チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2011年8月31日
ウーセル・ブログ:地震から1年3カ月 慌ただしく訪ねたジェクンド
ウーセルさんは夫の王力雄さんと供に先の7月26日、昨年の春大地震に襲われたジェクンド(ユシュ、ケグド、玉樹)を訪れられた。
今日のブログにその報告をアップされている。
雲南太郎(@yuntaitai)さんがこれをさっそく翻訳して下さった。
原文:http://p.tl/CjFe
原題:震后一年多,匆匆见玉树
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写真説明…写真は7月26日にジェクンドで撮影。2枚目の写真で白い服を着ているのは私だ。
◎地震から1年3カ月 慌ただしく訪ねたジェクンド
ジェクンドを訪ねる心中は複雑だった。昨年4月14日に大地震が起き、数え切れない住宅が壊滅し、数え切れない命が失われた。それ以前にジェクンドには何度も行き、半月ほど滞在したこともあった。ジェクンドの風土、人々には強い思い入れがある。印象深いのは、あるリンポチェが図書館を建てたことだ。仏教関係に限らず、チベット語を中心として中国語や英語などの本も収蔵していた。
地震から1年が過ぎた時、私は「ジェクンド住民が語る震災1年」という文章を書いた(日本語版はhttp://p.tl/jbh7)。知り合いの地元民が話してくれたジェクンドの近況は、外部に漏らしてはいけないタブーがあるというものだった。一つ目は土地と住宅に関すること。二つ目は学校と生徒に関すること。三つ目は法会などの仏事に関することだ。だから私はこう書いた。「復興はとても難しいようで、天災と人災が二重の打撃をつくり出している。再建計画の青写真は頻繁に変わり、タング村が赤い屋根の簡易住宅でモデル地区になっているのを除くと、大多数の被災者は依然としてテントに住み、不自由な暮らしを送っている」
では現在、7月26日のその日、ジェクンドは果たしてどういう状況だったのだろうか?
ジェクンド中心部から遠くないジャナマニに到着しようとしていた時のことだ。交通警察だけではなく、特殊警察や年配の私服警官が突然私たちの車を遮った。特殊警察は若くてあか抜けたチベット人だった。王力雄の身分証を確かめた時、チベット語で一言「こいつだ」と漏らした。これが通常の検査ではなく、特に私たちを対象にしたものだと分かった。
私たちは解放されたが、尾行してくる車があった。しかしジャナマニでは何も気にせず下車し、無数の信徒によって復元されたマニ壇を1周した。1周に1時間以上かかった。多くのチベット人は黙々とコルラ(右繞)していた。巡礼路から青い救援テントが並んでいるのが見えた。コルラ中のチベット人に尋ねると、もう1、2年か2、3年は住まなければいけないかもしれないといい、「自分たちには分からない」と心配そうに話した。次に青と白の制服を来た小学生の下校に出くわした。ジェクンドには小学校しかなく、中学生以上は漢族地域で勉強しているんだと子どもたちは言った。子どもたちには笑顔があった。
ジャナマニの近くでかまどに大鍋がかけられていた。コルラする人たちのためにボランティアでお茶をいれていたおばあさんが私の手を強く握りしめ、家はどこかと聞いてきた。私はただ「ラサです」と答えてむせんでしまい、何も言えなくなった……。ジャナマニの周囲には砂ぼこりが舞っていた。マニ石の「オーム」の文字に積もったほこりを払おうと、若いチベット人の女性が体を折り曲げ、息を吹きかけていた。しかし、車と重機が行き交っており、激しくまき上げられた砂ぼこりがマニ石の表面をすぐに覆ってしまった……。
夕暮れが近づいた頃、記憶の中のジェクンドとはまったく違う知らない場所に来たような気がした。砂ぼこりに満ち、とても騒々しい一大建築現場に変わったように思えた。各工事の企業や機械、入り乱れて殺到した各地の人々が忙しそうに動き回り、私は感慨を覚えて「まるで中国全土の工事業者がジェクンドに駆けつけたみたい」と言った。もう1年3カ月以上たったのに、ジェクンドは爆撃されたばかりの戦場のようで、どこも崩れた廃墟ばかりだった。
3台の車がずっと私たちを尾行していた。とても接近して走っていて、明らかに一種の警告だった。私たちが現地の友人と接触し、実際の状況を知ることがないようにしたいのだろう。もし会えば友人にとって面倒なことになるのではないか。私たちは市街地を一回りするしかなかった。ようやく宿にチェックインした時、四川省から来た工事の親方が「仕事が終わったのに、1週間以上待っても金を受け取れない」と怒っていた。「ここらの役人はとんでもなく金を懐に入れてるんだ」
その夜はなかなか眠れず、今までかいだことのないにおいをずっと感じていた。まさか地震で亡くなった人たちのにおいが今も残っているのだろうか?私は王力雄にそう言った。
2011年8月24日 ラサにて
(初出はRFA)
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)