言えば、ぼろぼろになった服、擦り切れた靴、たった一つの弾丸しか残っていない銃、そして小さい仏像の入ったお守りだけでした。私もこのまま死んでしまうのだろうかとの不安がよぎりました。すると突然、ポニーが駆け出したのです。私は立ち上がるとポニーが行くままについて行きました。5分程進んだでしょうか。そこには、仲間のチベット政府の兵士だった者と彼の馬がいました。私たちは再会を心から喜び合いました。彼から少しツァンパを分けてもらい、それを口にすると元気が少し出ました。なによりも仲間がいるということは本当に心強く感じました。しかしほとんどツァンパも残ってなく、弾薬も2人合わせて3発しかありませでした。
「あるだけ打とう。それだけだ」彼はそう言いました。二人で山の頂上に登ると向こう側にバガダムの白い家が見えました。果たして、中国人が既に没収して住んでいるのだろうかとの不安がよぎりましたが、他に行く道はありません。意を決して山を下っていると谷間に流れる河の側を渡っている10人程の集団がいました。近づくにつれて自分たちの仲間であることが分かりました。私たちは馬を必死で駆けさせ仲間の元へと向かいました。全部で14人しか仲間はいませんでした。弟たちはその中にいませんでした。バガダムの白い家にチベット人が住んでいることを知ると、私たちは持ち金を全て出してツァンパを買いました。
故郷のペンポに戻る道をひたすら進んで行きました。ペンポに戻れば少なくとも食糧難だけは解決できる、そう思って馬を急がせました。途中のウルルンは豊かな土地だったので、いくらかの食料がもらえる筈だということになり、そこを通りツァンパをもらいました。もう一銭のお金も手元にはありませんでした。ウルルンにてしばらく休息を取っているときのことでした。村人が「中国人が来たぞ」と叫びながら野営地に飛び込んできたのです。中国兵たちはすぐそこまで迫っていました。靴をはく暇もなく、お守りを首に掛け、銃を肩に下げると急いでポニーに飛び乗りました。中国兵の撃つ弾丸がすぐ脇を通り抜けます。必死の思いでポニーを駆けさせ逃げました。また仲間たちとはぐれてしまいました。皆無事に逃げただろうか。それとも、もう私しか残っていないのだろうか。
私はひたすらペンポへと進むことで悲しみを紛らわせていました。そして私の故郷にほど近いナモという村に辿り付きました。そこの村人たちは私の家族のことをよく知っていました。「お前の母親、姉は中国に捕まってしまったぞ。中国人たちはお前が降参すれば母たちを釈放すると言っている」私は母たちのことを思うと辛くて仕方ありませんでした。母は私がこうしてチベットのために戦うことを応援してくれていました。「必ずチベットを取り戻しておくれ。ダライ・ラマ法王が再びチベットに戻れるためにも必ず勝っておくれ」そう母は言っていました。けれども降参しなければ母たちは囚われたまま苦しみ続けねばならないのです。私は降参することに決めました。長い戦いの日々でした。眠れない日々、中国兵の出没に怯えながら馬を進めた日々。私にはもう食べるものもなければ、弾丸もなく、雨が降ってびしょぬれになっても着替える服すらありませんでした。
◆降参
次の日、ペンポに戻ると今は中国人たちが牛耳っている役所に向いました。ペンポは中国人の役人と兵士だらけになっていました。私は頭に銃を掲げ、降参の意志があることを示す仕草をしたまま、役所の中に入って行きました。中国人の反応は以外でした。捕まるかと覚悟していたのですが、彼らは笑い掛けながらこう言ったのです。「戦闘は疲れただろう。まあ、ゆっくりしたまえ」私は自分の耳を疑いました。彼らは握手さえ求めてきました。
「一つ質問がしたい。一緒に戦っていた他の仲間はどうしているのか」「皆ばらばらになってしまったのでわかりません」と答えました。彼らは「早速、母親を釈放しよう」とにこやかな雰囲気を崩さず続けました。私は姉のことも気掛かりだったので「姉も釈放してください」と頼みました。姉には11才と9才になる子供がいたのです。「ラサの刑務所にいるから今直ぐというのは無理だが、できるだけ早く家に帰れるように手を打とう。まあ、ひさしぶりに家に帰るのではないか。しばらく静養してゆっくりするといい。明日また家に行くとしよう」
私は中国人のあまりにも予想と異なる態度にいささか戸惑いを感じながら、家へと戻りました。
家には一緒に戦った2人の弟、ニマ・ダクパとツォニがいました。はぐれてしまってから安否が心配で仕方なかったのですが、2人とも母のこと知り3日程前に降参していました。戦闘には加わらなかったもう1人の弟、イシェ・サムテンもいました。母はその日の夕方に釈放されて戻って来ました。母は馬小屋の中に入れられていたのです。すっかり体調を崩し、弱り切った母との再会は心が押し潰されそうに辛いものでした。兄弟で母を抱きしめては涙に暮れました。母は「私のことは気にしなくてもいいのだよ。お前たちが無事ならばそれでいいのだよ」と繰り返していました。放牧地に行っていた父も帰ってきて、私たちはいろんなことを話しました。『四つの河六つの山脈』に加わっていた弟ソナム・ペンパが捕まりラサの刑務所に入れられたこと、ダライ・ラマ法王が無事にインドに亡命したことを知りました。法王は私たちの頼みの全てでした。間もなく法王が助けて下さる、こんなひどい状況から必ず救って下さる。そう信じて止みませんでした。
