チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2015年7月26日

映画『ルンタ』補足編:元ラプラン僧院僧侶ジャミヤン・ジンバへのインタビュー、後編

Pocket

ジャミヤン・ジンバ僧ジャミヤン・ジンバ。

昨日の続き。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ーあなたたちが山に逃げた後だと思うのですが、1人捕まり拷問を受け、亡くなっていますよね。

ジャミヤン:山に逃げた後、一番心配していたのは彼のことでした。彼は我々のようにデモを先導したわけではないのです。後について来た2、30人の中の1人でした。彼はお堂の中にいたところを逮捕されたのです。普通中国ではデモ等を先導した人は重い罪を受けるが、他の人たちは軽かったり、解放されたりします。彼の名前は私と同じジャミヤン・ジンパでした。ですから、私は彼は私と勘違いされて逮捕されたのではないかと心配したのです。

僧院の中に兵士が入ってきて、彼が逮捕され、ひどい拷問を受けました。拷問を受けて、確か1週間ほどで家族に引き渡されました。家族に引き渡されたときにはもう歩ける状態ではなく、担架で運ばれてきたそうです。足を何カ所も骨折していました。口に電気棒を突っ込まれたからだと人は言っていましたが、狂っているように見えたといいます。最初はしゃべることもできず、小水も垂れるままだったと聞きました。いろんな内蔵がやられていたようで、それから半年間、床から起き上がることすらできなかったそうです。彼のお母さんが面倒を見ていました。起き上がることはできるようになったが、それから3年後、拷問の後遺症に苦しめられた末に回復することなく亡くなったのです。家族が彼を大きな政府の病院に連れて行くと、医者は恐がり、ちゃんと見てくれません。追い返されます。それで、最後までまともな治療を受けることができず、とうとう亡くなってしまったのです。お母さんは本当に辛かったと思います。

ー焼身についてはどう思われますか?

ジャミヤン:驚くべき偉業だと感じています。焼身する人はみな、チベット人の苦しみを一身に背負っています。彼らの思いは広く、チベットの民族、仏教の教え、人々の平和な暮らしを思って行動したのです。私は焼身者に特別の思いがあります。同郷の知り合いが焼身しているからです。2012年の11月27日にサンチュのサンコク郷でサンゲ・タシが焼身し、亡くなりましたが、彼は私と同じ村の出身です。彼のお兄さんと子供のころ友達で、その弟として知っています。私の家族とサンゲ・タシの家族も仲がよかったのです。私は12、3歳の時、僧侶となりラプラン僧院に入ったので、その後はよく知りませんが、里に帰った時に彼の家に遊びに行くこともありました。彼は小さい時、学校に4年ぐらい通い、その後は両親を助けて牧畜の仕事をしていました。田舎には小学校しかありませんし。

彼はなんというか、心が綺麗で、遊牧民の子供はだいたいそうです。学校にも行かず、親の手伝いもせず、街をふらつきタバコを吸ったり、酒を飲んだりとか、そのようになってしまう子もいるのですが、彼はそういう子ではありませんでした。それは確かです。彼は両親を非常に大切にしていました。家畜の面倒を見るのも得意だったそうです。彼の家は村でも有数の裕福な家だったのです。たくさんの家畜を飼っていました。

ー彼は何人兄弟ですか?

ジャミヤン:4人兄弟です。お兄さんとお姉さんがいました。あと、3歳ぐらいの小さな弟がいました。お姉さんは結婚して他の場所に移っています。お兄さんも結婚し、独立しています。彼が焼身した時にはこの2人は家にいませんでした。

今、急に彼の焼身を初めて知ったときのことを思い出しました。私はそのときサルナートの大学で勉強していたのです。授業中に知らせが入りました。何と言うか、すごく動揺し、もう先生の話がまったく頭に入らなくなったのです。すぐに、彼のことをメディアに報告しようと思い現地と連絡をとりました。

