チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2012年3月25日

2011年3月16日、ンガバのキルティ寺院で何があったのか(下)

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07a5202e(上)http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51735733.html
(中)http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51736473.html
に続き@uralungtaさんが翻訳・解説して下さったもの。

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2012年3月16日付のウーセルさんのブログ「看不見的西藏/Invisible Tibet」で転載紹介されたインタビュー「“他们认为我们害怕武力镇压,他们想错了”――与格尔登寺僧人的访谈,纪念平措自焚一周年【转】」http://woeser.middle-way.net/2012/03/blog-post_16.html の日本語訳の最終編です。仮名の僧侶「アンサーA」さんが語る体験の、2011年3月16日の部分が終わり、証言は、翌17日から後の話に移っていきます。

2日目〔3月17日〕、昼の12時ごろ、プンツォの家族が〔キルティ寺院に〕来ました。
前日彼は焼身した後、軍人たちにひどく殴りつけられ、僧侶たちが彼を奪い返して、小さな車で彼を寺院に送り戻したのだそうです。その時彼はのどが渇いたと言って水を飲みたがり、お椀1杯の水を飲みました。そのとき、彼の父親が「〔水を飲んで容態が悪化して〕持ちこたえられなかったら、どうするんだ?」と言うと、彼は「アバ〔父さん〕、心配しないで、もうガソリンをしこたま飲んでるんだ」と答えたのだそうです。それからまもなく、彼は何度か真っ黒な液体を吐いて、この世を去りました。

私たちは同じクラスです。キルティ寺院の伝統では、同じクラスの学生にこのように禍福の出来事が起こったときには、いかなる人にも権力にも干渉されることなく、すべての決定権はこのクラスに帰属します。
その日〔17日〕の晩、私たちは経文を唱え、追悼祈祷法要を営む準備を整えました。彼の遺品や持ち物は寺院の同じ学年とクラスのものとなり、私たちは彼の遺品を使って彼のための法要を営むことになったのです。その当時、〔ほかにも〕この英雄の遺品を欲しがる人がいて、とてもたくさんの僧侶と一般人が我先にと争って彼の遺体に五体投地の礼を繰り返しました。それで私たちはプンツォの大きな写真を1枚探してきて設置し、民衆と僧侶が五体投地礼をできるようにしました。
彼の遺品を整理している時、彼がノートにこのような文を書き留めていたのを見つけました。
「運命と確信があれば勝利できる。失望と懸念は失敗である。」
私はこの目で彼の書いた文字を見ています。たくさんの人たちが、これらの遺品を保存して歴史の証拠としたいと考え、皆が「キルティ寺院とあなたの同学年、同級生に感謝します!」と言っていました。ロプサン・プンツォの携帯電話はある一般人に買い取られました。「英雄の遺品として秘蔵する」と言っていたそうです。

中国政府は、私たちのクラスの読経師〔読経の先導を努める指導者〕のタシを尋問しました。彼らの〔尋問〕理由は次のようなものでした。「この事件はキルティ寺院で起こり、しかし具体的にはあなたの学年のクラスで起きたことである」私たちはもともと、〔プンツォの〕遺体を数日間安置する予定でしたが〔*1〕、中国政府は突然、次の日〔18日を指すと思われる〕にはプンツォの葬儀を執り行うよう命令しました。

*1: チベットでは肉体から離れた魂を次の輪廻に向かわせるため僧侶が一定の時間に所定の経をあげ、葬儀を営む時間もチベットの暦学天文学によって決められます。遺体の取り扱いについては石濱教授が訳出されたロバート・バーネットの解説のなかhttp://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-entry-606.htmlでも触れられていて、チベットの文化の中で(チベット人が自らの文化を尊重されていると実感するために)非常に重要であることがわかるのではないかと思います。

私たちのクラスは、予定の時間通りに追悼や加持などの仏事を営み、〔葬儀の儀礼〕2日目は最高の格式ある儀礼としてセルデン(僧侶の儀仗、錫杖)を並べてプンツォの遺体と写真を迎えました。涙を流さない信者はいませんでした。女性たちは慟哭して言うのでした。「ギャワ・テンジン・ギャツォ(ダライ・ラマ法王)の事業〔*2〕のために、チベットの民衆の幸せのために、身を炎に捧げられた……」
寺院から、僧侶と一般人が手にカターと香を捧げ持って彼の遺体を迎える列が長く続き、また、大きな声で一斉に詠唱される「カンリラウェ・コルウェ・シンカムドゥ……」(ダライ・ラマ法王長寿祈願の詩偈)の唱和が響きました。もうすぐ火葬台に到着しようかという時、ドンク・ツァン・リンポチェが香を捧げ持って引導し、クラスの僧侶全員で遺体を火葬台におさめました。そこに、鉄で作られた箱がありますが、その箱が火葬台です〔*3〕。遺体を火葬台におさめる前に、ドンク・ツァン・リンポチェはロプサン・プンツォの遺体を三度、高く掲げて民衆に仰ぎ見せ、その場のすべての人々はただただ慟哭しました。
このようにして、この1日〔18日〕は終了したのです。
(ここまで話が及ぶと、アンサーAは涙で声が詰まり言葉が出なくなりました)