次の日、早速中国人の役人と沢山の兵士たちが家にやってきました。
「あさって集会があるので必ず出席するように。お前には皆の前で話してもらいたいことがある。どうして戦争を始めたのか。どんな苦労をしたのか。そしてどうして降参したのか。」中国人の役人は命令口調でこう言いました。「私は口下手ですし、話すこともそんなにありません。」私は辞退しましたが、彼は引きませんでした。「いや、ぜひ話して欲しい。お前が話せば、まだ戦闘を続けている者が心を変えて降参するだろう。共産党が正しいということと共産党に従わなければ他に行き場がないということを皆に伝えればいいのだ。共産党には絶対服従すべきで、昔のように仏教やダライ・ラマに帰依しても仕方無いということを話せばいいのだ」私は唖然として黙っていました。「第一、降参は村のためになる。戦いが続けば、村人は苦しむばかりだ。中国共産党の下でおとなしく暮らすことが最も良い策であることはお前も身を持って知ったことだろう。そう説明すればいいのだ」従わないわけにはいきませんでした。中国人たちは私の承諾を再三確認して引き上げて行きました。
集会の日、私は気が進まないまま出席をせねばなりませんでした。中国人たちは本当に集会が好きなようでした。一体、その後幾度出席せねばならなかったことか。私は早速名を呼ばれ皆の前で話すことになりました。
「共産党の政策は思いもよらずいいものでした。母を釈放し、姉の釈放を約束してくれました。まずここでお礼を述べたいと思います。ありがとうございます。私と一緒に戦った友たちは今どうしているかわかりません。生き残っている者は少ないと思います。彼らのすみやかな降参を望みます。中国の人達の規律、対応がとてもいいのを実感しています」私はそれだけ言うと席を下りました。
中国人たちはそれでも満足したらしく、後で食事を振る舞いました。けれども、まがりなりにも中国人の好意を受けたのはそれが最後でした。中国人たちは次第に本性を現しはじめ、厳しくなってきました。「お前の家はろくでもない者の集まりだ」そう言って嫌がらせをするようになったのです。中国人たちは毎日のように家に押しかけました。そして家の中を物色するのでした。
「お前の家にある馬等の家畜の数、お碗の数まで紙に書け。次の集会のときに民衆の前で一つ一つ吟味しなければならない。これらの物はお前たちが苦労し、骨を折って手に入れたものではない。民衆から搾取したもの、取り上げたものである。お前たちのような者を富豪民というのだ。加えてお前たち兄弟は中国人を殺した。お前たちを解放しに来た恩ある者たちをだ」
中国の役人、兵士たちはわめきちらし、私たちを責め続けました。母は心労が募ってだんだん寝付く日が多くなりました。そんな母を見る度に心が痛みました。
しばらくすると村中からありとあらゆる農具が没収されることになりました。
「農具は武器と同じである。農具を保持するものは武器を保持するのに等しい。全ての農具を共産党へ差し出すように。隠し持っていた者はすべて監獄行きである」
しかし農具がなければ、畑を耕すことも草を刈ることもできません。村人たちはなんとかこの横暴な注文を取り下げてくれるように、陳情に行きましたが無駄でした。「農具無しでは私たちは仕事をすることが出来なくなります。村では食えなくなるものが続出してしまいます」
「お前たちが余計に働けば済むことだ。昔はみな農具無しでやっていたではないか」中国人たちは全く取り合ってくれませんでした。そして全ての農具が取り上げられてしまったのです。
姉の釈放の日はいつまで経っても来ませんでした。心配した母は私と弟イシェ・サムテンに、姉と弟のソナム・ペンパの様子を見て来てくれるようにと頼みました。私は役所に出向してなんとかラサに行く許可を取ると、姉たちに差し入れするツァンパと干肉を持ってラサへと向かいました。馬に乗ってラサへ着くと、寺や僧院だった建物のほとんどが刑務所に使われていました。
まずソナム・ペンパを尋ねました。あまりにも酷い状況下に暮らしていました。面会だと断わって刑務所に入ると、畑の中で牛馬のように働かされている弟の姿が見えました。食事も録に与えられてないらしく、痩せこけた弟は肥料を山積みにした荷台をその細い肩で引っぱって畑へと散布していました。私は村から持ってきたツァンパと干肉を渡そうと思いましたが、直接話しをすることは出来ません。看守に頼んで見たのですが、むげなく断わられてしまいました。一言も交すことが出来ないまま私は刑務所を去らねばなりませんでした。弟には10年の懲役が下りていました。そしてそれがソナム・ペンパを見た最後でした。まもなく餓死してしまったのです。食べれる物ならば、草や虫すらも口にしたと聞きました。