サンゲ・タシの家族の話をしましょう。焼身した時には彼の父親と母親と幼い弟がいたはずです。父親は再婚したので、今の母親は義理の母親です。本当の母親は別の土地に住んでるそうです。小さい弟はこの再婚相手との間に生まれた子供です。彼の父親はサンゲ・タシに家を継がせるつもりでした。チベットでは長男が家を継ぐとは限りません。親の言うことを一番よく聞く子に家を継がせるのです。父親はいつもサンゲ・タシはいい息子だと自慢していました。1、2年後には嫁を迎え、家を継ぐことになっていたのです。将来的に苦労することはなかったでしょう。そのような彼が焼身したのです。父親は彼が亡くなった後、弔いのためにとラプラン僧院の僧侶全員に多額の布施を行いました。

ー中国に抗議したいと思う若者は多いことでしょう。その中で焼身してやろうと思うものもいるだろう。しかし、本当に焼身する人は稀だ。サンゲ・タシを個人的に知るあなたに、なぜ彼が焼身を決心したかについて何か心当たりはありませんか?

ジャミヤン:難しいですね。たくさんの若者が焼身しています。いくつかの村が集まるサンコク郷という我々の郷には家が千戸ほどあります。人口は7、8千人でしょうか。その中で他にもう1人若者が焼身しています。その若者も私の友人の姉の息子です。名前は僧侶だったときにはイシェだったが、その後養子に行って、トゥプワン・キャプと名前を変えたのです。それで、サンゲ・タシがなぜ焼身したのかですね。それは、分かりませんね。自分ではできないことですから。十分理解することはできないでしょう。一般的な話にしかなりませんが、私が思うには、2008年以降、チベットのために行動する人を人々は英雄と見なすようになりました。彼が焼身したころ、すでに80人以上が焼身していたと思います。特に、この人たちは遊牧民や農民から偉大な人たちだと見なされています。チベットのために焼身したのだから、海外にいらっしゃるダライ・ラマが帰還できるようにと焼身したのだからすごく尊い行為を行った人たちだ、ありがたい人たちだと見なされていいます。

2008年以前にも、両親等から昔中国に如何にひどい目に遭わされたかということは聞いていましたが、2008年には実際に自分たちの目で中国の残酷さを目撃したのです。本人でなくても周りの家族、親戚、友人の誰かが逮捕され拷問を受けたりすることを知ったのです。彼もそうでしょうし、私もそのようでした。そうなると、中国を嫌悪し、中国に対して何かやってやろうという気になります。大して勉強もしていない私などでも、何かしなければ、チベットのために何かしなければという気持ちに駆り立てられたのです。チベットが独立できるよう、自分のできることをしようと思ったに違いありません。ただ、さて何をしようかと思った時、年若く、学もない場合には手段が限られています。そんな時、多くの同胞たちが焼身していることを知り、それは命を捨てることであり、まったく簡単なことではないが、もしもそれを成し遂げることができれば、偉大な仕事をなしたことになると、そのように思ったのではないでしょうか?

ー彼の焼身時の状況について分かっていることは?

ジャミヤン:彼は焼身する日に何人かの友達と一緒にバイクでどこかに出かけたらしいです。帰りに彼だけがしばらくいるといってサンコク郷の街に残ったのです。そして、夜の10時頃、街の中心の路上で焼身したのです。焼身を行う直前に彼は従兄弟のツェベに電話を掛け、「アロ(ハロー)、俺は今日チベットのために焼身するぞ」と話したそうです。ツェベは「アロ、アロ、そんなことはするな、ちょっと待て!」と応答したが、すぐに電話は切られ、その後、何度電話しても通じなくなったといいます。目撃者の話によれば、彼は焼身しながら「ダライ・ラマ法王をチベットにお招きすべきだ!パンチェン・リンポチェをはじめ全ての政治犯を開放せよ!」と叫んだと伝えられています。

ー「チベットに自由を!」はなかったのでしょうかね?

