チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2015年8月2日

映画『ルンタ』補足編、最終回:焼身者ツェリン・キをよく知る夫婦へのインタビュー、下

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9aedea00焼身した女子中学生ツェリン・キ。

ツェリン・キは焼身の前々夜と前夜、母親と話し続けたという。そしてその日の朝には父親から焼身用のガソリン代にするつもりだったと思われる500元をもらい、「もう会えないかも知れない。お嫁に行ってもいい? さよなら」と言ったという。決意の心を隠しながら、悲しくも、最後に女の子らしい冗談を残し、焼身抗議を実行し、亡くなった。

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焼身の前々夜、前夜、早朝/「もう会えないかも知れない。お嫁に行ってもいい? さよなら」

夫:彼女が焼身する前、2日間、夜は母親と一緒に過ごしたそうです。
妻:一緒に寝たそうです。母親とずっとしゃべっていて、全く寝なくて困るぐらいだったと。
夫:一晩中眠らなかったそうです。
妻:ツェリン・キがおしゃべりしようとずっというので、母親が「そんなのじゃ眠れないわ」と言ったら、「お母さんとおしゃべりがしたいの」と言って眠らせてくれなかったそうです。

ー どんな話をしたのでしょうか?

妻:「どんな話でもいいからおしゃべりし続けよう」って。
夫:最後は「楽しかった」と言ったそうです。「楽しい夜だった」と言ったそうです。
妻:2晩母親と一緒に寝て、「ずっとおしゃべりをして、楽しかった」と母親に言ったそうです。「お母さんと過ごせて楽しかった」と。それからお母さん「心配しないで」と言ってそうです。「私は幸せだから心配しないで、何の苦労もない」と。「私は学校に戻るけど、元気でね」と。それで、お父さんに「五百元ください」といい、お父さんがお金を渡すと「これを持ってお嫁に行ったらもうお母さんには会えないかも知れないね」と言ったそうです。母親は「あなたが勉強しないでお嫁に行くって言うなら勝手にすればいい」と言ったそうです。最後に「冗談よ、お嫁になんか行くわけないでしょ」と。「この五百元で新しい服を買って学校に行くのよ」と言ったそうです。

ー 彼女がいつ焼身を決意したかは分かりませんが、お母さんと話をしたときにはすでに決意していたということですかね?

妻:もう決めていたでしょう。その朝、「もう会えないかも知れない。お嫁に行ってもいい? さよなら」と言ったそうです。お母さんは怒った顔をしますよね、でも冗談だと思ってたそうです。そのお金で「新しい服を着て学校へ行く」とも言ってたそうです。父親はお金を渡したそうです。それと、「この世には意味がない」と言ってたそうです。この世に生きていても意味はないと。母親はそんなことはないと叱ると、「冗談よ」と言ったそうです。
夫:お母さんには心の中の計画は言えなかったのでしょう。
妻:「お母さんは心配性だし、勇気もないのね。でも、心配することは何もないわ、勉強もできるし、先生も優しいし、外を歩いても優しい友達がたくさんいる。だから心配しないで」と出発前に言ったそうです。
夫:お母さんを安心させようとしたのでしょう。
妻:出発前にお正月だったので、家でシャパレ(揚げ肉パン)をたくさん作っていたそうです。ツェリン・キが休み明けに学校へ行くときにはいつもシャパレを持たせていたそうですが、そのとき彼女は持って行かないから私のは作らなくていいと言ったそうです。「いつも持って行くのにどうして持って行かないの?」と母親が聞くと、「みんながお正月の間にたくさん食べればいい。お正月を楽しく過ごしてね。私は今回はいらないわ」と言ったそうです。

ー 焼身の日の前夜、マチュにいる親戚の家に一晩泊まったのでしたよね。

妻:母親の兄弟の家に泊まりました。

ー それで、当日の朝、学校へ行って、、、いや、学校へは行かずに、、、

妻:学校へは行きませんでした。親戚の人が学校の門のところまでバイクで送って行ったそうです。「ここで下ろして」と行って、学校の前で下りたけれど、学校には入らず焼身しに行ったようです。
夫:学校にその日彼女の出席の記録がなかったそうです。
妻:母親は夜の12時ぐらいまで知らなかったそうです。母親は携帯電話を持ってなかったから。親戚の中には誰かから聞いて知っていた人もいるらしいのですが、母親には言えなかったらしいです。その夜、ツェリン・キの弟が眠れない、眠れないと言って、叱っても寝なくて遅くまで起きてたそうです。それで、夜中の12時頃、父親が数人の親戚と共に家に帰り、ツェリン・キが焼身したと告げたのです。
夫:「娘は決心していたのでしょう」と言ったそうです。
妻:焼身のことは両親にも、同級生にも誰にも話していなかった。母親は「もう何も言うべきじゃない」、「娘が決意したことをやったのだろうから、何も言うことはない」と言ったそうです。

ー ツェリン・キには学校で仲のいい友達はいたのでしょうか?

