チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2014年12月24日
<速報>2日連続の焼身 今度はタウの僧侶
一昨日(12月22日)のンガバに続き、昨日もチベットで焼身抗議があった。今月16日のアムチョクにおける焼身を含め、8日間に3人が焼身し、3人ともその場で死亡している。悲しいニュースが続く。再び焼身が連続しないことを祈るばかりだ。
RFA等が伝えるところによれば、12月23日、現地時間午前11時過ぎ、カム、タウ(ཁམས་དཀར་མཛེས་རྟའུ།)四川省甘孜チベット族自治州道孚県道孚)ニャンツォ僧院(ཉ་མཚོ་དགོན་པ།)内にある公安派出所の前で、同僧院僧侶ケルサン・イェシェ(སྐལ་བཟང་ཡེ་ཤེས།)、38歳(37歳、27歳と伝えるメディアもある)が「ダライ・ラマ法王のチベット帰還を!チベットに自由を!」と叫びながら焼身を行った。目撃者によれば、彼は大きな炎に包まれ、しばらくしてその場に倒れ、燃え尽きたという。
現場にはすぐに大勢の僧侶や一般人が集まり、遺体を守ろうとしたが、駆けつけた警官隊は空に向け発砲を繰り返し、集まった人々を蹴散らし、遺体を運び去ったという。
その後、チベット人たちは遺体が運び込まれたと思われる警察署の前に集まり、遺体を家族の下に返し、正しい葬儀を行わせるよう要求したという。今日再び大勢の人が警察署の前に集まることが予想され、緊張が高まっている。一方、当局は事件の後、タウ全域の情報網を遮断したといわれ、その後の詳しい状況は未だ伝わっていない。
(写真)一般のチベット人たちに教えを説く僧ケルサン・イェシェ。
タウ出身の在ダラムサラ元政治犯ロプサン・ジンバは、1997年に僧ケルサン・イェシェと一緒にインドに亡命し、彼が再びタウに帰った時も会っているという。タウ・ジンパは彼に関する情報を以下のように伝える。「僧ケルサン・イェシェは1997年にインドに亡命し、南インドのガンデン僧院チャンツェ学堂で7、8年学んだ後、再びタウに帰った。ニャンツォ僧院に帰った後、彼は一般のチベット人や子供にチベット語と仏教、チベット文化を教えるクラスを開いていた。そのこともあり、彼は篤い尊敬を集めていた」という。
僧ケルサン・イェシェはタウ県クノル郷テワ村の出身。父の名はジャンパ、母の名はドルジェ。
カム、タウ県における焼身抗議者はこれで5人目である。
2011年8月15日:ツェワン・ノルブ、ニャンツォ僧院僧侶、29歳、死亡。
2011年11月3日:パルデン・チュツォ、ジャンジュップ・チュリン尼僧院尼僧、35歳、死亡。
2013年6月11日:ワンデン・ドルマ、ダクカル尼僧院尼僧、31歳、死亡。
2014年4月15日:ティンレー・ナムギェル、牧民、32歳、死亡。
チベット内焼身抗議者136人目。内外合わせ141人目。この内116人が死亡している。
チベット亡命政府は相次ぐ焼身抗議を受け、22日、中国当局に対し、重ねてチベット人の苦しみに目を向けるよう要請している。また、「焼身の責任も解決も中国政府側にある」として、「政治的弾圧、宗教的弾圧、同化政策、経済的疎外、環境破壊が焼身の原因である」と明言している。一方、亡命政府はチベット人に対し「抗議の方法として焼身等の激しい方法を選択しないように」という訴えを繰り返している。
参照:12月23日付けRFA英語版
同チベット語版
12月23日付けTibet Timesチベット語版
12月23日付けphayul
12月23日付けICTリリース
12月24日付け時事通信
井早智代さんが描かれた僧ケルサン・イェシェに捧げる絵。
内地焼身抗議・主な抗議活動発生地地図(2014年12月24日付け、Tsampa Revolution 製作)
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)