チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2015年7月29日
映画『ルンタ』補足編:焼身者ツェリン・キをよく知る夫婦へのインタビュー、上
2012年3月3日、アムド、マチュ(甘粛省甘南チベット族自治州瑪曲県瑪曲)の街中にある野菜市場の中で焼身・死亡した女子中学校ツェリン・キ、19歳は焼身者の中でも私がもっとも気になる存在であった。映画『ルンタ』の撮影のために本土に入ったときにも彼女の焼身現場には必ず行こうと決めていた。
以下は彼女を幼い頃からよく知る夫婦へのインタビューである。少し長いので上・中・下にわけて掲載させていただく。今回は「遊牧民移住政策」に関する話しが中心である。
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インド等に住む亡命チベット人の中には焼身者の家族、親戚、友人という人もいる。何人かを探し出したが、インタビューを了承してくれる人は少ない。みんな内地にいる人たちのことを心配するからだ。話を聞くことができても、結局危険過ぎると判断され発表できないこともある。そんな中、 焼身者であるマチュの少女ツェリン・キをよく知るという女性を説得し、話を聞くことができた。
インタビューは2013年12月23日、ダラムサラにある彼女の部屋で行われた。彼女の夫が同席した。彼女の夫は同じアムド地方の出身であり、ダラムサラでメディア関係の仕事をしている。彼は彼女の話を補足する役であった。2人とも数年前にインドに亡命している。
以下、ツェリン・キを直接知る女性を「妻」、彼女の夫を「夫」と表記する。
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ー ツェリン・キはどんな子供だったのですか?
妻:彼女は学校が好きな子供でした。学校に行けるよう、私や親戚に両親を説得してほしいと頼んだのです。勉強が好きで、もちろん試験に合格して、成績もよかったのです。ラサに行きたがっていたようで、両親にラサに巡礼に行きたいと何度も頼んでいたようです。結局行けずに終わってしまいました。ツェリン・キは小さい時からすごく学校に行きたがっていました。4人兄弟なのですが、誰も学校へ行かせてもらっていませんでした。ツェリン・キはある時どうしても学校に行きたくて、私と叔父さんに両親を説得してほしいと頼んだのです。両親は彼女を学校に行かせたがっていませんでしたが、私たちの説得が成功し、彼女は学校に行けるようになりました。9歳か10歳になっていたと思います。自分の頭で考えられる年になっていて、自分でどうしても勉強したいと思ったのでしょう。周りで学校に行っている子は少なかったのです。例えば私は9人兄弟ですが、学校へ行かせてもらったのは1人だけです。ツェリン・キの兄弟も上の2人は学校に行ってませんでした。
ー ツェリン・キが小さいころ、あなたは近所に住んでいたのですか?
妻:ええ、近所です。彼女はおとなしくて、いい子でしたよ。他の子にも優しかったし。うちに遊びに来て、何か頼んでも、すぐにいうことをきくすごくいい子でした。何か頼むと、返事はいつも「はい」で、それしか知らないんじゃないかと思うぐらいです。怒ったような顔もまったく見たこともありません。
ー 4人兄弟の中でツェリン・キは3番目ですか?
妻:ええ、3番目です。1番上が女の子、次が男の子、3番目がツェリン・キ、下に男の子です。
ー 夏と冬とで住む場所を変えるのですか? 夏は牧草地に行って、冬に帰って来るという生活でしょうか?
妻:そうです。夏はテントで生活し、冬は家の中で暮らします。
夫:夏は涼しいところ、冬は暖かいところで過ごすということです。
— いつ頃、夏の宿営地に向かうのですか?
妻:夏の宿営地で過ごすのは3ヶ月だけです。秋と冬と春は誰ももう行きません。昔はそうじゃなかったのです。土地が分割されたので、3ヶ月ぐらいしかいれないのです。家畜が食べる草が足りないからです。中国が私たちの土地を何度も勝手に分割したのです。昔は牧草地が冬の家の周りを含め4カ所ありました。私が子供のころは、春は冬の家の向かいにある牧草地に移動し、夏は夏の宿営地に行って3ヶ月過ごし、秋には山を下り、また別の草原で3ヶ月過ごしました。そして、冬、家に帰って来るのです。今ではもうこのようなことはできません。土地が分割されてしまったからです。こっちの草原には入っちゃだめ、ここはうちの草原だからとうるさくなってしまったのです。昔はそんな所有意識はなかったのですがね。
夫:昔は牧草地はすべて共用だったのです。
ー 土地の分割はいつ頃始まったのですか?
妻:私がもの心ついてから3回は分割が行われました。小さいときに1回あって、別の土地に移らされました。生産小隊ごとに住んでいました。それから私が1度インドに行って戻ってきたときに、もう1回ありました。またこっちへ来るときにも1回分割が行われました。1回分割されるごとに、生産小隊ごとに、そして家庭ごとに、というふうに細かくなっていきました。それで夏の宿営地から秋の宿営地、そして冬の宿営地という遊牧が一切できなくなりました。
ー 何歳の頃始まったのでしょうか?