妻:いたでしょう。でも母親は知らないようです。女の子は何でも母親に打ち明けるでしょ? 男の子たちは父親に話をしますよね。女の子たちは心の中にあることはたいてい母親に話しますよね。父親には話さないで。

ー ボーイフレンド、恋人とか、いなかったのでしょうか?

夫:それは分かりません。

ー 中国は、ツェリン・キの焼身の原因は頭を強く打って、それからおかしくなっていたからだと発表したようですが。

妻:そんなことは全く嘘です。2晩母親と過ごしてずっと話をしているのです。成績もすごく優秀だったので学校で旅行にも連れて行ってもらいました。それは本当に楽しかったと言ってたと。「兄弟の中で旅行なんて行ったことがあるのは私だけでしょ」と得意になっていたそうです。勉強もできて、優しい両親もいて辛いことなど何もない、本当に幸せだと言ってたそうです。ただ、悲しいことが一つだけあって、それはラサに行けなかったことだと言ってたのです。

ー どうしてツェリン・キはそんなにラサに行きたがっていたのでしょうか?

妻:死ぬ前に一度ラサに巡礼に行って、ジョカンのご本尊を拝みたかったと思ったのじゃないかしら? 死ぬつもりじゃなかったら、将来仕事してお金を貯めて、いつでも自分で行くこともできるわけだし。死ぬ前にラサに巡礼に行けたらいいと思ったのだと思います。
夫:ジョカンにお参りに行きたかったのでしょう。
妻:チベット人にとってはラサへの巡礼は特別なものですから、ジョカンのご本尊をお参りするのは。

ー ツェリン・キは仏教には関心があったのでしょうか?

妻:それは分かりません。あったんじゃないかと思いますよ。そうでもなければ死ぬ前にラサ巡礼に行きたいなどと思わないでしょう。
夫:信心はあったと思いますよ。
妻:信心はありますよ。
夫:仏教を学んだかどうかはわかりません。

ー ダライ・ラマ法王とか、チベット亡命政府とか、チベット問題とかについてや、例えばどこかで焼身があったとか、そういうニュースはチベットの田舎まで伝わっているものでしょうか?

夫:伝わっているでしょう。
妻:入っているでしょう。
夫:まず、関心のある人の耳に入り、それが周りに伝わります。

ー では、ツェリン・キはそれ以前に焼身した人たちのことは知っていたのでしょうか?

夫:彼女は知っていたそうです。「ンガバとか、チベットで自分の命を犠牲にしている人たちがいる。自分たちはこのままじっとしているわけにはいかない。チベット民族のために何かしなければ、何もせずに生きているだけで、大事なことをしなかったら、生きている意味はない」そのように言ってたそうです。
妻:母親にそういうことを言ってたそうです。そう言うので、母親は叱ったそうです。生きていて意味がないなら何をしたらいいのと叱ったそうです。そうしたら、「冗談よ」と言ったと。
夫:他に父親の兄弟の嫁さんにも言ったそうです。「チベットのあちこちで民族のために命を人々が焼身している。私たちもこうしてはいられない。チベットの民族が苦境にある今、このままでは将来もっと苦しくなるのに、何もせずにいるだけでは生きている意味がない」と言ったそうです。

ー そのように考えるチベット人は少なからずいると思われますが、でも焼身を本当に決意する人は稀でしょう。ツェリン・キがそこまで決意するに至った原因というか動機は何だったと思われますか?

夫:分かりませんね。側にいたわけではないので。同級生には何か話していたかも知れませんね。友達には何か言ってたんじゃないでしょうか。手紙を書いていたらしいのですが、伝わっていません。

ー 焼身者はみんなチベット民族としての誇りを持ち、民族の将来を案じた人たちですよね。

夫:外国からの放送がどれだけ伝わっているかは分かりませんが、みんな状況は分かっていたと思います。焼身のことは当然知ってたでしょう。
妻:そうだと思います。
夫:すぐに電話で、、、
妻:すぐに電話で情報が入ります。焼身があればその日に電話で伝わります。

ー ツェリン・キが焼身した後、彼女の遺体は家族に引き渡されたのですか?

夫:その日遺体は家族に渡されていません。警官が持ち去ったのです。野菜市場には中国人が多いでしょ。門を閉めて、野菜売りの中国人たちが警官を助けたと聞きました。市場の中国人たちに前もって警察から指示があったのでしょう。焼身があったらすぐにこうしろと。中国人たちが燃えるツェリン・キに石を投げ押さえつけて、警察に電話したのです。それで、警官が来て、持ち去ったのです。その翌々日に警察から電話があって「取りに来い」と。遺体を引き渡してほしかったら誰にも言うな、すぐに焼けと。腹部に手術の跡があったと。開腹してあったと聞きました。
妻:父親が引き取りに行ったのです。その時、腹部が縫合してあるのに気づいたそうです。警察は「病気があったかどうか調べたのだ」と言ったそうです。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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