チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2011年7月10日

雲南北部旅行その6:氷湖へ(前編)

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DSC_0464レクバム(雨崩)村に到着した日の夕方、車をシェアーしたグループに食事を一緒にと誘われた。話題は次の日、どこに向かって歩くのか?この村を拠点に3つの日帰りトレッキングコースがある。1つはカワカルポ峰のベースキャンプの1つでもある大本営とも呼ばれる氷河湖がある地点まで。所要往復7時間。登り多し。2つ目はパドマサンヴァバが修行した場所としてチベット人には有名な聖滝まで。所要往復5時間。楽な道。3つ目はこれもパドマサンヴァバに関係する聖なる湖までのコース。これはその聖湖の標高が4350mとも4700mとも言われ、辛い登りが予想される、コースの距離が40kmと聞かされ、これを一日で歩くなんて、しんど過ぎる!と思われるコース。道が不明瞭なためガイドが必要とも。

皆はまず氷湖に行こうということに決めた。私も最初からその積もりだったので、朝8時に一緒に出かける事に合意。グループとはスウェーデンの若者と彼のパートナーのアメリカ女性とその友人のアメリカ女性。それに中国人の若者1人。

写真は村のはずれの仏塔と荷役のロバに仲間のスザナ。


DSC_0467これも村はずれにあった。良く観察すると平面が曼荼羅風になってることが分るタルチョ掛け。

DSC_0470しばらくは、心地よい苔むした針葉樹の森が続く。

DSC_0486清い小川のほとりには日本で言うところの「賽の河原の積み石」が何カ所かで見られた。
以下Wikipedia日本の「賽の河原」の説明、面白いのでコピペ。
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賽の河原
積み石
三途川の河原は「賽の河原」(さいのかわら)と呼ばれる(「賽の河原」と呼ばれる場所も、後述の恐山のものをはじめとして、日本各地に存在する)。賽の河原は、親に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが賽の河原で、親の供養のために積み石(ケアン)による塔を完成させると供養になると言うが、完成する前に鬼が来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまうという俗信がある。このことから「賽の河原」の語は、「報われない努力」「徒労」の意でも使用される。しかしその子供たちは、最終的には地蔵菩薩によって救済されるとされる。ただし、いずれにしても民間信仰による俗信であり、仏教とは本来関係がない。
賽の河原は、京都の鴨川と桂川の合流する地点にある佐比の河原に由来し、地蔵の小仏や小石塔が立てられた庶民葬送が行われた場所を起源とする説もあるが、仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神である賽(さえ)の神が習合したものであるというのが通説である。
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チベット仏教には日本で言う「三途の川」や「賽の河原」はないが、その基にになった三悪趣(地獄、餓鬼、畜生)の河のことは知っている。石を積むという行為は一般に峠をに石塚をつくることは有るが、河のそばはあまり一般的でないと思う。
何のためなのか?タルチョと同じく「幸運を呼ぶため」の祈りの塚なのか、墓の一種のつもりなのか?村人に尋ねていないので不明。
DSC_0473登りが続き始めた。前日の雨で道はぬかるんでいる。荒れた主道を避けるようにいろいろな間道、近道が森の中を登っている。みんな勝手な道を選び始めた。靴がぐちゃくちゃになる。数時間我慢の登りを耐えたあと小さな峠に到る。写真はそこから見えるパーボ・パーモ(勇士勇女)峰6000m。氷河の水が幾筋かの滝となって流れ落ちる岩壁の下にあるはずの湖が今日の目的地。

DSC_0572峠を越えると小川の流れる草原が広がっていた。夏場の放牧のための集落跡があった。今はほぼ廃墟状態。トレッカーの休憩所となってる。そこヤーかディと思われるやつが上がって来た。トレッカーの余り物を漁ってた。今も夏場この辺で暮らすヤーもいるようだった。

DSC_0490小川のそばにいたWhite-capped Water Redstart 19cm。かつてダラムサラの野鳥として紹介したことがあるhttp://p.tl/2q7nhttp://p.tl/2q7n。ジョウビタキの一種。

DSC_0495この辺りの草原の至るところに群生していたサクラソウ科のプリムラ・シッキメンシス。ネパールヒマラヤでも水辺でよく見かけた。

DSC_0506手元に高山植物の図鑑がなく、名称は不明。標高3500m付近。

DSC_0516赤いシャクナゲ。ダラムサラにも赤いシャクナゲはあるが、ダラムサラのは大木で花ももっと群れて咲く。こちらは灌木程度の高さ。

DSC_0560黄色いシャクナゲ。

写真が多いので、今日はここまで、後半はまた明日以降へ。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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