*2: 法王をチベットに迎えること(チベットに帰還させること)を指すと思われます。
*3: 「そこに」などの指示語が出てきて意味不明ですが、昔撮ったか当日撮ったかした写真を作家か僧侶のどちらかが持参していて、その写真を示しながら会話したのではないかと思います。

RFAやVOAを通じて伝えられた情報では、ンガバは翌17日も緊張した状態が続き「僧侶らはデモをしようとしたが住民たちに止められた」(チベットNOW@ルンタ2011年3月18日http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51638223.html)といいます。また、ウーセルさんが華人作家朱瑞さんとともに聞き取りをした記録(日本語訳はチベットNOW@ルンタ2011年3月23日http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51640593.html)によれば

17日午後から18日早朝まで、ゴンパの3000人以上の僧侶がプンツォのためにお経をあげた。三千数百人の住民が列を作り、手にカタを持ち、お経を唱え、プンツォに敬意を表した。

という記述があり、このあたりのできごとを当事者の目から語られたものです。

6cfb15f33日目は、なんの動きもなく終わりました。

4日目、私たち何人かが、参拝者の捧げるカターを受け取っていたところに、一人の若い僧侶が走ってきて「彼らが、キルティ寺院の宗教活動を禁止するんだって」と言いました。このような叫び声が何度も聞こえましたが、後になるまで、私たちは具体的な意味は何も分かりませんでした。私は、その時には、もし宗教活動を禁止させることができるなら、そりゃすごいことだ〔やれるものならやってみろ〕、と思ったものです。

1カ月後、タルギェとジャプ・ツォンドゥが逮捕されました。私たちクラスの学生も全員がブラックリストに入れられました。その後さらにテンジンとナクテンが逮捕されました。彼らが逮捕された口実は、彼らがロプサン・プンツォとチャカン〔茶館〕で焼身の計画を相談したとして責めを負わせるものでした。それによると、彼らが相談して、毎年1人ずつ焼身、もしくは一緒に焼身することを計画したと〔いう荒唐無稽な作り話で〕非難されたのです。

またしばらく時間が経ち、〔寺院内では僧侶たちに〕詳細な氏名や本籍などを登録させられ始めました。その当時みんなが取りざたしたのは、他の〔四川省以外の〕省〔出身〕の僧侶が追い返されるのではないかということでした。
ある日、僧侶たちは大経堂の前に集まって貴重品を出し合い、加えて「今晩は絶対に1人の僧侶も彼らに連れて行かせない」と言い合いました。寺院に突入してきた軍人と何人かの僧侶が対峙して、僧侶と軍人はほとんど顔をつきあわせるほどの距離でにらみ合いました。僧侶たちは「キルティ寺院の僧侶は全員が一蓮托生だ、もし僧侶の何人かでも拘束して連れ去ろうとするなら、ほかの僧侶が手をこまねいて傍観しているわけにはいかない」と言い渡しました。それからすべての僧侶が大経堂前に呼び集められ、私も行きましたが、ほどなくして皆また僧坊に戻りました。
その晩、おびただしい幹部と軍人が〔突入して〕来て、僧侶たちを無理やり連れ去り、酷く殴りつけられた僧侶も少なくありませんでした。
その日の夜は、さまざまな種類や様式の〔軍と警察の〕車両が集められてきていて、もし何か厳重な問題が発生したら、ある車にはすべての僧侶を徹底的に消滅させて遺体の痕跡さえなくす武器が装備された特殊車両があった、という者もいました。もちろんそれが具体的にどんな武器なのか私には分かりません。
その日の夜、軍人と幹部たちは私たちを、賊を捕らえるように捕まえてひきたてて、汶川県と茂県〔両方とも四川省阿壩州内のより成都に近い町〕に護送しました。車両1台に二十数人の僧侶が押し込まれ、兵士2人が僧侶1人を押さえつけ、合計で二十数台の車両で僧侶が護送されました。1本のだだ広い大通りを走って連れ去られましたが、その間、他のいかなる車も公道上で見ることはありませんでした。
その後、私たちは7つのグループに分けられ、18人ずつ1部屋の牢に収監され、そのまま1カ月以上拘束されました。なかには負傷した僧侶が数多くいました。
私たちは外部の消息を何も聞くことができず、彼らは私たちを騙し続けました。
二十数日後、幹部たちは大声で私たちを罵りました。「お前たちは法を犯した。外地の寺院で学ぶには手続きが必要なのに、お前たちはその手続きをしていない。だから法律違反だ」

