チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2011年7月7日
雲南北部旅行その5:レプバム(雨崩)村へ
ナムカ・タシ=吉祥なる虚空、と訳せるかも知れないカワカルポ一望の地。中国名の「飛来寺(フェイライスー)」の方が有名。カワカルポ観光ブームに乗り急速に新しいホテルが林立し始めている。標高3400m。
この写真はメコン川上流であるザチュ河を隔てたカワカルポ側の斜面から撮ったもの。
デチェン(徳欽)は飛来寺の裏の谷の奥にある。
飛来寺からその日朝向かった西当村とその上の温泉。
夕方ナムカ・タシに到着し、すぐに目についたユースホステルに部屋を取る。この辺のユースは中国人若者で溢れている。ホールには必ずビリヤード台があり、夜遅くまで大声出しながらはしゃいでる。運悪くその日の部屋はホールの隣だった。うるさくて眠れない。中国人はとにかく大声でよくしゃべる。
夕方あたりから旅行者同士が乗り合いタクシーの仲間集めをしてるのが目についた。カワカルポ方面のトレッキングをやるにはまず、一旦谷底のメコン川に掛かる橋を越えないといけない。川まで1000m以上下る。歩けなくもないが、ほとんどの人は車に乗る。この車一台が150元。人は7人まで乗れる。私も朝、外人4人と中国人1人のグループに合流した。
歩いてる途中に張り出してあったこの辺の地図。左手南北に走る「太子雪山」と書かれたカワカルポ連山が目当ての山々。主峰はカワカルポ(カワカブ)6740m、連山の中には6000m以上の峰が6座ある。それも何れも未踏峰。
右上に「徳欽」とあるのところがデチェン。その左下に飛来寺。そこから車でメコン側まで下り、橋を渡る。この手前に検問所があり、国立公園入場料の名の下に1人80元を徴収される(中国人も同額)。高い入山料と思う。橋を渡り「西当」という村を過ぎ、村の裏の谷の奥にある「温泉」まで車は行く。この温泉本物とのころ、帰りに入ろうと思う。
温泉からは歩き。まず3700mの峠まで約千メートル以上ひたすら登る。その後3200mのレプバム村(雨崩)まで今度は下る。
この地図の中でついでに、その後で歩いた場所を示しておく。次の日には雨崩の左手に「大本営」と書いてある、ベースの一つまで歩いた。そこには氷河湖がある。またその次の日には「神瀑」とある「聖なる滝」まで歩いた。
この地図はチベット人リンチェン・ドルジェとツェリン・チュペルの書いた「カワカルポ巡礼案内書」の付録。
村や山のオリジナル・チベット名が分る。
村の標高などは上の地図との違いが目立つ。雨崩村の標高はこちらでは3600mになってる。
ザチュ河沿い、シャルタン(ཤར་ཏང་東の草場)村。なぜこの村が中国語では西当なのか?きっと音からか。
村にはカム東方の周辺部に多く残っている、「望楼」の崩れた跡らしきものがあった。もっともこの「見張り塔」、本当に見張りのためだったのか?お香を炊く尖塔だったという説もある。きっと戦時には見張りや、ろう城の砦になったかも知れず、平時には香炉だったりしたかも?と思う。今はただの観光資源。
この日はサカダワの中日を過ぎて2日目。チベット中に名の知れるこの聖山の巡礼に来ているチベット人に多くすれ違った。
途中の休憩所でラサから来たという、ばあさまたちと話を交わした。ばあさまたちはサカダワの初めにラサを貸し切りバスで出発したそうだ。3、40人の団体となり、途中いろんな有名巡礼地を巡ってここまできた。ここが最終目的地で、これからラサに帰る、とのこと。ほとんど6,70歳以上のお年寄りばかりとも。年寄りにしては、中国の若者がひよってロバに乗って登る中、さすがチベット老人みんな元気そうに歩いていた。