ジャミヤン:伝わっていないが、言ったかも知れません。私は焼身者たちが最後に叫んだ内容や残した遺書の内容を分類して見たことがあるのです。6、7種類に分けられると思います。一番多いのは「ダライ・ラマ法王のご帰還を」というものです。「ダライ・ラマ法王に長寿を」というのも同種だと思います。それから、パンチェン・ラマの解放を求めるというのもあります。「チベット独立」「チベットに人権を」「宗教の自由を」と叫ぶものもいます。また、ある人は「世界平和」を叫び、「環境保護」を訴えたものもいます。分類すれば、そのようになります。

ーダライ・ラマ法王を直接知らない人たちがなぜそれほどまでに法王の帰還を望むのでしょうか?

ジャミヤン:それにはまず両親の影響があるでしょう。両親が毎日、ダライ・ラマ法王に「どうかお救いください」と祈っているのを見て育つからです。ダライ・ラマ法王は大変尊い方で、我々のなくてはならない宝であると強く信じているのです。中国が来て、ダライ・ラマ法王は亡命を余儀なくされ、今はインドにいらっしゃることを両親から聞いて知っています。たびたび外国に出かけられ、多くの支持者を得ていることも知っています。インドに行き、ダライ・ラマ法王にお会いすることができた人から、法王がどんなことをお話されたかを直接聞く機会もあります。2006年に、自分たちの地域だけでなくチベット全土で豹や虎などの毛皮を焼却するという運動が起こりましたが、あれはみんなダライ・ラマ法王のお言葉に従ったからです。みんなダライ・ラマ法王のお言葉に注目しているのです。お会いすることはできないが、間接的に言葉を聞き、それに従おうとするのです。影響力はすごいわけです。禁止されてはいますが、人々はこっそりと首にダライ・ラマ法王の写真をつけたり、家の仏壇に法王のお写真を掲げるのです。僧院などでは秘密裏に法王のご本を手に入れることもできます。CD等は我々にはむかないのです。ダライ・ラマ法王が話される中央チベット方言が理解できないからです。

ー法王はもともとアムドのご出身ですよね。

ジャミヤン:ははは、そうですが、全然違うのです。聞いても分からないのです。

ーダライ・ラマ法王さえチベットに帰還できれば、すべての問題はなくなる、苦しみは終わると思っているということでしょうか?

ジャミヤン:ダライ・ラマ法王帰還というのは簡単ではないですよね。まずその状況が整わなければならない。つまり、ダライ・ラマ法王が帰還できるということは、他のすべても解決されているということじゃないでしょうか。お年寄りたちは、いつも「死ぬまでに一度でいいからダライ・ラマ法王にお目にかかりたい」といい、それが一生の願いだと言います。それを聞くと若い人たちは両親や祖父母のその願いを叶えてあげたいと思うようにないます。それもあると思います。

ーチベットの独立を求める焼身者が多いですよね。たしかに、死を覚悟の焼身を行う時「チベットに真の自治を!中道を!」はそぐわないわけですが。独立とか中道とかについて内地ではどのくらい理解されているのでしょうか?

ジャミヤン:たしかに、焼身の時「中道を!」と叫んだ人は1人もいません。中国人と一緒でもかまわないという人は声を上げたりしないわけです。2008年以前には、ラサとは違い、私の故郷あたりではチベット問題についてあまり理解されていませんでした。よく分かっていなかったし、声を上げる人もいませんでした。2008年以降に目覚めたといっていいでしょう。それ以前にはチベット人が声を上げるのは独立のためだとしか思っていませんでした。2008年に私も最初声を上げたときには「チベット独立」という言葉を叫んだのですが、その後、特にインドに来た後から法王のおっしゃる「中道」について本気で考えるようになったのです。いろいろやろうとしても厳しいことが分かって来る。独立は簡単なことではない、すぐに得られるようなものではない。それを求めれば、実現される前にチベット人全員が抹殺される危険さえあると思うようになりました。他の道は何だろうと考えた時、法王のおっしゃる双方に利がある「中道」がまず実現されればいいと思うようになるのです。多くの事情が分かっている人たちはそう考えていると思います。

ー法王が独立を諦め、「中道」を提唱され始めたのは、1988年からというか、遡れば70年代からですよね。なぜそれが本土の人に理解されるまでそれほど時間がかかったのでしょうか?

