チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2013年1月29日
ウーセル・ブログ「焼身したアムチョクの遊牧民、ツェリン・タシ」
1月12日に焼身、死亡したツェリン・タシ(写真とその説明は全てウーセル・ブログより)
ウーセルさんは1月15日付けのブログで、1月12日にアムド、アムチョク郷で焼死・死亡したツェリン・タシさんの追悼文を書かれている。その前半で、これまですでに4人の焼身者を出したアムチョク郷が1950年代、中国共産党の侵略に抵抗するために如何に激しく抵抗し、その結果多くの犠牲者をだした土地だということを記されている。今回も焼身者を多く出している土地と過去の凄惨な歴史は関係があると論じられているのだ。
後半は当ブログですでに伝えた、ツェリン・タシの焼身の状況等の報告であり、重複する部分が多いので省略した。詳しくは:http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51776148.html
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51776361.html
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51776603.html
原文:http://woeser.middle-way.net/2013/01/blog-post_15.html
翻訳:@yuntaitaiさん
◎焼身したアムチョクの遊牧民、ツェリン・タシ
二日前の1月12日、厳冬の雪の高原から、若い遊牧民が焼身抗議で犠牲になったという痛ましい知らせが届いた。
彼の名はツェリン・タシ、22歳。アムド、アムチョクの住民だ。近年、次々と焼身しているチベット人のうち、2013年で最初の焼身烈士になった。
アムチョクは耳たぶのような地形で有名と言われ、「仏法僧の三宝を崇める」という意味の名前だとも言われる。歴史的にもとても有名だ。
現在の行政区分では、アムチョクは甘粛省甘南チベット族自治州夏河県の鎮の一つで、10の村を管轄するだけだ。だが、歴史的にはアムチョクはかなり大きな遊牧の集落だった。アムチョク上8部と下8部から成り、エリアは広く、遊牧民は多い。ゲルク派のラプラン僧院の分院、アムチョク僧院で有名だ。しかし、アムチョクの全ての集落は1950年代、中国共産党の軍隊と粘り強く戦った末、ほとんど壊滅するほどの鎮圧を受けた。
アムチョク生まれのターイェー・リンポチェ・テンジン・ペルパル(扎益仁波切丹增华白尔)は重要な記録「わが故郷の悲史」を著した。当時の鎮圧を「残忍非道な大虐殺」と呼び、痛ましく書き記している。
一方、共産党側の関連する記述は、1950~58年の「反乱」と呼ばれる戦争について、勝利者と占領者の口ぶりで得意げに誇示している。例えば、「アムチョク反乱」「アムチョク事件」といったように、だ。「馬に乗って刀を振るった」り、「銃を持った」りする遊牧民の抵抗者に対し、共産党は歩兵や騎兵、更には空軍まで動員し、「反乱平定」を進めた。そのような記録をネットから適当に抜粋してみよう。「1958年4月2日、甘南軍分区は騎兵第1、3連隊(1中隊を欠く)と歩兵中隊を集中させ、アムチョクの反逆者を包囲、攻撃の目標とし、(中略)一挙に敵1500人以上を全滅させた」「1958年4月2日、(中略)空軍独立第4連隊は杜-4型爆撃機を出動させた。(中略)アムチョクに飛び、地上部隊と協力して総攻撃に出た」
私は以前、次のように書いた。「過去や現在の出来事についてアムドのチベット人と話すと、老人であれ若者であれ、誰もが『ンガ・ジュ・ンガ・ジェ』(58年の意)、または『ンガ・ジェ』(58年の省略形)に触れる。1958年前後、中国の軍隊と政権はチベット全土、特にアムドで各家庭にまで及ぶ災難を引き起こした。『ンガ・ジェ』はチベット人の記憶に深く刻み込まれた。文化大革命まで『ンガ・ジェ』と呼ばれるほどだ。『ンガ・ジェ』とは、いわゆる『解放』後のあらゆる災難の集合体だ」。
「反逆者」として鎮圧された遊牧民は事実上、刀剣と平凡な銃だけを頼りにしていた。それ以上の殺傷力を持つ武器は全くなかったが、たとえほぼ壊滅させられるとしても、50年代に戦闘をやめたことはなかった。だから、あるチベット人は昨年、「当時のアムチョクと共匪の激しい戦いは甘南チベットの誇りだ!」とツイッターに投稿した。
2008年3月18日、アムチョクの遊牧民は抗議行動を起こした。世界に注目された2008年のチベットの抗議――私はそれを「ネズミ年の雪獅子の咆哮」と呼んでいる。この年は農暦のネズミ年で、雪獅子は自由を求めるチベットを表す――の中で、アムチョクの抗議は突出していた。当時の抗議映像のうち、外国メディアの記者に撮影された一場面は「ネズミ年の雪獅子の咆哮」を象徴している。ある映像では、チベット人たちは馬に乗ったり、走ったりしながら伝統的な雄叫びを上げ、経文を印刷した紙片(ルンタ)をまき、砂ぼこりが舞う中を勇敢に前へと突き進んでいた。別の映像では、羊の毛皮を着たチベット人たちが郷政府に集まっていた。若者数人が皆に持ち上げられ、ポールから中国国旗を引きずり下ろし、地面に捨てて引き裂き、自分で描いた雪山獅子旗を掲げた。
当局の鎮圧を受け続けている抗議の嵐の中、2009年以降、チベット本土の99人(1月29日時点では101人)が焼身による抗議という形で炎に身を包んだ。甘粛省甘南チベット族自治州だけで21人も焼身している。女子中学生1人とラサで働いていた青年1人を除けば、全員が遊牧民だ。甘南州夏河県では11人もの遊牧民が焼身した。夏河県アムチョク鎮には焼身者が4人もいる。
ツェリン・タシが焼身する映像。彼は炎の中で両手を合わせ、「ギャワ・テンジン・ギャツォ(ダライ・ラマ法王)、ギャワ・テンジン・ギャツォ……」と声を上げた。
集落の伝統的な区分に従えば、甘南州の焼身者21人のうち、実際は少なくとも16人がアムチョクの遊牧民だ。1950年代に起きた「反逆者」殺りくの生存者の子孫だ。このうち、61歳のドゥンドゥップは昨年10月22日、次のような遺言を遺してラプラン僧院で焼身した。
「ラプラン僧院の僧侶と地元の若いチベット人は焼身を選んではいけない。命を大切にし、民族の未来のために努力、貢献してほしい。私や古い世代の者は1958年と1959年に共産党政府の迫害や拷問を受けた。だから、私やほかの高齢者こそが焼身を選ぶべきだ」
この遺言からは、血の涙に染まった集団的記憶が今もチベット人の心に刻まれているのだと分かる。生存者の口から伝えられ、子孫の心に刻まれいく。これこそが真相だ。「解放」されて「幸福な生活」を送っているというような、占領者が大音量で誇張する虚像とは全く違うのだ。
2013年1月14日 (RFA特約評論)
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)