妻:12歳頃だったかしら?
夫:今から20数年前ですね。
妻:最初は生産小隊ごとに移動してもよかったのです。のちにそれもできなくなりました。
夫:中国が来た後、社会主義ということで、牧草地は県単位で共有されていたのです。20数年前に、県ごとだったのが郷ごとになったのです。その頃はまだ同じ郷内なら自由に移動できました。その後、生産小隊ごとに…生産小隊というのは郷より小さくて、村ごとに分割されたと言ったらいいのでしょうか。それが今では村の中での移動もできなくて、土地は家族ごとに分割されたのです。至る所に鉄条網が張り巡らされました。もうどこにも行けなくなりました。移動は2カ所だけになったのです。夏と冬の2カ所です。
妻:昔はうちの家がここにあったら、ツェリン・キの家はこっちで、私の父と兄弟の家がここにあってというように、みんな一緒の一続きの敷地だったのです。それが、今ではうちとツェリン・キの家の間には鉄条網が張られ、父と兄弟の家との間にも鉄条網が張られているのです。お互い行き来するにはそれを越えないと行けなくなったのです。
夫:結局、争いごとばかり増えてきました。中国は面倒なことを引き起こさせたと思います。
妻:親戚同士だと大変なこともあります。がめつい親戚がいると、うちの家畜、うちの草原と言って、争いになります。昔は県単位で誰がどこに行ってもよかったのです。県単位の土地は広いですから、夏はここ、冬はここといって、いい草のあるところを選んでどこに移動してもよかったのです。今は決められていて、村はおろか、家庭ごとに土地が決められています。夏は夏で、1番の家庭はここ、2番の家庭はここ、3番、4番、5番というぐあいに家ごとに決められています。冬の宿営地も1番、2番と決められています。ここがあなたの家族の土地ですと決められたら、そこがいい土地であろうと悪い土地であろうとそこに居なければなりません。移動するときの道まで決められているのです。
ー 収入は?
夫:土地が足りないんです。家族は増えるし。いい草が生えるところもあるが、生えないところもある。いいとこならいいのですが、悪いところは悪いままです。
妻:政府はいい土地をたくさん所有しているらしいです。
夫:政府は政府の土地だといって、かなりたくさんがめつく所有しています。そんなに必要ないはずですが、役人の土地だといって奪います。彼らがチベットの土地を食い尽しているわけです。ひどい話です。家族が増えると家畜もたくさん必要です、でも土地は小さいままです。足りないのです。どうしてももっと牧草地が必要な場合には、お金を払って人の土地を借りるということになります。土地の借り賃は結構高いのです。昔は家畜の少ない家がどうぞといって、足りない人に来させてあげることもできたのです。共有の土地ですから。それで問題はおきませんでした。昔は土地はみんなのものでしたから、どこに放牧にいってもよかったのです。行った場所ばいまいちだったら、別の場所に移動してもよかったのです。草があまりよくなかったら、他のところに行こうってね。今はもうそれはできないのです。草が悪いところの人はたいへんです。本当に苦しい状況に追い込まれていると思います。
ー 強制移住で放牧を止め、街の近くに移らねばならなくなったということはないのですか?
夫:私たちのところではなかったけれども、他ではあるようです。県庁所在地とか郷の中心地に移住するよう命令されて、最初こそ、住まいや食べ物を貰うわけですが、月々500元の補償金を貰ったりして、でもしばらくするとそれもなくなるそうです。土地はもう政府に取り上げられてありません。
妻:お金が入る当てはなくなります。子供や若者たちは泥棒したり、サイコロ賭博をしたり、そんなふうになってるそうです。
夫:政府は環境保護だと言って、下流域のために黄河上流であるマチュ一帯の環境を保護しなければならないと言って源流域一帯に住んでいた遊牧民を追い出したのです。強制的に移住させられ、放牧のための土地も与えられませんでした。こうなると大変で、子供や若者は泥棒したり、サイコロ賭博をしたり。泥棒が増えています。
ー 牧畜以外に何も知らないから、仕事も見つからないのでしょう。
夫:生活の手段がないのです。
妻:牧民なのに家畜もいなくて、子供も学校へ行かず、泥棒して暮らしていると聞きます。私が子供の頃は泥棒するチベットの子供なんて1人もいませんでした。その頃は家に鍵をかける必要もありませんでした。冬の家を出て、夏移動する時にも家には鍵をかけませんでした。鍵なんてかけなくても泥棒に入られることなどありませんでした。最近は泥棒がいるのです。
ー その泥棒は中国人じゃなくてチベット人というわけですね。
妻:遊牧民が街で暮らして、補償金もないし、売る家畜もないし、土地もないし、子供たちは学校にも行かず、金がないから泥棒に走るのです。
ー 冬虫夏草はないのですか?
妻:全くありませんでした。
夫:同じマチュ県内に採れるところもあるそうですが、彼らが住んでいる辺りにはないのです。
妻:うちの郷では採れません。冬虫夏草を見たことはありますが、採りたかったらお金を払って他の土地に行くしかありません。
続く。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)