ジャミヤン:2008年以前でも、社会の中で意識の高い人とか僧院内で外国のニュースを聞くことができた人たちは分かっていたでしょう。我々若いものでも法王の意見は知っていました。しかし、それを我々は次のように理解していたのです。ダライ・ラマ法王は仏教の教えに従い、衆生をすべて偏りなく平等に見られています。だからそのように考えることもおできになるが、我々普通の人間には到底できないことだと思っていたのです。法王は特別の方で、その意見も特別だと思っていたということです。つまり、自分たちは独立以外考えられないと思っていたのです。ダライ・ラマ法王は本当のチベットの現状を把握されていないのではないか? と疑ったりしたこともありました。でも、インドに来て、じっくりと考えるうちに中国を動かすことは非常に難しく、手段を間違えば非常に危険なことになると思うようになりました。

ー最近グチュスンも独立から中道へと路線変更しましたしね。

ー焼身の話に戻りますが、最初に焼身が始まった頃と今とでは感じ方に何か変化がありますか。

ジャミヤン:焼身が最初に1件、2件あった時には、多くの人が興奮し、勇気をかき立てられました。私も長い間考え込みました。焼身者の写真は正視できませんでした。急にいろいろなことを考えだすようになったという感じでした。でも、どんどん増えて来ると、だんだんそれが普通になってくるのですね。人間はそういうもののようです。でも、チベットの焼身は独特なものだと思うのです。自分の苦しみから逃れるために焼身自殺をするというのは昔からどこでもあるでしょう。しかし、チベットのように、民族の闘いの手段として、他人を一切傷つけることなく、ただ自分の命を犠牲にするというような運動はこれまでになかったのではないでしょうか? 個人の勇気ある行動です。国際的に認識され、評価されるべきです。実際に多くの支援者が国連を初めとする国際機関に訴えてくれています。感謝しています。

チベットは今緊急事態です。焼身は中国に抵抗する数少ない手段の1つなのです。多くの人が命を犠牲にしたことで、国際的にも少しはチベットの苦しみが理解されたのではないかと期待します。チベットは耐えながら、今まで長い間非暴力の闘いを続けているのです。もちろん、私を含めチベット人のだれも焼身者がこれ以上増えることを願っている人はいません。焼身は大変な悲劇です。ですが、私はこう考えるのです。今、焼身がどんどん増えて大勢が焼身しています。これがもし目的を達成することなく途切れたら、すべてが無駄になってしまうようなきが気がするのです。火が燃え始め、その火がますます強くなり広がれば、いつの日かチベットが独立する日が来るのではないか、そのために運動の火を絶やさないようにとの思いが焼身者には必ずあるように思うのです。2008年に我々も運動をしましたが、その時の思いも、2008年3月に起こった稀に見る全面蜂起の炎が小さくなり消えないように、ますます燃え上がるようにと願いやったのです。チベットのニュースが消えないことを願ってやったのです。

ーチベット人の非暴力の闘いにもっと注目してほしいということですね。

ー最後に、今のあなたの夢は何ですか?

ジャミヤン:チベット問題についてですか?個人の夢ですか?

ーどちらでもいいです。

ジャミヤン:チベット問題については多くの人が望んでいることと同じだと思いますが、ダライ・ラマ法王がご存命の内にチベットに帰還されることです。これが、チベット独立後に実現するなら本当に素晴らしいことですが、それは難しいと思います。たとえ高度な自治の中で帰還が実現するということでもそれは嬉しいことです。

私個人のことで言えば、今はインドでこれ以上ない環境で勉強もできているのだから、仏教とその他の学問ももっと勉強して、将来、チベットの人々はもちろん、もっと広く多くの人に役に立つ人になりたいと思います。人には人を助ける責任がありますから。

ー今の法王がご存命中に本土帰還はあると思いますか?

