チベット老僧の教え

[苦しみとは何か]by Geshe Sonam Rinchen

 

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*この教えは、亡命チベット僧ゲシェ・ソナム・リンチェン師の法話を和訳したものです。

[5]苦しみとは何か

 自ら苦しみたいと思っている人は誰もいない。だが、私たちは知らず知らずのうちに苦しみにとらわれ、落ち込んでいたりする。これはどうしてだろう。それは、苦しみとその原因を正しく知らないからである。それ故、苦しむのを防ぐ効果的な手段がわからないのだ。もうこれ以上苦しみたくないならば、苦しみがいかなるものであり、それがどのような行為によってもたらされるかを知らねばならぬ。今日はそのことについて述べよう。苦しみがいかなるものかを知れば、この輪廻と呼ばれる苦しみの輪から抜け出したいと思うであろう。

 苦しみにはさまざまなレベルがある。肉体的な激しい痛みから、日常の生活の中で気付かないうちに病んでいる心の苦しみなどがある。最もわかりにくい形をとった苦しみを見極めない限り、全ての苦しみを除くことはできない。時に苦しみは喜びや幸せといった形を取るため、すぐにはわからない。だまされてしまうのだ。結果的には様々な問題を生ぜじめるとは知らずに、心のままに流されていく。煩悩の多い我々のような凡夫には、実は「本当の」喜びや幸せはないのだ。

 仏典にはさまざまな種類の苦しみが説かれている。だがその全ては「苦苦、壊苦、行苦」三つの苦しみの中に要約されるだろう。「苦苦」とは肉体的な苦しみ、「壊苦」とは変化し、失われていくものなどによる苦しみ、「行苦」とはこの世のすべての現象は実は苦しみにほかならないということである。

 生まれ、病み、老い、そして死ぬことは全て苦しみ(四苦)である。愛するものと別れることも苦しみ(愛別離苦)である。人はいつしか、尊敬する師や両親、子供、友、恋人、財産や地位といったものと別れなければならない。また嫌なもの、耳にするだけで恐ろしいものと逢わねばならないのも苦しみ(怨憎会苦)である。たとえば、敵や泥棒、病、災害などがそうだ。それはいつ来るかは予測できない。望むものが手にはいらないとき、欲求が満たされないときも苦しみ(求不得苦)である。思うような結果がえられない、仕事が酬われないなどといったストレスを誰しもが味わっているだろう。ようするに生きていく中で、我々は常に苦しみ(五取蘊苦)の中にいるのである。

 苦しいと思うとき、普通我々は他のもののせいにする。環境のせいにしたり、友達や同僚のせいにしたり。全く相手が問題がない場合でも、人は何かを責めずにはいられない。そして、苦しいがゆえに、何かを憎んだり、うらやんだりする。貧しい者は富める者がどんなに幸せであろうかとうらやむ。だが、富める者もまさにその富によって苦しみを味わっている。いつ失うかと気を病んだり、税金対策や遺産相続などで神経をすり減らし、誰も信用できず懐疑的になっていく。

 では、苦しみはどこから生じるのか。相手なのか。まわりの環境からなのか。いや、全ての苦しみは自らの煩悩を因として生じる。形を変え、何度も何度も絶えることなく生じる。最初は心地よいと思えたものも、次第に苦しみへと姿を変えていく。陽のあたる場所にずっといたら、熱くてたまらなくなるように。私たちは心と行いをコントロールすることができない。ゆえに、煩悩の赴くままに悪行を重ね、その苦しみに翻弄されながら生きている。このまま煩悩のままに生きていれば、次の瞬間にも恐ろしいほどの苦しみを味わうはめになってもおかしくないのだ。

 煩悩は一見、友達のようにみえる。それに逆らうことは至難の業だ。あれが欲しい、これがしたいと煩悩のままに行動し、あいつが悪い、あいつさえいなければと煩悩のままに思いをめぐらす。心と身体は煩悩に支配されているのだ。それに気付き、逆に煩悩の方を支配し、コントロールするようにしなければならない。それが苦しみを減らす唯一の方法なのだ。

 まずは、自分が苦しんでいるという状況に気付くのだ。苦しみたくないと思うだけでは、苦しみは止まない。その唯一の方法は、苦しみの原因を探り、その因である煩悩を取り除こうとすることである。それを今すぐ始めよう。余裕が多少でもある今この時に。苦しみで心がふさがれている状態になったときはもう遅い。そして、そのようにみんなも苦しんでいるのだと気付くことが、大乗への始まりなのである。


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