ナムギャル寺の老僧ニュンダクとイシ・チュンペルも刑務所にいると知り、ツァンパを差し入れに行きました。老人と若者が入れられている刑務所は異なっていましたが、労働は同じように課せられていました。刑務所には他に知り合いの僧侶も沢山いましたが、恩師であったトプテン・テンダル氏は行方がわからないままでした。そして姉にも逢えませんでした。
村に対する締め付けは厳しくなる一方でした。村人全員が参加せねばならない集会がいくつも開かれました。「悪名高き三者(ガタチェンボスム)とは何か」あるとき中国人はこう聞いてきました。みな何のことかさっぱりわかりませんでした。
「ダライ・ラマ、僧院、貴族たち特権階級の三者のことだ。こいつらは我々の敵である。人民のために良き計らいをするなどとほざきながら、実際は搾取していただけなのだ。こいつらを批判せよ。分裂主義者を批判せよ。糾弾し、抹殺せよ」
「それぞれの家の収入と財産を共産党に提出しなければならない。月ごとの収入、年間収入、家畜の数、取れるミルクの量、畑から取れる穀高、すべて漏らすことのないように党に提出せよ。トルコ石や珊瑚のピアス、ネックレス等の装身具などの贅沢品も全て党に提出せよ」
中国人たちは家にやって来て虱つぶしに調べました。「牛は何頭いるのか。ヤクは何頭いるのか」威圧的な態度で中国人たちは怒鳴り立てました。憂鬱で家全体が暗く沈み込む日々が続きました。いつしか誰も全く笑わなくなりました。そして自由に仕事をすることもできなくなりました。羊の世話をしていた若い3人の娘をどこか別の場所に送り、代わりに母たちのような年寄りにその仕事を与えました。
私は中国人たちのこまずかいをしなければなりませんでした。本当に沢山の集会が開かれました。「昔のチベット政府が発行した証書が家にあるものは残らず出せ。出さなければ糾弾の対象になるだけだ」中国人たちは証書を出さなかったソナム・ゲルポを集会のとき糾弾し、散々殴った挙句に刑務所に入れました。「こいつのようにまだ白状していないものがいるはずだ。『悪名高き三者』との関係を未だに続けているものは容赦はしない」
ラサにいたデプン寺の叔父も刑務所に入れられ、家を没収されていました。「お前たちの財産は苦労して手に入れたものではない。すべて人民が汗水流して作ったものをお前たちが搾取したに過ぎない。本来ならば人民のものだ。故に、我々人民政府にその権利がある」
父は長く放牧地に行っていました。私は全ての集会に出席せねばならず、家の責任は全て私にのしかかってきました。母は私を頼みにしているのが痛いほど感じました。日毎に衰えていく母を見る度に「大丈夫だから。お母さん、何も心配しなくてもいいよ。もうすぐダライ・ラマ法王が再び独立を勝ち取って下さる。中国人はいなくなるから。こんな生活はきっと長くは続かない」と励ましていました。
だんだん批判集会は回数が増えてきました。いつも一人の人が地面に跪くか中屈みの姿勢で下を向いていました。そしてみなで糾弾するのです。理由はダライ・ラマ法王や仏教を信仰しているだとか、共産党に反抗しているという類でした。子供が親を糾弾するといった例も少なくありませんでした。私は「ああ、いつか母もこんな目に逢うのだろうか」と心配せずにはいられませんでした。私はどうなろうとも構わない。どうか母が平穏に暮らせますように。昔のように平和に暮らせたらとそれだけが願でした。
ある日、姉が批判の対象になる日がやってきました。姉はラサの刑務所から後手に縛られて馬に乗せられてやってきました。久しぶりに見た姉は痩せこけて別人のようになっていました。姉は民衆の前に連れてこられ、中屈みの姿勢でじっと糾弾に耐えていました。心配で母や父も来ていました。「お前の家族はとんでもない奴らだ。兄弟の内三人も中国人に逆らって銃を向けた。お前に関係が無いとは言わせない」姉は石で殴られてふらふらの状態でした。村人の中から姉と関わりのあった人が前に連れ出され、姉を糾弾する役をしなければなりませんでした。断わることは出来ませんでした。嫌がれば、今度はその人が糾弾される側になるのです。しかたなく、人よりも多くツァンパを食べていたなどの糾弾理由を言って、姉を殴らねばなりませんでした。姉の糾弾は二日に渡って続けられました。中国人たちは小さな女の子まで連れてきて、罵声の浴びせ方、手の叩き方、足の踏み鳴らし方を教えていました。小さな子までが姉に石を投げつけねばなりませんでした。家族はみな涙が止まらず、断腸の思いで集会を見守っていました。
つづく→ |