ある日、ある僧侶が「あなたがたはチベット人の生命を蹂躙している。私たち〔僧侶〕を寺院で生活させないのは、我々の権利と民族に対する侮辱である」という文章を書きました。このことがあって、状況はいったん非常に緊迫しました。私たちも何日間かハンガーストライキをしました。
1カ月以上経って、私たちは身柄を送還されて各地に戻りました。
だいたいこのような状況で、さらに詳しいできごとは数え切れないほどありますが、簡単に経過を言って、ここまでにいたします。

RFAやVOAなどで当時報じられた内容で補足すると、この当時、亡命チベット社会では政治的な代表者を民主的に決める選挙が実施され、その様子はチベット本土にも伝えられて、チベット人の意識が盛り上がっているころでした。一方、ンガバのキルティ寺院は軍と警察によって封鎖され、電気や水を断たれ、僧侶たちは寺院の中のツァンパで飢えをしのぐしかなくなり、突入を試みる軍警と阻止しようとする人たちが一触即発の状態にあると伝えられ、4月中旬以降、武力行使を止めるようチベット支援団体やチベット亡命政府が国際社会への呼びかけを繰り返していました。
プンツォの関係者が逮捕された知らせは2011年3月29日ごろ(日本語記事こちら)、軍と特殊部隊の突入は2011年4月21日(日本語記事こちら)と伝えられています。
記事と比べると、Aさんの目の前で起きたことはほんとうに断片的です。ロプサン・プンツォと同じクラスで「ブラックリスト入り」していた彼は、寺院の他の僧侶たちから「守られる」側にいたと類推されます。情報を遮断された寺院内に閉じ込められ、さらにそのなかで身を隠し、全体的な状況がよく分からないまま、大経堂前に集まったり、僧坊に戻って身を潜めたりしながら、ただ翻弄され、突入した特殊部隊に連行されたのかと思うと、若いAさんがひたすら気の毒でなりません。

オーサー:
ああ! なんと大きな苦難に遭われたことでしょう。あなたに感謝いたします!〔*4〕

*4: 僧侶はチベットのため、衆生のために苦難を引き受けたので、衆生として犠牲に感謝申し上げる、という意味で感謝しているのです。

アンサーA:
私たちの拠り所となるお二人の師(ギャワ・リンポチェとキルティ・リンポチェ)も、〔私たちの〕チベット人のための抵抗の闘いを止めることはできません。私たちの心の中はいま、これ以上耐えられない苦痛に満ちています。中国政府は私たちが武力弾圧〔されること〕を怖がり、発砲に怯え、萎縮すると考えていますが、私はそんなことはありえないと思います。
私たちの抵抗する敵は、広大な中国人民や開明的な見識ある知識人グループではありません。私たちの真の敵はこの政権です。日々私たちに加えられている鎮圧、騒ぎ立てたと〔いう口実で〕強められる規制は、ンガバ地域の民衆にとってもこれ以上我慢し続けられない限度に達しています。さらには、チベット人幹部も多くの人がもう我慢できないと感じているのです。

アンサーC:
今回、キルティ寺院の僧侶300人以上がこの弁論大会に参加しましたが、どの僧侶の心の中も、みな深く大きな苦痛と苦悩にふさがれています。1人1人心理的な素質は異なりますから、直面する問題やそのあり方も異なりますので、一つ一つを詳細に述べることはできませんが、既に多くの時間を割いてしまいました。今回はここまでにいたしましょう。タ・デモ(どうぞお大事に)〔アムド語の挨拶〕。

オーサー:
はい、そうですね、タ・デモ。チベット3区〔カム、アムド、ウツァンのチベット全土〕の人々の心のなかには常に貴方がたキルティ寺院の愛国英雄たちがあり、たくさんの英雄の息子と娘を永遠に心から支持して尊敬します。私たちにとって最も重要なことは一致団結することであり、私が今回ここへ来たのも、貴方がたを支持するためで、つまるところ、私たちは永遠に一つに結ばれているのです。

原文はチベット語により2011年12月にアムドにて記録されたもの。
中国語翻訳:サンギェ・キャプ

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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