チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2012年7月21日
ブルッセルのチベット人たち
フィンランド上空。デリーからヘルシンキ経由でブルッセルに向かう。フィンランドがこれほど島だらけとは知らなかった。
先月終わりから今月初めにかけて、ベルギーとイギリスに行って来た。ベルギーはチベット人や日本人の友人に会うため、イギリスは娘に会うためであった。最初、娘(次女ニマ)の卒業式に出席のはずだったが、直前に娘から「ごめん、卒業試験落ちちゃった。だから式ないよ」と連絡が入った。次女らしいとしか言いようがない。フライトキャンセルするのも面倒で金が掛かったので、久しぶりにただ会うために行く事にした。
今回はブルッセル編で海外に移住した亡命チベット人たちの話を中心に書く。次回は次女と旅行した北スコットランドの島の写真等。ゆるい旅行報告である。
ブルッセルと言えばこのグランパレスと呼ばれる広場がもっとも有名。昔の市庁舎前広場である。ここには40年前に一度来てるが、もちろん全く変わっていない。何年経ってもあまり変わらないというのがヨーロッパの良さである。パリが好きなわたしはもちろんここも好きである。
ブルッセル観光につき合ってくれた2人のチベット人。右のクンサンはラサ近郊出身の元尼僧。毎年冬の休みに私の家に住み着く4人の尼僧の1人だった。左はその友人でアムド、サンチュ出身のヤンチェン。10年以上デリーのマジュヌカティーラ(チベットキャンプ)でパンを作って売っていたそうだ。
クンサンは一年前にベルギーで難民認定を受け、今も政府の援助で暮らしている。ヤンチェンは4年前に来て、今は野菜の選別工場で働いているという。
広場の周りにはしゃれたカフェが並ぶ。が、彼らと一緒だとそんな所には決して座らない。スーパーで買って用意してある飲み物を出して、広場の角に座って休む。
ウィンドーには高級品が並ぶ。彼女たちが足を止めるのは、女性用装飾品の店。中にはチベットから持って来たと思われる、トルコ石や珊瑚、瑪瑙が並んでいることが多い。「ぎぇ、これって中国製って書いてある。ネパールって書いてあることも多いわね。チベットなのにね。それにしてもすごい値段だこと」と言うのである。私「ほんと高いね。10倍か20倍だね。2人もいつかこんなので商売したらよ。もうかるぜ」。彼女たち「私たちが商売なんてできる分けないわよ。お金もないし、計算もできないんだもん」。
彼女たちがこの街をどう感じてるのかは分からないが、私は私で懐かしいヨーロッパ風情を楽しんだ。
チベット人たちの多くは中心街の南の方の地区に住んでいる。そこは一般にはアラブ人街である。ベルギー在住の日本人に言わせれば、危なくて決して行きたくない地区だそうだ。チベット人たちも本当はそこに住みたくないんだけど家賃が安いから仕方ないのだという。この日は路上バザールが開かれてたが、行き交う人のほとんどはアラブ系だった。彼らの多くも難民として移住して来た人という。最近のアラブ諸国の騒動のあおりで難民が急増したらしい。
チベット人が集まって住んでるアパート。このアパートの一階と二階に友人が住んでいた。
左手の壁に絵が書いてある。近くにある裁判所に関係するなんだか由来のある絵だそうで、観光客がわざわざ見に来るという。
このアパートの二階に住むのが右手のガワン。彼女もかつてうちに毎年冬に来てた尼僧。ラサ近郊の出身。80年代終わりから90年代初めにラサで中国に対する抗議デモが頻発したとき、彼女もデモを行い、逮捕され、拷問を受け、3年の刑を受けている。刑期終了後インドに亡命し、ダラムサラのドルマ・リン尼僧院に所属していたが、5年ほど前にベルギーに難民として移住した。今は彼氏と一緒に暮らしている。仕事は劇場の清掃という。給料は1500ユーロ。家賃が450ユーロ。彼氏と共働きなので、生活はまあまあゆとりがあるという。
私は最初ホテルに泊まっていたのだが、左のクンサンを訪ねた時、「ホテルなんてもったいない。ここに泊まるといい。私はガワンのとこに泊まるから」と言う。その屋根裏アパート家賃350ユーロにその後数日泊まったが、案外広くてキッチン、トイレ・シャワー付き。快適だった。彼女は政府から月々750ユーロの援助金を貰って生活している。なんとか生活できるという。もちろん今は円に比べユーロが特に安いということもあるが、日本(東京)に比べ食料、家賃が安くて、日本よりは随分生活しやすそうだと思った。
この日はモモを作ってくれた。肉と小麦粉は特に安いので、これもチベット人にとって生活し易い点かも知れないと推測。
一階に住む、アグ・ルトの家族。ここでも夕食をごちそうになる。アグ・ルトも9-10-3の会のメンバーで元政治犯。ルンタ・レストランが開店したときの最初の料理人の1人だった。非常に懐かしい旧友である。再会を多いに喜びあった。彼もラサ近郊の出身で、元ガンデン僧院僧侶である。ガワンと同じく80年代終わりにデモを行い、逮捕、拷問、刑期を受けている。7.8年前にベルギーに渡り難民認定された。仕事は街の清掃掛かりという。給料は1700ユーロ。ここで結婚し、今は元気な男の子が1人いる。幸せそうだった。
ベルギーには全部でチベット人が1500人ほどいるという。政治的イベントも活発に行っているが、彼は今も政治意識が高く、いつもその世話役を買って出ているという。
チベットの田舎で生活していたころには、将来こんなヨーロッパの都会に暮らすことになろうとは夢にも思わなかったことだろう。
ブルッセルには欧州議会の本部がある。これがその建物。これまでに何度もチベット問題に関する決議案を議決してくれている。法王やセンゲ首相も議会でスピーチする機会を与えられている。
ま、難民への対応といい人権問題への対応といい、どこかの国とは雲泥の差である。
ブルッセルから北に電車で1時間半ほどのとこにある、運河で有名な美しい街ブルージュに日帰り観光した。
古い教会が多く、中世がそのまま残る、静かで落ち着いた町並み。天気も良く、のんびり観光客気分を味わった。
私はヨーロッパに行けば、教会があれば必ず入りそこで休むのが習慣だ。しかし、同行したチベット人は教会に興味を示さず、なかなか一緒に入ろうとしない。無理に連れ込み「ほらどうだ、ゴンパに似てるだろう。キリストの一生が描かれてる。ゴンパで仏陀の一生が描かれてるのと同じだろう?」と、「あ~、そうだね」と言わせる。
その他、ブルッセルでは日本人にもお世話になり、その人の紹介でチベット仏教にどっぷりハマってる外人さんとか、日本を救うためにこれから日本に乗り込むと意気込む日本人ハーフの学者女史にも会った。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)