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[4]空と縁起とは 『空』と『縁起』は仏教の根本にある思想と言ってよいだろう。『空』とは実体が無いということ。自分が思い込んでいるようには世の中は存在しないということだ。『縁起』とは何かに『縁』って『起』きることである。原因や条件、または部分などに互いに異存することによって全てのものは成り立っている。この二つの思想は深い意味を持つ。この関係を理解すれば全ての悪しき見解から離れ、苦しみから解放されると仏は説いた。 まずは『縁起』から説明しよう。『縁起』とは何かに『縁』って『起』きることである。原因や条件、または部分によって全てのものは成り立っている。このことを深く考えることはとても大事なことだ。ダライラマ法王もよく『仏教徒は縁起を通して物を見よ。そして非暴力に徹せ』とおっしゃっている。幸せは幸せの原因より生じる、苦しみは苦しみの原因から生じる。幸せになりたいならば、幸せの原因を作らねばならない。苦しみたくなければ、苦しみの原因をさけねばならない。幸せは徳(善行)を原因とし、苦しみは不徳(悪行)を原因とする。徳も不徳もまわりの人たちとの関係の中で作られる。もしも幸せになりたければ、自分のまわりの人々を幸せにしようと努力するべきであって、決して傷つけてはならない。故に非暴力なのだ。もし今、あなたが苦しみを感じているならば、それは誰かを傷つけた結果であり、もし幸せを感じているならば、それは誰かを幸せにした結果なのである。 どんなことが、まわりに迷惑を掛け、傷つける結果をもたらすのか。仏教ではその一つのガイドラインとして十善戒というのをもうけている。すなわち(一)不殺生、(二)不偸盗、(三)不邪婬、(四)不妄語、(五)不悪口、(六)不両舌、(七)不綺語、(八)無貪、(九)無瞋、(十)正見である。つまり、殺さない、盗まない、姦淫しない、嘘を言わない、暴言を言わない、二枚舌を使わない、戯れ言をいわない、貪らない、怒らない、邪見にふけらない。これらを常に心において、自分の行動と照らし合わせてみよう。苦しいとき、楽しくないとき、自分がこの中の何を守れなかったのか考えてみよう。相手を責めるのは間違いだ。原因は自分の行動や考え方にある。 次に『空』を説明しよう。全てが何かによって生じている『縁起』なる世界においては、固定的な実体(自性)は存在しない。その時その時の原因と条件によってたまたまそう見えているだけである。それが証拠に変わらないものはない。人はまわりにいる人によって規定され、場によって変わる。それを『あの人はこうだ』と決めつける。いろんな原因と様々な条件、特にその時の感情のせいで『偶然に』そう見えただけなのに、人は自分がそう見えたことが本当にそうあったと思い込むくせがある。 私たちは皆『私』というイメージを持っている。『私』とはその時その時の条件、場、見方によって自分の心にイメージとして生じているだけであり、実体的な『私』などは存在しないということだ。私たちはみな、物心ついたときから大事に大事に『私』というイメージを守ってきて、それを中心にして生活したり、物事を判断していたりする。 『私』がその時その時の条件で心に現れるにすぎない心象である以上、それを中心に生活すれば、現実とはそぐわないわけだから、人は苦しみからは逃れられない。だからこそ、周りの人の幸せ、都合、利益を中心にした生活に変わらねばならないのだ。その生活だけが自分に幸せをもたらすと知り、今までの自己中心的な生活、行い、考え方を止め、意固地にならず、他の考え方を柔軟に受け入れられる考え方をした方がいい。仏教の聖人でのないかぎり、自分に見えているものは、大きく現実からかけ離れているのだから。 |