チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2013年2月27日
<続報>24日チャキュン僧院で焼身したパクモ・ドゥンドゥップ 病院に向かう途中両親共々拘束され行方不明 焼身の背景
井早智代さんが、24日焼身のパクモ・ドゥンドゥップと25日焼身のツェスン・キャプに捧げるために描かれた絵。
RFAとVOTが伝えるところによれば、2月24日にアムド、ツォゴン地区バイェン県(青海省海東地区化隆回族自治県)にあるチャキュン(ジャキュン、བྱ་ཁྱུང་དགོན་པ་、夏琼寺)僧院内で焼身したパクモ(ラモ)・ドゥンドゥップは、その後すぐに現場に呼ばれた両親に連れ添われ、西寧にある病院に向かった。
彼は車に運び込まれる前、まだ意識がある時、回りの人々に対し「もしも、私に情けをかけるなら、殺してくれ、殺してくれ」と重ねて懇願したという。車には両親と兄弟の1人が乗り込み西寧の病院に向かったが、その途中で軍と警察の車に止められ、パクモ・ドゥンドゥップは両親、兄弟、運転手とともにどこかに連れさられ、その後行方不明となった。一部のチベット人は彼は今、西寧の軍病院に収容されているという。
彼は短い遺書を残していた。その中には「チベットは独立し、自由になるべきだ。ダライ・ラマ法王をチベットに」と書かれていた。
当局は地域の住民たちが焼身者の家族の家に慰問のために向かうことを禁止し、僧院の内外、焼身者の村に続く道には部隊が配備され厳重な警戒が続いている。
パクモ・ドゥンドゥップが焼身抗議を行うに至った背景としては、チベット人全体への弾圧がもちろん考えられるが、これに加え、この地域特別の事情も加味していたと思われる。
2008年3月、チベット全土に抗議デモが広がった時、このチャキュン僧院の僧侶や付近の村々の住民も抗議デモを行った。この時以来、僧院と今回焼身を行ったパクモが暮らす村を含む付近の村々は当局の特別の監視対象とされていた。
去年6月中には、この僧院の会計係であった僧ダクマル・ペルギェ(43)が金目当てに押し入った警官に殺されるという事件があった。マと呼ばれるその警官は僧侶を殺した後、遺体を派出所近くの穴に投げ捨てていた。このことを知り、大勢のチャキュン僧院僧侶と地元のチベット人が派出所に詰めかけ、原因を明らかにするよう求め、小競り合いが起った。(詳しくはhttp://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51752238.html)
昨年からチャキュン僧院には愛国再教育チームが度々訪れ、僧侶たちに法王批難と共産党賛美を強要していた。特に昨年終わり頃から僧院や村には政府の役人が来て反焼身教育を行っていた。VOTによれば、「僧院のすぐ傍にあったパクモが住むサカル・ゴンワ村には県と郷の役人が来て緊急会議を招集し、村の民衆に対して、法律を守り社会の安定を維持し焼身に反対するよう要求した、もし焼身が起こったら焼身者とその家族を厳罰に処し焼身者の子どもは学校から退学させ関係する親戚を逮捕する、と警告した」という。
また、チベット歴の正月を前に当局は僧院に対し、正月を盛大に祝うよう命令していた。これに対し、僧侶や住民たちは、今年の正月は喪に服す正月として、焼身者たちを供養するために宗教的儀式のみを行うことを決めていたという。
彼が住んでいた村は僧院に近く、常に僧院と連帯した行動を取っていた。また、この村は標高が高く、水に恵まれないこともあって、特に貧しい村だった。村で窓にガラスが入っているのは、一番裕福な一軒の家だけという。焼身したパクモも貧しい家の次男だったという。
参照:26日付けRFA中国語版http://www.rfa.org/mandarin/yataibaodao/shaoshuminzu/d-02262013150748.html
26日付けVOT中国語版http://www.vot.org/?p=22755
26日VOTチベット語放送分http://www.vot.org/wp-content/uploads/2013/02/tib_26_02_2013.mp3
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)