巡礼乞食のような人にもであった。直接「私はチベットの巡礼者だ。巡礼を続けるために助けてほしい」と言って来る。「どこから来たの?」と聞くと、「ティングリ/定日」の方からという。「へ~それは遠い。ご苦労様!」と少々のお金を渡した。ふと、かつてウーセルさんのブログを介して紹介した、ジェクンド地震により家族を失い、巡礼を始め、ラサに現れ、「これからカワカルポまで巡礼に行く」と言い残して消えて行った人の事を思いだした。
最初の峠付近。ロバに乗って登ることもできる。子供や中国人の若者が乗ってる。
この辺りには実に色んな種類のシャクナゲが見られる。おそらく10種類以上は観察したと思う。色も、この白に、赤、ピンク、黄色と色々。
峠を越え真下に下レクバム(གླེགས་བམ་雨崩)村が見いて来た。ここで、小雨が降り始める。
上レクバム村に到着。5、6時間歩いた。
雨がひどくなったので村の入り口の宿らしき建物に入る。広い土間に薪ストーブがあった。ストーブの前にいる1人の女を囲い男たちが5、6人いた。「部屋は無いか?」と聞くと「まあここに座れ、とストーブの前の暖かい長椅子の一角が与えられた。彼らの話ている言葉はチベット語のようであったが、全く聞き取れない。こちらからダラムサラ語で話掛けてみる。答えが中国語で帰ってくる。その内「どこから来たのか?」と聞いているらしいことが分り、「にほん、リーベン、ジャパンからだ」と答えるも、誰1人解してもらえず。「そこは、どのシャン(郷)なんだ?」としつこく聞く。「ラサの近くなんだなきっと?」と言う者も。みんな不思議そうな顔でこちらを眺め始めた。
そこに、1人の恰幅のいい、金持ちそうなチベット人お兄さんが入って来た。
村で泊まった宿。お勧めの「カンツォ・ドゥンカン(氷湖之家)」。
で、そのお兄さんはラサ語が話せた。彼はダラムサラにも行った事があるそうだ。話が弾み、彼が時々みんなに通訳していた。が、このとき私は少々疲れており、早く部屋で横になりたかった。部屋のことを聞くと「今、宿のオーナーが外に出てて部屋のことは分らない。待ってたらよ」とのこと。
せっかく集団の先頭にでて早めに部屋を確保しようと思っていたのに、待たされる。外はひどい雨。
ラチ空きそうにないと、雨の中を次の宿に向かう。
次の宿の狭い台所に入ると、若い男女が何か料理を作ってた。まあ座れ、「プチャ(チベット茶)」を飲めと火のそばに座らされる。普段はあまり好きでない、プチャが乾いた喉に心地よく、何杯も飲んだ。部屋はあるか?と聞くも、ここでも、あるある、まあ待てと部屋にはすぐにありつけない。
非常に腹が減っていたのでまず、何か食べることにした。
目の前の薪ストーブの上で調理される料理は格別にうまい。
2人の若夫婦がおじさんがオーナーの宿を任されているのだと後で分った。
それが、無給なんだって。23歳の奥さんの方がこの村の出身で旦那(25)の方はカムの八宿(パシュ)の出身と。旦那とはなんとか話が通じた。
その他、宿には中国人の若い女性がボランティアと称して住み込みで手伝いをしていることがわかった。その内の1人は最近6年日本にいたという。日本語べらべらだった。「貯めたお金が無くなるまで旅するわ。綺麗な自然がこんなに残ってる場所はもうチベットしかないんじゃない?最初に来た日に空は晴れてて、山がすべて見えたわ。夜には星がすごかった。しばらくここに居ようと決めたわ。そのうちチベット人の彼氏も見つけたりして、ははは」と。
相当待って通された部屋はトイレ、シャワー共同で20元。眺めの良い窓のある木張りの部屋。ネパールトレッキング中の宿を思い出させた。
歩き始めた温泉で別れたつもりだった、車相乗りグループの内のロシア人を除く4人が後から同じ宿に入って来た。
村の農家。ブタを飼ってる家が多い。その他鶏、牛、馬、ロバも飼ってる。高地の草原にはヤクやゾを見かけた。チベットの田舎の家の一階は基本的に家畜の部屋。冬には特に床下暖房の効果が期待できる。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)