ジャミヤン:分かりません。ただ、もしもそうならなかったとしたら、その後チベットはさらに苦難の道を歩むことになるでしょう。

ーダライ・ラマが崩御されたらということですか。

ジャミヤン:そうです。大変なことになるような気がします。今は法王がご存命中に高度な自治が実現されればいいと多くのチベット人が口にしていますが、だからといって独立しなくていいと思ってる人は誰もいないでしょう。そうなると、闘いは本当に長いものになるでしょう。その時のためにもみんなしっかり仏教やその他の学問を勉強し、団結を守り続け、チベット人としてのアイデンティティーを維持し続けなければなりません。それができなければ、チベット人はばらばらになり、消え去ってしまうという危険が非常に高いのです。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

ちべろぐ

Archives

  • 2018年3月 (3)
  • 2017年12月 (2)
  • 2017年11月 (1)
  • 2017年7月 (2)
  • 2017年5月 (4)
  • 2017年4月 (1)
  • 2017年3月 (1)
  • 2016年12月 (2)
  • 2016年7月 (1)
  • 2016年6月 (1)
  • 2016年5月 (9)
  • 2016年3月 (1)
  • 2015年11月 (1)
  • 2015年10月 (2)
  • 2015年9月 (4)
  • 2015年8月 (2)
  • 2015年7月 (14)
  • 2015年6月 (2)
  • 2015年5月 (4)
  • 2015年4月 (5)
  • 2015年3月 (5)
  • 2015年2月 (2)
  • 2015年1月 (2)
  • 2014年12月 (12)
  • 2014年11月 (5)
  • 2014年10月 (10)
  • 2014年9月 (10)
  • 2014年8月 (3)
  • 2014年7月 (9)
  • 2014年6月 (11)
  • 2014年5月 (7)
  • 2014年4月 (21)
  • 2014年3月 (21)
  • 2014年2月 (18)
  • 2014年1月 (18)
  • 2013年12月 (20)
  • 2013年11月 (18)
  • 2013年10月 (26)
  • 2013年9月 (20)
  • 2013年8月 (17)
  • 2013年7月 (29)
  • 2013年6月 (29)
  • 2013年5月 (29)
  • 2013年4月 (29)
  • 2013年3月 (33)
  • 2013年2月 (30)
  • 2013年1月 (28)
  • 2012年12月 (37)
  • 2012年11月 (48)
  • 2012年10月 (32)
  • 2012年9月 (30)
  • 2012年8月 (38)
  • 2012年7月 (26)
  • 2012年6月 (27)
  • 2012年5月 (18)
  • 2012年4月 (28)
  • 2012年3月 (40)
  • 2012年2月 (35)
  • 2012年1月 (34)
  • 2011年12月 (24)
  • 2011年11月 (34)
  • 2011年10月 (32)
  • 2011年9月 (30)
  • 2011年8月 (31)
  • 2011年7月 (22)
  • 2011年6月 (28)
  • 2011年5月 (30)
  • 2011年4月 (27)
  • 2011年3月 (31)
  • 2011年2月 (29)
  • 2011年1月 (27)
  • 2010年12月 (26)
  • 2010年11月 (22)
  • 2010年10月 (37)
  • 2010年9月 (21)
  • 2010年8月 (23)
  • 2010年7月 (27)
  • 2010年6月 (24)
  • 2010年5月 (44)
  • 2010年4月 (34)
  • 2010年3月 (25)
  • 2010年2月 (5)
  • 2010年1月 (20)
  • 2009年12月 (25)
  • 2009年11月 (23)
  • 2009年10月 (35)
  • 2009年9月 (32)
  • 2009年8月 (26)
  • 2009年7月 (26)
  • 2009年6月 (19)
  • 2009年5月 (54)
  • 2009年4月 (52)
  • 2009年3月 (42)
  • 2009年2月 (14)
  • 2009年1月 (26)
  • 2008年12月 (33)
  • 2008年11月 (31)
  • 2008年10月 (25)
  • 2008年9月 (24)
  • 2008年8月 (24)
  • 2008年7月 (36)
  • 2008年6月 (59)
  • 2008年5月 (77)
  • 2008年4月 (59)
  • 2008年3月 (12)